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哲学の最終解か?究極型パラダイムの哲学について考える。

インテグラル理論は哲学の共通点から導き出された。

ケン・ウィルバー(Ken Wilber)は、トランスパーソナル心理学者であり文明思想家である。広範な知を統合してきた業績から「意識研究のアインシュタイン」と呼ばれる。東洋哲学と西洋哲学を統合し、哲学や心理学など多くの学問を包括的した理論としてインテグラル理論を提唱した。

インテグラル理論は、哲学を含む様々な学問の中で互いに共通する構造を見抜き、そのなかで統合できる部分を中心にした理論である。

インテグラル理論は哲学の「ITパスポート」的存在だ。

現代哲学が難しいので、逆にインテグラル理論を学んでおくと「ああこのことね」と一気に分かりやすくなるのがインテグラル理論だ。

現代哲学ではデリダ、ドゥルーズ、フーコーの三人が中心人物として語られるが、彼らの見解もインテグラル理論の「物事は部分的に正しい、対立を乗り越えていく」という見解で一致している。

しかしインテグラル理論は「脱構築」とは相反するように見える。

しかし、現代哲学「ポストモダニズム」とインテグラル理論は「脱構築」という点について対立している。

(déconstruction の訳語) 西洋の伝統的な哲学(形而上学)の、統一的な全体性という考え方や二元論による説明を批判して、その枠組をゆるがせながら新たな構築を試みる哲学的思考の方法。フランスの哲学者、ジャック=デリダが唱えた。デコンストラクション。

コトバンク「脱構築」

ウィルバーの沈黙期間中、宗教・哲学・心理学の領域では一つの思想的潮流が席捲していました。ポストモダニズムです。「現代思想」と日本では呼ばれているこうした思想的潮流は、「哲学の死」・「物語の終焉」・「全ては解釈に過ぎない」・「真理はない」というような“合言葉”の下、あらゆる既成のものに対して脱構築という一種の再解釈を施していきます。また既成のものは、全て権威的であると捉えられ、あらゆる階層性や価値判断などが骨抜きにされていきます。むろん、こうした「現代思想」やポストモダニズムは、それ自体においては重要な時代的意義を背負っている思想的潮流であり、無下に否定されるべきものではありません。しかし他方では、この思想的潮流に潜むニヒリズムやナルシシズムは、ウィルバーに危機感を抱かせたようです
かくして、ケン・ウィルバー完全復帰の象徴となり一つの思想的金字塔となった著作が、『進化の構造』(原題:Sex, Ecology, Spirituality)です。これは、当時席捲していたポストモダニズムへの挑戦の書であり、同時に(当時、同じように時代の自己陶酔的な影響を多大に受けていた)トランスパーソナル心理学からの決別の書でもありました。

https://integraljapan.net/about_kw/about_kw.htm
ケン・ウィルバーについて

このようにウィルバー本人も脱構築に反発している。インテグラル理論は「全体性を求め、統合していく理論」なのだから、全体性を批判する脱構築は正反対に位置する。

対立あるところに統合あり

しかし、考えてみれば脱構築とインテグラル理論は本質的に反するものではない。

デリダの思想の代名詞となっているのが「脱構築」です。
それは、構造主義の言う「構造」を内部から破壊するための方法のことです。例えば、男性/女性という二項対立があり、男性のほうが社会の中で強い位置にあったとします。この二項対立を脱構築するためには、「男性」という概念そのものが「女性」なしでは、成り立たないことを指摘すればよいのです。

あるシステムにおいて、排除されたり、抑圧されたりするものがあったとしても、その抑圧されるものなくしては、システムが成り立たないことを示すことで、システムを内部から自壊に追い込むのです。

つまり、あるシステムの矛盾を突くことで、システムを破壊するのですが、それだけでは脱構築にはなりません。脱構築とは、システムによって否定されたものを「肯定」する思想なのです。

哲学や思想とは、現実の社会を変えるためのものです。
他者の自由と複数性を肯定する方向へと社会を変えていくために、根本的にすべてを「疑う」ことが必要なのです。

https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/c.php?g=774904&p=5559772
現代思想マップ: 脱構築

つまるところ協力主義がこの渦中の中心にある

そもそもインテグラル理論は二項対立を避け、互いを統合することである。
脱構築も上の文章を見れば全く同じことを言っている。

「対立を回避して、対立の起こらない新たな仕組みを作る」

ということが、脱構築とインテグラル理論で共通している。そして、この二つが対立していることそこが、むしろ、これこそが互いに重要だと考えていることを示している。

例えば脱構築で、上記の動画ではブラック企業と社員の例えが出て来る。
ブラック企業の経営者に対して社員は協力しているので、その社員がいなければブラック企業は成り立たない。こうして権力に対して別の考えを示すのが脱構築だとしている。そして、やはりその後目指すのはブラック企業でない経営と、ブラック労働ではない社員という構造だ。

