煙草をほんとうに愛するには煙草をやめなければならない
わたしの住んでいるシェアハウス界隈のひとがどんどん禁煙し始めている。わたしは『禁煙セラピー』を読んでやめたのだけれども、その禁煙開始日と同じ日に、シェアハウスによく出入りしているVが体調が優れないからという理由で禁煙を開始したとのことだった。それ以外のひとたちも、『禁煙セラピー』を回し読んでは続々と禁煙を開始している。なんだかこんなとき、集合的無意識のようなもの、あるいは、わたしたちが共通して浸っている共同幻想のようなものの「実在」を感じずにはいられない。煙草をやめるという流れが来ているようだ。もちろん、煙草をやめた理由はそれぞれ異なっている。
わたしは禁煙に関するnoteを何本も書いている(下記参照)。
わたしがこんなにも禁煙ネタをこすっているのは、煙草をやめたときの快楽を反復したい、やめ‐続けていたいという思いがあるからなのだろう。卒煙なるものは、ほんとうは存在しない。一度煙草を吸ってしまったひとにできるのは、日々煙草を吸わないでいるという選択だけである。ノンスモーカーに限りなく近づくことはできるかもしれないが、同じことと似ていることとは、決定的に違う。でなければ、あなたにとって煙草はなにほどのものでもなかったということになってしまう。煙草を吸っていたときはそれを愉しんでいたはずだし、やめるのだって、苦楽に差はあれど、息を吸って吐くように自然にできたはずはない。
そして、純粋なるノンスモーカーには戻れない、ということ、それでいいと思う。悲しむほどのことではない。テニスンは愛する友を失って『イン・メモリアム』という詩集を作った。そこに、冒頭に引いた「愛し、そして喪ったということは、いちども愛したことがないよりも、よいことなのだ」という一節がある。煙草を一度も吸わなかった人生よりも、煙草を一度は愛して、それでやめた、という人生の方がいいに決まっている。少なくとも煙草を吸ったことのあるひとにとってはそうでなくてはならない。煙草をやめることによって、はじめてわたしは煙草(とひとつ)だったことがわかる。
ヘーゲルが『法の哲学』(第七二、七三節)で述べていることであるが、ひとは、所有者であることをやめることで所有者になれる、という逆説的な事情がある。所有しているから譲渡できるのではなくて、譲渡できるからこそ所有もできるのである。煙草を吸えていたことがはっきりするのは、煙草をやめたときである。それまでは喫煙者としては半人前だ。煙草をやめ続けることによって、わたしは煙草を我が物とする。
わたしは死にゆきとして生きている。だからこの生はみずみずしい。
わたしはノンスモーカーへのなりゆきである。だから煙草をめぐる経験が鮮やぐのだ。
今日もわたしは煙草を吸わない。そしてそのことで、わたしは煙草を愛することができる。