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伊川津貝塚 有髯土偶 63:中央構造線と丹
noterであるway_findingさんのコメントから渥美半島が中央構造線とは不可分の土地であることを思い出し、急遽、愛知県内の中央構造線を辿ることにしました。
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西側の青線=糸魚川静岡構造線
青線に囲まれたオレンジ色の部分=フォッサマグナ
上記の地図がWikipediaの「中央構造線」の項目に紹介されている地図で、現在は不明だが、かつては高校の教科書にも使用されていた地図だ。
そして、「中央構造線」に関して「西南日本を九州東部から関東へ横断する世界第一級の断層である。」と紹介されている。
本来は地下の断層の面を地上に延伸した地表トレースの線を指す言葉なのだが、現実には断層自体が「中央構造線」と呼ばれているという。
ところで、公的地質調査・研究組織である、地質調査総合センターから2016年に発表された地質学の面から見た中央構造線は以下の地図になる。
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縦に短く延びる細い黒線=糸魚川静岡構造線
右端の黒い破線=利根川構造線(推定)
〈地質調査総合センター 「地質境界としての中央構造線とその周囲の地層・岩石」を引用〉
現在の知見では九州には中央構造線は存在しないとされ、関東平野の構造線は中央構造線ではなく、まだ推定の段階だが、利根川構造線という別の構造線として扱われている。
ところで、地図上で中央構造線を眺めていると、その線に並行して河川が存在する場合が多いことに気づく。
断層の存在を示す構造線沿いには断層という、厳密に見れば窪みがあるわけなので、水が流れ込み、流路ができやすく、人間の時間感覚では測れない長い年月の間に谷が形成され、明快な河川になれば、山岳部を移動するための道路がその河川沿いに造設される。
言わば、構造線・河川・道路はセットになっている場合が多いのだ。
もっとも分かりやすいのが下記衛星写真のように奈良県から和歌山県へと流れ、紀伊水道に注ぐ紀の川(上流域名:吉野川)と紀伊水道の対岸である徳島県を流れている吉野川だ。
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上記衛星写真を見れば解るように樹木の密度で中央構造線がどう通っているのか推測できる。
中央構造線はこの断層を境に大陸側を「内帯(ないたい)」、太平洋側を「外帯(がいたい)」と呼ぶ。
内帯・外帯とは単に中央構造線の南北という意味だけではなく、内帯・外帯ともに、それぞれの特徴を示す岩石が地下に存在している。
徳島県の吉野川と奈良県の吉野川の名称が同じなのは偶然だろうか。
徳島県県吉野川の外帯山岳部には役小角(えんのおづぬ:役行者)の開いた四国最高峰の石鎚山(いしづちさん)があり、奈良県吉野川の外帯には金峯山(きんぷせん)が存在し、内帯には葛城山(かつらぎさん:現在の金剛山)という、やはり役小角の修行した山が存在する。
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●大三島と役小角の関わり
石鎚山の北の瀬戸内海には愛媛県最大の島、大三島が浮かんでいるが、『伊予国風土記・逸文』によれば、現在の大阪府高槻市には大山祇神の祀られた三島鴨神社が存在するが、この大山祇神は仁徳天皇在位の4世紀ごろ、百済から渡来してきた“渡りの神”とされ、ここから大三島の大山祇神社へ遷座したとされている。
宮本常一氏によれば、この大山祇神社の祀られた場所が古代の賀茂社領であったことから、ここには葛城賀茂社が鎮座するという。
『大三島』と呼ばれるようになったのも、「大山祇神の祀られた三島鴨神社」に由来するようだ。
葛城賀茂社が鎮座する賀茂社領が存在したことから、役小角は大三島にやって来たとみられるが、瀬戸内海の民俗誌『小千氏(おちし)創建伝承』によれば、役小角がその呪術で民を惑わせたとして、伊図嶋(いずしま:伊豆半島)に流される直前のことで、小角の友人だった河野氏の祖先である小千玉興(たまおき)が、なぜか小角を伴って大三島に渡ったという。
