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「終章」(Jongleur vol.3「死にゆく感覚」より)

昨日、Electrik神社(東京・六本木)にて、Jongleurというイベントに出演した。詩の朗読をしたのである。そのライブの末尾で読んだ文章を以下に掲載する。


「ロックンロールは鳴りやまない」と歌ったアーティストがいた。まったくもって同感だ。そして鳴りやまないのはロックンロールだけではないだろう。ジャズが、ヒップホップが、メタルが、ポップスが、クラシックが、ブルースが、テクノが、ファンクが、レゲエが、あるいは、あるいは、、、。そう、音が鳴りやむことはない。ジョン・ケージが「4分33秒」で示そうとしたのは音楽が鳴りやむことはないということではなかったか。4分33秒の一見無音かと思われる楽曲は、わたしたちに耳を澄ますことを促してくる。

つねに何かと何かが接触している。接触し続けている。そして、接触のあるところには、かならず音が発生する、感覚が発生する、意識が発生する。聴こえる聴こえないにかかわらず、あるいは意図するしないにかかわらず、この世は音に満ちている。わたしたちが体積を持っているということは、それだけこの身体が接触の器であるということだし、意識の度合いを高めていけばいくほど、この身体は無限大の音響空間となる。試しに両耳を塞いでみよ。ごうごうとあなたの血が鳴っているのが聴こえるはずだ。あなたは生きている。あなたはなっている(鳴っている、成っている、生っている、為っている、綯っている)。わたしは生きている。わたしはなっている(鳴っている、成っている、生っている、為っている、綯っている)。

うるさすぎるほどの沈黙ではないだろうか。エドヴァルド・ムンクが彼の代表作である《叫び》で描いたのは「自然を貫く果てしない叫び」であった。彼には耳を塞ぐほどの轟音が聴こえていたのだろう。そして彼は耳を塞ぐのだが、それでも音が止むことはなかったはずだ。こわかったことだろう。彼自身もまた自然の一部であり、その彼自身が、彼の身体自体が鳴り、叫んでいたからだ。

ライブが終わる。Jongleurたちも家に帰る。だが音は鳴りやまない。ここに居合わせたみなさんも家に帰る。だが音は鳴りやまない。わたしたちはいつか死ぬ。だが音は鳴りやまない。悲嘆することはない。わたしが、わたしたちがいなくなっても、音は鳴り続けるのだから。鳴り続けているのだから。こわいだろうか、終わらないことが。あるいはすでに始まってしまっていることが。恐れることはない……とはいえない。これがわたしたちが生きている世界なのだろう。その世界の音なのだろう。生きるということの重みなのだろう。生き延びることの、ではなく、存在してしまっているということの。

鳴らし続けよう。誰かが聴いている。わたしがいなくなったあとも誰かが奏でている。その明るさ。

さあそろそろ、わたしたちも沈黙に帰るとしよう。騒々しいほどの沈黙に。

本日はありがとうございました。

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