脳梗塞で選手の道が絶たれても、甲子園を諦めなかった、一人の男子高校生の奇跡の物語。
こんにちは、翼祈(たすき)です。
この記事の本題は「脳梗塞」ですが、まずはその症状と原因などを説明します。
「脳梗塞」の症状は、片方の手足のしびれや麻痺(脱力)、言葉が出てこなったり、呂律が回らないなどの言語障害、視野が欠けるなどの視野障害、めまい、意識障害、歩行障害などです。
「脳梗塞」の発症を予防するためには、その原因を知っておくことが重要です。慢性腎障害や、糖尿病・高血圧・メタボ・脂質異常・高尿酸血症などの生活習慣病が代表例です。これらの病気は動脈硬化を次第に進行させ、そのうちに動脈が細くなったり詰まったりして、「脳梗塞」を発症します。
心房細動という不整脈も、「脳梗塞」の原因の1つに挙げられます。
この記事では、高校2年生の時に「脳梗塞」を発症した男の子は、選手ではなくても、甲子園への道の諦めなかった、奇跡の物語となります。
ある日突然、左半身に麻痺が残りました。医師から告げられた病名は「脳梗塞」でした。
ボールも取ることができない。走ることもできない。
懸命なリハビリを継続し、グローブでものを掴めるまでに劇的に握力が回復しましたが、以前の様な握力には戻りませんでした。
それでも、決して野球に関わることを諦めることはありませんでした。身体に麻痺が残っても「どうにかしてチームに関わっていきたい」。
「脳梗塞」を発症しても、大好きな野球とひたむきに向き合い続けた一人の選手がいました。
今回は「脳梗塞」を発症しても、努力することを止めなかった男の子と、チームメイトとの熱い友情について、語りたいと思います。
「脳梗塞」を発症しても、努力を絶やさず、チームメイトが連れて行ってくれた、夢の甲子園という舞台
夏の甲子園に初出場し初勝利を遂げた栃木県にある石橋高校で、マネージャーの男の子は憧れていた、悲願の甲子園のグラウンドに立つことができました。
2023年7月、石橋高校の野球部のエースを目指してピッチャーをしてました。
当時の3年生が引退して、選手として最後の1年を迎え、やる気に満ち溢れている時でした。練習中に2回、急にグラウンドに倒れ込みました。
男の子が感じたのは左半身の違和感でしたが、最初はすぐに落ち着くと、そうあの時は思っていました。
その3日後、自宅で目が覚めた男の子は左半身が完全に動かない状態でした。息苦しさもあって、迅速に病院へと救急搬送されました。
医師から伝えられたのは「脳梗塞」で、「元々先天的に脳の血管が細いことが原因ではないか?」という説明も受けました。
さらに「もう指先は動かないと思った方がいいでしょう」とも言われました。
絶望を感じたこの時の男の子の握力は『ゼロ』でした。ものが握れず、車椅子や補助がなければ歩くことがままならない様になりました。
男の子と野球部の中で1番仲良しなキャプテンもかなり動揺しました。キャプテンをメーンに同級生のチームメイトは、手書きのコメントを書いたしおりを病室まで届けてくれました。
“入院中の男の子を元気付けたい”という気持ちをしおりに込めました。
家族もなかなか面会ができない中で、チームメイトからの手書きのコメントを支えに、男の子はその年の夏を病室で生活しました。
入院中、よくテレビで観ていたのが夏の甲子園で活躍する同年代の選手たちのプレーでした。
「必ず俺も甲子園にみんなと行くんだー」。
そう心に誓って、全く動かなくなった左半身を少しでも動かせる様にリハビリに専念して頑張る決心をしました。
2ヵ月間の入院中に続けた懸命のリハビリの成果もあって、男の子は車椅子がなくても歩けるまでに回復しましたが、退院した時の握力は少し回復したものの『4キロ』でした。
2023年秋に退院した男の子は、進級するのに必要な出席日数がギリギリだったとしても、懸命にリハビリを継続していきました。
「甲子園でプレーできる選手として、野球部に戻りたい」という強い決意があったからこそ努力を続けました。
医師からは、「脳梗塞」の後遺症で麻痺が残った時には、個人差はあるものの発症から半年程度で回復する見込みがかなり低い数値になると伝えられていました。
それでも男の子は脳梗塞で自宅で倒れて救急搬送されてから約10ヵ月後、グローブを握ってボールを取れるまでに回復しました。
地道なリハビリなどを継続した結果、握力は『26キロ』まで回復していました。
日常生活でできない動作はほぼ無くなって、医師からは「通常では考えられない程の驚異のスピード回復だ」と驚かれました。
2024年3月、男の子は、ある大きな決断をしました。周りの選手が甲子園に行きたいと最後の夏に向けて練習を強化し、成長を見せる中で、その横で「脳梗塞」からのリハビリを継続していました。
選手として野球部に復帰するのは困難だと肌で感じ、監督に「マネージャーをやりたいです」と伝えました。
参考:病で握力がゼロに それでも僕は諦めなかった NHK NEWS WEB(2024年)
甲子園では記録員としてベンチ入りをし、チームメイト達を励まし続けました。チーム史上初の1勝を遂げましたが、3回戦で強豪・青森山田高校に負けて、最後の夏が終わりました。
男の子はチームメイト達に、甲子園への感謝の言葉を伝えました。
「キツかったリハビリをここまで頑張ってこれたのもみんなのお陰です。甲子園に連れて来てくれて本当にありがとう」
チームメイト達
『一緒に最後の夏まで、野球をやれて良かった。こちらこそ本当にありがとう』。
その人にしかできないことがある、その人にしかない悔しさもある
「脳梗塞」を発症しても、弛まない努力を続け、その背中に押されて、選手としては行けなくても、チームメイトが甲子園まで連れて行ってくれた、夢のある話だと思います。
この男の子にしかできないことがあって、悔しい経験をした気持ち、私も分かります。
私の場合、基礎疾患を20代前半で発症した時、本当に最悪レベルの数値で、「このまま自分の身体がボロボロになっていって、生涯を終えるのだな」と絶望をしました。
ただ、「この悔しい気持ちを抱えたまま、人生を終えたくない。病気になんかに負けたくない」という強い気持ちが私を突き動かし、最悪レベルから、血液検査の数値を半分以下まで持ってくることができました。
ただ、最近、その数値に甘んじて、気の緩みで、少し標準値より高いので、努力をしたら、きっとすぐに標準値に戻れると思っていますし、どうしても生理前に過食に走りがちなのがマズいですが、何とかしたいと思っています。
私はWEBライターになって間もない頃、自社メディアでの2作目の記事で、初めて公式の場で、基礎疾患があることを包み隠さず、話しました。
本当なら隠し通したかった事実。ですが、発症したきっかけの薬で、今なお私と同じ様に基礎疾患を発症してしまう人がいる現実を知って、「この負の連鎖を断ちたい」と思って、記事として書いたのが始まりでした。
重い病気なんかしたことない人には、私の声が届かないことはよく分かっています。
ですが、その病気などを体験した人だからこそ、発信できる内容や、伝えられる言葉がある。
この記事の本題の男の子も、その当事者だからこそ言える、悩みがとてもダイレクトに伝わってきました。
本当に心に響いた話でした。
もし私の声も、この男の子みたいに、誰かに届いているといい。
そう思いながら、今日も記事を書いています。