それで、小角は大三島から伊図嶋に向かうことになった。
この役小角の伊図嶋流刑の逸話にはまったく、別のバージョンが存在する。
●中央構造線に石橋を架けようとした男
ある時、小角は内帯側の葛木山と外帯側の金峯山の間に石橋を架けようとしたというのだ。
つまり、中央構造線をまたぐ橋を架けようとしたことになるのだが、小角には一族の先達から中央構造線の存在は伝わっていたはずなのだ。
小角は諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。
しかし、葛木山にいる神、一言主(ひとことぬし)は、自らの醜悪な姿(蛇頭の神だった)を気にして夜間しか働かなかった。
そこで役行者は一言主を折檻して責め立てた。
すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒言(ざんげん)したため、役行者は朝廷によって伊豆大島へと流刑になったとされている。
正史(『続日本紀』)では「民を惑わせた」となっているが、別バージョンでは一言主によって濡れ衣を着せられたことになっており、エンタメ要素が強くなっている。
もちろん、石橋の架橋は中止になっている。
そして、愛知県内でも、これから訪問する中央構造線関連地である内帯に位置する蓬莱山(ほうらいさん)には「行者越(ぎょうじゃごえ)」という岩場が存在する。
尚、「蓬莱山」という山名は徐福との関連を暗示する名称だ。
明治維新に入って、天皇直属の組織だった修験道が解体されると、多くの修験者は密教寺院を経営したり、新教を起こしたり、もともと生業として行なっていた山岳部での農業の専従者となったが、中には異能を生かして薬草開発者になったり、易者になった者もいるが、もともと、山岳で活動する人たちなので鉱山士になった者も存在する。
いや、この場合も、もとから地下資源を見つけ利用するのは生業としていたはずだ。
way_findingさんは私宛のコメントで以下のように書かれていた。
「丹」は道教の仙薬を思わせますが、論理的には勾玉と同じく、生/死の間を通り抜けるための媒介物であり、つまり現世の諸存在を「八」角のマンダラ状に結び直すものであろうと思われます。
このway_findingさんの「丹」という言葉で、「中央構造線」のことをすっかり忘れていたのを思い出したのだ。
渥美半島はまるごと北側に並行して延びる中央構造線と無関係に自然に築造された土地ではない。
それで、縄文人の関わった渥美半島を記事にする場合、もともと「中央構造線」に触れなければならないだろうと考えていたのだが、レイラインや汐川の取材をしているうちに、そのことを忘れてしまっていたのだ。
なぜ、中央構造線なのか。
それは中央構造線の周辺に土偶が出土した場所が、愛知県だけでも2カ所存在するからだ。
それがすでに記事にしてある以下の井川津貝塚と麻生田大橋遺跡だ。
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そして、古代に大陸から日本列島にやってきた人たちの中に「丹」を探しながら列島を東に向かい、中央構造線の存在に気づいていたと思われる人たちが存在したからだ。
そのことに直前の記事「伊川津貝塚 有髯土偶 62:顔から生まれた系譜」が関係している。
上記記事で紹介した吉胡神明社(よしごしんめいしゃ)には天照皇大神とその長男の正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤアメノオシホミミ)が祀られている。
まず母親の祀られた天照皇大神宮(伊勢神宮内宮)は中央構造線の真上すぐ南側に、そして対になった豊受大神宮(伊勢神宮外宮)は中央構造線の真上すぐ北側に鎮座している。
豊受大神宮(豊受大御神)が現在地に祀られた理由は正史には情報が無く、豊受大神宮の祭儀などを記した『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』に以下の神託があったからとされている。
雄略天皇(第21代天皇)の夢に天照大御神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(トヨウケノオオカミ)を近くに呼び寄せるように」と神託した。
●丹と丹生族+海人阿知族
天照大御神が呼び寄せた等由気大神のいた国は丹の出土する波の見える地であることを暗示する「丹波国」となっている。
