第2回三服文学賞受賞作「水のからだ」全文掲載
この夏、第2回三服文学賞にて大賞を受賞しました。このnoteには、受賞作であるエッセイ「水のからだ」の全文を掲載します。約2,000字です。是非ともご一読ください。
(以下、本文です)
水のからだ
わたしの目の前に、一杯のお茶がある。「一杯の」というように、それは実際には器に容れられており、器の形状の制限を受けてこの形にとどまっているものをわたしたちはお茶として名指している。もし今この瞬間、この器が消えてしまったら、お茶は形を失い、卓上をひたひたと拡がっていくことになるだろう。この原稿も濡れるはずだ。そうはならないのは、この器が立って、お茶を支えているからだ。そう、器とは、まずは流動性を矯めるものである。
ところで、本を読むときの姿勢は、まるで器を手で支えもっている姿のようではないだろうか。たとえるなら文庫本は片手でも持てる小さなグラスで、ハードカバーの大部な本は高価な茶碗のようだ。そして、本が器であるならば、白い紙面になみなみと湛えられているのは黒いインクたちだ。そのかぐろく照り映えている水面を眺めるようにしてわたしたちは本を読む/飲む。もちろんそのすべてを味わうことはできないが、読んだ/飲んだ液体の一部はわたしたちに溜まっていく。なぜならわたしたち人間もまた器だからだ。わたしたちのうちには言葉という水が張られている。わたしたちは語る、そうして己の液体を少しずつ溢していく。あるいは聴く、そうして他者の声をうちへと染み入らせる。言葉は、セルに収められた単なる情報ではない。だから、わたしたちはわたしたちのなかでないまぜになっているこの水から、自ら、任意の一滴を取り出して与えることはできない。何かを語ろうとすれば同時に予期せぬものをもたらしてしまうし、口をつぐもうとしてもこの器からはいつも何かが漏れ出てしまう。わたしたちは穴の空いた器だ。
飲んだ液体は尿として出ていくのみならず、皮膚からも出ていくし、呼気にも蒸気として混ざっている。あるいは、食べたものは消化されて肛門から排泄されるが、それだって、ただ物質が消化管を通過するだけの出来事ではない。食べたものの一部がわたしの一部に取ってかわり、わたしだったものの一部が排泄物として出ていく。全体としては何も変わっていないかのように見えるけれども、微細なレベルではわたしたちは変化の渦中にある。わたしたちは摂取したものと自らを交換し、交感しながら生きているのだ。穴を開いては閉じ、穿っては塞いでという絶え間ない繰り返しこそがわたしたちの生である。人間は管状になっていて、さらに小さな穴が無数に空いているからこそ、そこに流れが生まれるのだ。逆に、この流れが止まってしまったり、すべてが流れに飲み込まれてしまったりしたときは、わたしたちの死だ。多すぎず、少なすぎない流れのうちにわたしたちは、ある。
さて、ここまで器、器と口にしてきたが、器という言葉は「うつほもの」に由来しており、「空」(うつほ)を語源に持っている。器においては、空の、何かを受け入れる部分こそが重要なのだ。その空っぽさが生きるときにこそ器は輝く。つまりは何かが入っては出ていく瞬間だ。あるいは、わたしたちの器であるところのこのからだもまた「から」だと言える。「空」であり、「殻」でもあるこの器は、それぞれに特異な柄、形状、肌理、重みを備えている。水によってほんの少しずつ削り取られ、死への傾きのうちにいるわたしたち。どうしようもない仮初めのこのからだ。でも、この器がまた別の器と出会うとき、このからだは満ちていく。器の口と口とが出会って、ふたつの流れはひとつになる。そうして、他者と触れあうことで己の形を確かめることのできるわたしたちは、ふたり一緒に生成する。あなたは「あなた」を、わたしは「わたし」を発見する。他ならぬこの「あなた」と「わたし」が脈打ちはじめるのだ。
本との出会いもまたそのようなものであろうし、言葉とはただの意味以上のものだ。はなからわたしだけの言葉なんてものは存在しない。わたしが発するどんな言葉も誰かから教わったものだ。すべてが借り物なのである。だからこそ、仮初めの器であるわたしたちは、先祖から受け継いだ言葉を使って表現をし、次代へ向けて送っていくのだ。器から器へ、という授受こそが流れを生む。今あなたはこの文章を読んで/飲んでくれている。あなたの水面へと言葉が辿りついては、あなたのなかの言葉と混ざりあう。そしてそれが呼び水となって新たな流れが生まれるだろう。一部は気化していくかもしれない。別の一部は凝固するかもしれない。だがいずれにせよ、あなたという器が存在していればこそ、言葉の大きな流れが迸るのである。
さあ、流れよ。ある流れから飛沫いた水がまた異なる流れへと着水し、そして波紋を拡げていく。浮かんでは消える。消えてはまた浮かぶ。移ろいゆく儚い現象、ゆえに色めく一口の器。
ぽちゃん。
(以上です)