禁煙者だけが吸うことのできる至高の一本について
禁煙してから2ヶ月半が経つ。おれの周りのシェアメイトや友人たちも次々と禁煙しはじめていて、今は喫煙者の友人を数えあげる方が易しいくらいになってしまった。
禁煙していると煙草を吸う夢を見ることがある。再び吸ってしまわないか、という恐怖心の現れなのだろうが、かくいうおれも、やっちまったと思い、目覚めては、その度ごとに安堵する、ということを繰り返している。煙草を吸う夢をよく見るひとは禁煙の成功率が高いのだ、と先日シェアハウスに遊びに来た禁煙の先輩であるKくんが教えてくれた。ならばおれの禁煙生活は順調なのだろう。なんならこの前、シェアメイトの宇治田くんが見た夢の中でさえおれはばかすか煙草を吸っていたらしく(宇治田くんは夢の中でそれを怒ってくれていたらしい)、他者の夢の中でも煙草を吸っていたのだから、おれは禁煙界の有望株に間違いない。
でもおれは夢の中で煙草を吸ってしまったとき、失意のうちにありながらも、どうせ吸ってしまったのなら、と煙草を享楽してもいる。夢の中で吸う煙草は格別においしいのだ。でも、この煙草をどこで手に入れたかもわからないし、何の銘柄かも書いていない。このことをこれまた宇治田くんに話したら、それは煙草のイデアを吸っているんじゃないか、なんておもしろいことを言う。そう、夢の中では特定の何かに出会うことができない。おれたちは夢の中では、あくまで抽象化、象徴化された「それ」に出会うことができるに過ぎない。
煙草もそうだし、ひともそう。たしかに特定のひとが夢に現れることはある。でもそれは、そのひとの「おもかげ」とも言うべきものであって、今まで出会ってきたそのひとのおもざしがそれぞれ別個の限りなく薄い紙に印刷されて、それらが重ね合わされた総体を前にしているようなものではないか。
おれは何千本、何万本という煙草を吸ってきた。おいしい一本もあったし、まずくて吸えたものではないような一本もあった。いろんなシチュエーションで吸ってきた。オール明けに朝日を眺めながら吸って食らうヤニクラには気持ちよさがあったし、重労働ののちに自分を慰撫するように吸った一本もおいしかった。何時間も続いている飲み会の途中で眠気を覚ますために惰性で咥えもしたし、気合いを入れるために吸った煙草を二、三吸いで捨てたこともあった。おれが思い出せない一服はいっぱいある。いや、思い出せない一服の方こそがほとんどだ。でも、おれが、このおれの意識が覚えていなくても、おれのからだ、おれの無意識はそれを覚えている。過去に煙草を吸ってきた経験は、おれのあずかり知ることのない、ずっと深いところで、刻み、熟成され、一本の煙草へと巻かれていく。それをおれは夢の中で口にするのだ。煙草のイデア。だからそれは旨いに決まっている。煙草への執着がすべて燃え尽きるまで、おれは夢の中で繰り返しそれに火を点ける。最後の一本とは、夢の中で吸うその一本に他ならない。おれが7月1日の16時1分に吸い終えたゴロワーズはまだ最後ではなかった。夢の中で、このより深いところで、あの一本を燃やし尽くさねばならないのだ。それが卒煙の終わりだ。この一本を吸いきらなければならない。煙草はやめるためにこそ吸われねばならなかった。吸い始めたのは終わりを迎えるためだ。人生と同じく、終わるためにこそ始まるのだ。禁煙者だけが吸うことのできる至高の一本。そのためにこそ、おれは煙草を吸ってきたのである。