いずれにせよ、両伊勢神宮(正式名称はただ「神宮」)が中央構造線の真上のすぐ南・北に祀られたのは偶然ではなく、天照皇大神と正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(以下、「天忍穂耳命」)親子が祀られた吉胡神明社も中央構造線の南側(外帯)に祀られている。
そして、中央構造線に限ることなく、日本列島の丹を探し歩いた一族が存在する。
それが丹生都姫(ニウツヒメ)を祀り、「丹」を名称に冠した丹生族(にうぞく)だ。
丹生都姫には伊奘諾尊(イザナギ)の娘とする説、天照皇大神の妹とする説があり、いずれにせよ天孫族なのだが、和歌山県かつらぎ町の丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)も中央構造線のすぐ南側(外帯)に祀られている。
そして、天忍穂耳命を祖神とする海人阿知族が丹生族と行動を共にしていたとされる。
祖神同士が親族なので不思議なことではないのだが、『好々彦の神代文化考』サイトには「阿知族は中国→五島列島→西北九州のルートで渡来した」海人族と紹介されている。
さらに『「味耜高彦根命(アジスキタカヒコネ)」の子孫の「阿知鴨族」(海人「阿知族」系「鴨族」)は葛城の地を開拓して「葛城鴨氏」の祖として渡来先住民となる。』とも紹介されているが、「時は縄文時代晩期」のこととしており、役小角はこの葛城鴨氏の出身者である。
そして、天忍穂耳命に関しては「瀬戸内水系を開拓支配した」とあり、天忍穂耳命の子、天火明命(アメノホアカリ)、その子の天火遠理命(アメノホオリ:山幸彦)は丹の道(中央構造線断層帯)を開拓支配したともある。
天火遠理命の別名「天尾張命」には「尾張」が含まれており、製鉄族尾張氏(おわりうじ)との関連もあるとみられるが、これに関しても『好々彦の神代文化考』サイトには「(天火遠理命は)紀ノ川を遡上し葛城の高尾張に降臨し、」とあり、高尾張の地名から「天尾張命」という別名が生まれたか、「天尾張命」の名から「高尾張」の地名が発生したのだろう。
さらに『「天火照命」(海幸彦)は大三島を拠点に瀬戸内水系を支配』ともあり、ここでも後代の系族である役小角との関わりがみられる。
ところで、なぜ丹生族は「丹(水銀・辰砂)」を探し歩いたのか。
丹生族は水銀を利用した金・銀・銅の精錬技術を開発していたからだ。
この技術によって丹生族は他の一族より多くの金・銀・銅を手に入れることができ、そのことから朝廷との結びつきを強固なものとしていったのだが、大王家もまた、丹生族との閨閥をつないでいったのだ。
丹生族が中央構造線を辿った、ほぼ2000年後の舒明天皇6年(634:飛鳥時代)に役小角は内帯である大和国葛上郡茅原郷(かつじょうぐんちはらごう:現在の奈良県御所市茅原)に生まれ、さらに同じ内帯で中央構造線に近い葛城山で修行を行い、次いで外帯側の金峯山で修行を重ね、修験道の基礎を築いた。
役小角の115年後に生誕した行基は役小角の開いた山を巡り、やはり山岳修行を行い、50寺の寺院を開基して歩いたが、滋賀県の2寺を除いたすべての寺院が関西圏に属しており、特に中央構造線に興味を示した痕跡は存在しない。
しかし、行基の106年後に生誕した空海はやはり、行基の開基した寺院のうち、寂れてしまった寺院の再興と役行者の開いた全国の山で山岳修行を行い、真言宗寺院を開基して歩いている。
そして役小角・行基・空海は共通して井戸、あるいは温泉という地下の水脈を見つけた伝承が存在し、地下資源のことは意識していたと思われる。
特に小角と四国生まれの空海は四国に興味を示している。
空海は四国八十八箇所を設定したが、その中には複数の役小角に関わる寺院が含まれている。
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四国には何度もフェリーで渡っていますが、その時に中央構造線が空の雲に反映されていることを実感しました。地震雲が地下で岩同士が擦れあって発生するFM電波を反映したものであることは知られています。四国の空は中央構造線の結果である吉野川の真上で南北に真っ二つに分かれていることが多いのです。中央構造線の外帯では雨が多く、内帯では少ないので、外帯の空だけ厚い雲に覆われているのに、内帯の空は青空ということが多いのです。