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ゴロワーズは煙草ではないので吸っても喫煙したことにはならない
煙草をやめてから100日が経った。禁煙アプリによると、禁煙本数は2,000本を数え、節約できた金額は60,000円を超えたらしい。ここまで順調に禁煙生活を送ってきた。煙草の煙に近づきすぎることなく、嫌悪しすぎることなく、ほどよい距離を保ちながらやってきた。
原稿の締切が迫ってきていて、おれは苦悶していた。かなり多くの文献を参照したし、準備は万端だったはずだが、妙に筆がノらない。集中して書こうとするのはいいものの、うまくいかないときというのは「悪い集中」とでも言えるような集中に入ってしまっていて、すぐに心身に疲れがやってくる。散歩をしたりして気分転換を図るも、またすぐに隘路に行き当たる。それで仕方なく、YouTubeを開いて(仕方なくというのは、ショート動画を見ていたらあまりに時間が経ってしまうことを知っているから)、「後で見る」に入れていた動画を見ることにした。
そのなかには、ムッシュかまやつによる「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」のライブ映像(1976年)があった。見ると演奏はティン・パン・アレーで、細野晴臣がベースを弾いている。荒井由実(ユーミン)がその演奏を聴いているという演出で、でもほんとうに聴いているだけで、パフェ(?)を食べながら落ち着きなく演奏を聴いている。
曲の一番が終わったところでムッシュかまやつはおもむろにポケットからゴロワーズを取り出してはくわえ、マッチで火を点ける。これを見た瞬間、おれにとってゴロワーズとは、ただの煙草の一銘柄ではなく、ひとつの美学だったということを思い出した。香りがいいとか悪いとかではなく、からだにいいとか悪いとかではなく、生きるスタイルだった。そのあともかまやつはゴロワーズをふかし、少し遅れ気味に歌詞を追うのだが、それさえもかっこいい。二番が終わると、細野晴臣にゴロワーズをくわえさせて火を点けている。そうして演奏が終わりに向かっていく。
この映像を見て、おれは、いつかゴロワーズを吸ってしまうだろうことがわかってしまった。なんとも情けない。いや、まだ吸っているわけではないのだけれども、どうしておれはゴロワーズを吸わないでいるのかと考えると、奇妙でならなかった。
屁理屈をこねくり回すようだが、おれはゴロワーズを吸うことはあっても煙草を吸うことはないだろう。なぜならゴロワーズは煙草ではなく、生存の美学だからだ。おれにとってゴロワーズは煙草に包摂されるものではない。似てはいるけれども、まったく質を異にするものだ。もう煙草は吸わない。でも、ゴロワーズはふかしたい。
これが苦し紛れの言明であることは誰よりもおれが一番わかっている。だが、こんなことを言わなければならないほどおれがゴロワーズに魅せられているとしたら、吸わないことの方が不健康ではないか。
おれにとってゴロワーズは、セブンスターでもアメリカンスピリットでも、ハイライトでもない。交換不可能な極点である。ゴロワーズがないからといって友達の一本をもらうとか、そういうことで満たされるようななにものかではない。ほんとうにだめだ。
ほどよく煙草を嗜むことができていればそれが理想だった。でもそれができないからおれは禁煙した。おれはゴロワーズだけに絞ったら細々と吸い続けることができるのではないか。
禁煙において、おれの指針はただひとつ。アレン・カーによる奇書『禁煙セラピー』である。でもこの本に、ひとつの銘柄をこよなく愛してしまったひとの「症例」は出てこない。出てくるのはいつも抽象的な煙草一般の話であって、そのひとがなんの銘柄を吸っていたのかということは書かれない。もちろんそのことに合理性はある。なぜなら多くの喫煙者にとっては、煙草なんて何の銘柄でもたいして気にならないからだ。でも、でも。ゴロワーズというひとつの生き方を選んでしまったひと、いや、選ぶとか選ばれるとかではなく、こう生きることを定められていた人間にとっては、もうどうしようもないんだよ。
そんなおれにゴロワーズをやめさせるというのは、その髪型をやめろ、その服装をやめろ、その喋り方をやめろ、とおれのスタイルを禁じようとする暴力に等しい。いや、こんな被害者ぶるような真似はやめよう。おれはゴロワーズを愛していて、禁煙セラピーを読んで、それでゴロワーズもろとも煙草をやめたのだった。自ら選んだことだった。大事なのは、流されるまま吸ったり、やめたりしないことではないか。右往左往し、右顧左眄し、自分をなくしていく。それが惨めだと思ったからおれは煙草をやめたのだった。でも、おれはゴロワーズを大事にすべきだったのではないか。恋人と別れて3ヶ月経ち、そうしてはじめて恋人が自分の一部だったことを思い知っているようなものだ。未練たらたらで無様だと思われてもよい。おれにしかわからないことがある。煙草をやめてみてわかったことがある。それは、ゴロワーズは煙草ではないということであり、おれにとってゴロワーズは、人生の大事な一部分だったということである。
そしてここまでゴロワーズへの思いを書き連ねてきたが、こうすることでいま、ゴロワーズを吸いたいという思いが軽く、小さくなっていっているのを感じる。ゴロワーズを吸わないとゴロワーズを愛せないわけではない。かまやつはゴロワーズをふかしていた。歌っていた。その姿はたしかにかっこよかった。でも、それがすべてではない。おれはゴロワーズの味を知っている。吸うことで、ゴロワーズを再現する必要はない。ゴロワーズはここにある。
おれがGAULOISESだ。
嗚呼!美しい!
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