喫煙と禁煙の往還にこそ自由はあった
煙草を1本だけ吸った。セブンスターメンソールだ。失意も憂いもない。ただ、100日間続いた禁煙が一時途絶えただけだ。
その日の飲みはとても楽しく、3軒目で友人が働いている渋谷のバーに入った。この日一緒に飲んでいたSさんは今はセブンスターメンソールを吸っていて、これはわたしが禁煙前によく吸っていた銘柄でもあった。煙草を吸いに外に出るSさんと369くんについていって、1本もらった。
大きな感動はなかった。いつも通り吸っているような感覚だった。セブンスターメンソールが禁煙前と同様に美味しく感じたのは不思議だった。
わたしは『禁煙セラピー』に沿って禁煙してきたが、この本の記述は必ずしも正しくないようだ。同書には禁煙をやめたときの最初の煙草は美味しくない、ということが書いてあったが、この日に吸った1本はとても美味しかった。このことを説明しようと思ったら、わたしから煙草が美味しいという洗脳が抜けていないか、それとも、『禁煙セラピー』の記述に誇張があったか、だと思う。理由を同定するつもりはない。この日、楽しく美味しく喫煙の時間を過ごすことができたということがただうれしい。
それからもうひとつ。『禁煙セラピー』には1本吸ってしまったら元通りになってしまうということが書いてあった。どれだけのスパンで禁煙期間を計るかによるだろうが、約1週間経った今、特に吸いたいとは思っていないから、この記述にも今のところ納得がいかない。
『禁煙セラピー』には、禁煙者に対して多少の脅しが入っていると思う。その脅しには合理性があると思う。禁煙に成功した(つまりはその先一度も煙草を吸わなかった)ひとにとっては、その脅しが正しいかどうかは関係のない話だからだ。わたしにかかっていた『禁煙セラピー』の魔法はその一部が解けてしまった。
つまりわたしはいま、禁煙からも自由になっているということである。『禁煙セラピー』を読んで喫煙から自由になれたように、1本だけ吸うことで禁煙からも自由になったのだ。わたしは今、とても軽やかだ。危うい軽やかさだ。ともすれば喫煙生活にも戻りかねないし、煙草を忌避する禁煙者にもなりかねないところにいる。
問題は吸うべきタイミングで煙草を吸い、そうでないタイミングでは吸わない、ということだ。そのタイミングは煙草を吸う前から判断できるわけではない。わたしはやっと今、煙草を正しく吸い始めることのできるところに立っている気がする。だがここに立ち続けることもできない。わたしは、喫煙/禁煙を、そのそれぞれの享楽が最大化するタイミングで移動できるようでありたい。波を乗りこなすこと、生きること。
こうやってわたしは煙草について書いている。禁煙について、喫煙について。だがそれさえどうだっていいのだ。たかが煙草じゃない、と今なら言える。吸ったって吸わなくたってどうだっていい。吸いたくないのに吸うような惨めさからはもう解放された。吸いたいのに強いて我慢する窮屈さからはもう解放された。そしてその吸いたいという気持ちが惰性から来るものであるとしたらそれを拒むこともできる。わたしは煙草を吸いたいのでも、吸いたくないのでもない。
結局自分を正当化しているのではないかというと、それも違うだろう。すでに正当化する根拠さえ失ってしまっているように思われる。わたしは自分を肯定しているが、同時に自分を否定してもいる。そもそも肯定するにも否定するにも、自分の足場を掘り崩しすぎた。わたしは喫煙者として語る言葉を持たない。そして禁煙者として語る言葉をも持たない。この灰色の間。ただ煙草を咥えては消すだけだ。あるいは煙草を吸わないでいるだけだ。自分がない。そしてだから自分がある。煙草の本体はどこにあるのか。あの紙巻か、それとも煙か。火は紙巻の否定である。だが火を消せば紙巻は煙草としては不十分なまま終わる。逆に火を大きくして紙巻を燃やし尽くしてしまったら、そのときは火も消えてしまう。燃えつつある、というそのことが煙草の意味であって、煙が美しいのはそれが紙巻と火とのバランスであるからだ。もう言葉を尽くすのはよそう。
Sさんから1本もらって煙草を吸っていたとき、Sさんと369くんからは「その方が人間味がある」と言われた。坂口安吾は「堕落論」の最後でなんと言っていたか。
人間。やっと降りてくることができた気がする。
そしてまた……
100円でも投げ銭をしていただけますと、大変励みになります。よろしければ応援よろしくお願いします。