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2回目の大学講義の振り返り

このところ好きな本を読めておらず、文章を書けておらず、よくないな、と思っている。思いながらも、今は大学の授業に集中すべきタイミングだとも思っている。90分講義をする、という時間感覚がまだ養われておらず、この前の授業では、とうてい語りきることができないほどの内容を詰めこもうとしてしまった。反省だ。一部の学生を取り残してしまったきらいがある。おれにとっては2回目の授業だとしても、学生にとっては他の授業と変わらぬひとつの大学の講義であって、中途半端な講義をしていてはいけない。

授業では、様々な文献を引用していて、引用した文章と引用元をリストにしたものを配布することにしている。リーダーシップとアート、というのが授業のテーマであるが、どちらも解釈の余地を多分に残している概念であり、さくっと定義づけたからといってそれで片付けてしまえるような代物ではなくて、いろんな文章を頼りにしながら、そのすがたを浮き彫りにしていきたいと思っている。やはりおれのよく読んできた本からの引用が多くなるが、それでも、講義を準備するなかで閃くように思い出す文献もあり、おれ自身が、自分の過去の読書体験を編みなおしているような気分にもなっている。

大学の授業をするのは大変だ。高等教育で、教える相手が「大人」だというのが大きいと思う。何コマも授業を持っている教員はすごいと思うし、それと同時に、授業を捌いていこうと思ったら、ある程度システマチックに、つまりは単なる効率的な「情報」の授受になるざるを得ないのだろう。

与えることは受け取ることより難しい。ニーチェの言葉だったか、それか別のどこかに書いてあったような気もするが、この言葉が思い浮かぶ。どこに書いてあったかを調べる余力はない。今おれは低気圧を食らっていて、ベッドのうえで布団から頭と片手とを出して文章を書いているのだから。起きられない。

与えるとき、申し訳なさがある。もらうときも申し訳なさがあるけれど、どうしてどちら側も申し訳なさを感じないといけないのか。今日の人間が「ミニ国家」(ヴィム・ヴェンダース)と化していて、その個々人の枠組みを越えるものが歓迎されないことによるような気もしている。ニーチェはたしか、欲しけりゃ勝手に奪え、とツァラトゥストラに言わせていたと思う。

レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』からも引用している。ブラジルの先住民、ナンビクワラ族の首長の話で、それが今日のリーダーシップと関わってくるということを言おうとしたのだ。曰く、首長は知的な気前のよさを持っていないといけない。与え方を学ぶこと、これはリーダーシップに必要なことなのだろう。

今回担当しているこの授業は、メタ的なリーダーシップの学習ともなっている。というのは、リーダーシップとは、あるいはその要素とは、と講義をして、その内容を伝達、再現するばかりでなく、この授業の運営自体においても、おれが行使するリーダーシップがあり、それを見てもらう、そこから学ぶ、あるいは反面教師にする、という学習の仕方を取らざるを得ないからだ。

今は筆がよく進む。思考のリソースがかなり授業に割かれていて、そのおかげで、細かい点を気にせずに書けている(気にすることができないという余裕のなさの表れでもあるのだけれど)。部屋の片付けもあまりできていない。部屋の汚さをそのひとの脳内の雑然たる様子に結びつけるような考え方ってあるけれど、ある程度は正しいのだろうな。だからこそ、思考が淀むときは部屋を掃除して、本棚を整理して、本の並びを変えたりということを積極的にした方がいい。

来週の授業は、ちょっと新たな試みをする。今度はたっぷり余白を取って。前回はおれも「真空恐怖」に飲まれていたんだ。反省はちゃんと生かす。

ヘッダー画像は風雨に落とされた金木犀の花々。灰色の世界に似つかわしくない鮮やかさで、咄嗟にカメラを向けたけれど、機械の不十分さを思い知るところとなるのみであった。花、があるんじゃない、花とおれとの出会いがあるんだ。それを岡潔は「情緒」と言ったんじゃなかったか。

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葦田不見
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