これを筆者は協力主義と呼んでいる。日本のにも通じる概念だ。

対立を回避してお互いに協力できることをやり尽くす、対立はあくまで互いを統合するプロセスである。それぞれの多様性などを尊重することで対立を回避する、といった概念である。

協力主義

⓪創造的摩擦:対立はあくまで統合のためのプロセスである。
①脱構築「権力側に対して別の考えを示すことで、対立構図を壊す」
②インテグレーティブ・シンキング「AかBか?ではなくAもBも含むCを選ぶ」
③対立・上下関係は、両者が決めた統合された目的達成のための手段である。この目的に応じて対立・上下関係が生じるのであって、目的が統合されていない場合は①②を行って対立や上下関係を解消する。あるいは、新たな目的を作り出す。例えばお互いがテストの点で競争しないと赤点を取ってしまう時に、互いが競争するのを決めることで赤点を回避するなどだ。
④そもそも『互いに統合できる部分が重要であるが故に対立する』と捉える。
⑤互いに統合できて協力できることをやり尽くし、対立はその統合できることの補充のために行う。
⑥どうしても協力できない相手が発生した場合は、協力できる間のなかで協力せざるを得ない。例えば、ブラック企業の経営者がどうしても聞く耳を持たないならば、社員で協力してストライキを起こさざるを得ないなど。

この考え方自体は、この筆者のアイデアというわけでもなく、インテグラル理論のヴァイオレット型パラダイムで見られる概念である。協力主義はヴァイオレット組織のブレイクスルーである。

普段の軸が哲学ではなく経営学にあるので、かなり経営学的な書き方にはなっているものの、協力主義とは⓪~④的な価値観のことであり、この考え方は確かにインテグラル理論と脱構築の共通部分である。

協力主義は社会契約説的な側面もある

日本人にはどうやら民主主義よりも協力主義が合っている。この国は和を元にして建国されており、その和とはまさしく協力主義のことだからだ。社会分野でいうところの協力主義とは、先ほど述べた協力主義の仕組みに合わせて社会制度そのものを変革していく試みだ。戦争などの大きな問題を起こさないように、権威主義を権威主義のまま受け止めていくことができるので、民主主義や権威主義などを含んで超えているシステムだと言える。

協力主義とは全ての主義とできる限り創造的でない対立を起こさないようにしながら含んで超えていく作業なのだ。

そこで究極型パラダイムだ。

インテグラル理論の究極型パラダイムとは、インテグラル理論の発達段階における最終段階のことである。

この発達段階に人が真にたどり着くことはない。しかし、それを人は目指すことができる。これはインテグラル理論の試み自体が、そもそも「万物を統合した理論なんて作れる訳はない。しかし、それを試みることはできる」という所から始まっていることに対応している。

究極型パラダイムの哲学「物事を究極的に考えよ」

究極型パラダイムで確定していることは、究極思考、価値順序の変更、オムニバース思考である。そして、究極型パラダイムでは対立をこう捉える。

そもそも究極の発達段階なのだから、『最低でも』究極の思考をしているというのは明らかだ。これはA=Aでしかない。この最低でもという考え方が究極型パラダイムの根幹にはある。

「万物を統合した理論なんて作れる訳はない。しかし、それを試みることはできる」というのも『最低でも』そうは言えるだろう。

無限というのはどの数字を出されても、最低でもその数字よりは大きいということ。この考え方を究極的であるとみなす。

協力主義も、協力せずに対立するよりは協力したほうが両者が合意するであろうというだけであって、そこに善悪はない。

そうではなく、お互いに同じ気持ち、同じ意見、同じ目標だったのに、そのせいで対立して、その結果、その目標が達成できなければ、それを互いは悪とみなすから、悪なのだ(すべては解釈に過ぎないとしても)。であるならば、協力したほうが彼らは善だと見るだろう、という話になる。その構図を究極的に考えるのが究極思考だ。

価値順序の変更

価値順序の変更は「稼ぐ→お金→何かの体験→幸せ」といった価値観の順序を変更すること。この価値観が固定されているよりは、自由に順序を入れ替えられるほうが究極的である。

また価値順序の変更することで新たな価値を発見することもできる。これが脱構築とも繋がってくるが、脱構築できないよりは脱構築できることのほうが究極的なのだ。

こうやって、究極的に考えることが究極思考である。

究極型パラダイムでは先に幸せになることで世界を手にするという引き寄せの法則的な話が語られがちだが、必ずしもそうではない。あくまでそれも本人が決めることができるが、最低でもその選択肢を持てないよりは持てるほうが究極的である。

そして、インテグラル理論では「自分中心的思考→自集団中心的思考→世界中心的思考→宇宙中心的思考」と見方が広がっていくため、その究極状態は『最低でも』究極に広いオムニバース中心的思考なのだ

目的界も世界の一部である。

オムニバースは、全ての可能性を含んだ宇宙だ。創作の世界や、想像の世界、パラレルワールドも含む。これが示すことは、こうした考えた世界も現実の一部であるということ。

しかし、実際にいる世界とは差異があるため、それを計算したり、実際にいる世界の現象に変換することで、現象となる。

インテグラル理論では、心・体・文化・社会とある四事象のうち、想像した世界が心・文化であり、現象が起きているのが体・社会である。そして想像した世界は心・文化として体・社会に影響を及ぼす。

この四事象自体はたしかに構造的なものであり、それこそ脱構築できるかも知れない。しかし、『最低でも』仮定した世界だってまるで存在しているかのように振る舞う。これは目的界と呼ばれている。

宇宙際タイヒミュラー理論で説明されるように、想像した世界とこちらの世界の差を計算できたならば、その想像した世界を使うことで現実世界の計算すらも可能なのだ。つまり、それは存在しているも同じである。そこさえも、「部分的に正しい」の。唯心論でも唯物論でもそう動く。これこそが究極型パラダイムの本質とも言えるだろう。

つまり、究極思考とは想像した世界も世界の一部だと捉えることである。想像した世界を現実世界の計算に使ったり、物語や創作、ビジョンなどを通じて現実世界に反映させていくのだ。

そもそもそうした習慣を取ることがインテグラル理論における発達段階の上昇を意味するらしい。これはそちらのほうが善・悪ではなく、そちらのほうが、そうでないよりは究極的なのだ。

もちろん、究極的であることに善悪はない。

しかし、思考が究極的であるほうが協力主義などを発動できて、先ほど述べた悪だと見なすケースなどを回避しやすくなる。ゆえにそれを善であるとその当人がみなす可能性が高い、というだけである。(期待値を上げる選択を取った結果、むしろ痛い目を見るという可能性も存在している)。

本質的にそうなのではなく、人間がそう思ってしまうからそうなのだ。

これらの価値判断は、本質的に善・悪などは二元論はなくすべては部分的に正しいが、人間がそう思ってしまうからそうである、ということを発端としている。

仮定した世界がまるで存在しているかのように振る舞うというのも、人間がそう思ってしまうからそうなのであって、本質的にそうではない。

別に本当に実際にいる世界がそうであるか、ではなく、その当人にとっての世界でよい。それは、そもそもその当人を説得できないのだから仕方ないのだ。

神を信じる者に神は死んだなんて言っても聞いてもらえるわけがないのだから、そんなことを言って対立するくらいならば、その相手と協力できることをやり尽くすべきであるというのが究極型パラダイムである。
『神は死に切れなかった』

この目的界の存在を受け入れることが、差異を受け入れるという現代哲学に対する究極型パラダイムの解となる。そして、ここに関してウィルバーの見解とは違い、インテグラル理論はむしろポストモダニズムさえも含んで超えているように見える。

結論:筆者的には、究極型パラダイム、目的界の受け入れ、協力主義が哲学の先にあるものだと妄想している。


あとがき

インテグラル理論こそこれほど記事を書いているので詳しいが、哲学に関してはあくまで素人同然ではある。

しかし、それでもインテグラル理論の究極型パラダイムを研究する研究室が世界に一つくらいはあっていいだろうし、その研究室と哲学は深く関係するのだろうとは、最低でも思う。

これまでの文章を長々と書いてきた上で一番に言いたいことは、明らかにインテグラル理論はたとえ噓百八だとしても、まるでこの世に存在しているかのように振る舞っているということだ。産業革命がオレンジで、IT革命がグリーンで、Web3がティールだというように。

そしてサイボウズなどの具体例が示すように、ティール組織は凄い。

であれば、スーパーサイヤ人を見てスーパーサイヤ人3や4が見たくなったり、ギア2を見てギア4や5を見たくなるように、単にそれを知ることはワクワクするし、見てみたいと思わないだろうか?ということ。

どれだけインテグラル理論を悪く見積もっても、究極型パラダイムを考えれば、Web3の先のWeb4とかのアイデア出しくらいにはなりそうだということを。

その究極なんだと思えば、それを考える意味はあるのだと、それだけは確信している。



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