山乃辺 時久

時空を駆けるトラベラーです。使用ビークルは250cc以下のモーターサイクル2車種。日本列島の起伏を体感しながら、フィールド・ワークし続けたい… 〈既訪問地=★本州・四国全域 ★離島11島 ★鹿児島→長崎 ★門司→博多〉

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  • 中条遺跡 土偶A

    愛知県刈谷市重原本町の中条遺跡から出土した土偶Aを基本にして巡った周囲の環境を紹介しています。

  • 本刈谷貝塚 土偶

    愛知県刈谷市天王町の本刈谷貝塚から出土した土偶を基本にして巡った周囲の環境を紹介しています。

  • 私のシンクロニシティー

    シンクロニシティーを感じることのよくある私の実体験です。

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伊川津貝塚 有髯土偶 1:荒ぶる文

愛知県内の個人的な土偶調査は豊田市で終了と思い、すでに岐阜県にも手を広げ始めたところ、愛知県内の田原市でも土偶が出土している情報にぶつかったため、田原市を巡ることにしました。田原市から出土した土偶で頭部、あるいは体部がほぼ完全な土偶で開示されている土偶は「有髯土偶(ゆうぜんどぐう)」と呼ばれている土偶1点のみのようです。ただし、愛知県内で展示されている、その有髯土偶はレプリカで、実物は東京大学に収蔵されています。 昨年の9月下旬、有髯土偶の展示されているという田原市渥美郷土

    • 伊川津貝塚 有髯土偶 72:最大の見所は空白

      愛知県新城市(しんしろし)川合(かわい)の乳岩の隙間を登ってトンネルになっている部分を通り抜けると、さらに遊歩道は上に向かっていました。 遊歩道(乳岩周回路)の途中で真上に向かって撮影したのが下記写真。 上記写真上側の炭酸カルシュウムが表面に露出していて白っぽい壁面が乳岩。 下側の白っぽさの少ない壁面が向かい側の山。 この直後の複数の連なる梯子を登った上に最難関の岩場があった。 そこには狭い踊り場しか無く、通路を角の無い丸い巨石が塞いでいた。 その通路には左足の靴幅しか

      • 伊川津貝塚 有髯土偶 71:乳岩は山だった

        愛知県新城市(しんしろし)川合(かわい)の乳岩分岐(ちいわぶんき)から西に位置する乳岩登口に向かいました。 乳岩登口に向かって登って行くと、乳岩川の河床と同じような状況で、地上でも巨大な凝灰岩(ぎょうかいがん)から剥落した岩が巨石下部の庇の下に並んでいた。 ここから間もなく、乳岩と思われる巨石の麓下の登口に到達した。 そこには案内板があって、この辺りの凝灰岩には鍾乳石(しょうにゅうせき)が多く含まれるという案内があった記憶があるのだが、案内板は撮影し忘れていた。 この案内

        • 伊川津貝塚 有髯土偶 70:仙境に入る

          愛知県新城市(しんしろし)川合(かわい)の乳岩(ちいわ)を目指して乳岩川の河床である桟敷岩上を北上すると、遊歩道は乳岩川の左岸(東岸)に移りました。 遊歩道が左岸に移ると、いよいよ山岳部に差し掛かり、鉄製の登り階段が現れた。 乳岩川には巨石があって、階段を通すために巨石の側面は削られているようだ。 階段を登ると、遊歩道は乳岩川を見下ろす狭くて路面がデコボコの岩になった。 通路から乳岩川の流れる谷を見下ろすと、複数の巨石が折り重なって水路はまったく見えず、頂が通路より高い

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          伊川津貝塚 有髯土偶 69:多様な表情の乳岩川と凝灰岩

          愛知県新城市(しんしろし)川合(かわい)の豊鳳二十一弘法大師からさらに遊歩道を北上すると通路は再び、乳岩川に沿う道に戻りました。 乳岩川の河床に転がる石は北上するに従い巨大化してきた。 再び遊歩道に沿った乳岩川の河床は積み重なった赤っぽい凝灰岩(ぎょうかいがん)で塞がれ、もはや水路は見えなくなっていた。 さらに北上すると、途中で通路は乳岩川に架った橋を渡った。 遊歩道は乳岩川の右岸(西岸)に移り、同時に北上していた。 しばらく歩くと、右手の乳岩川に高さ3mほどの落差工が

          伊川津貝塚 有髯土偶 69:多様な表情の乳岩川と凝灰岩

          伊川津貝塚 有髯土偶 68:空海と丹生族

          今回は愛知県新城市(しんしろし)川合(かわい)の諏訪神社から表通り(振草三河川合停車場線)に戻り、北上すると、150m以内で飯田線の踏切を越えた。踏切を越えて、さらに北上すると、40mほどで、右手はよく伸びた杉林、左手は痩せた潅木の茂った山裾の土手で、光が少なくなり、光景は薄暗くなりました。さらに50mほど北上すると、右手の杉林を通して眼下に宇連川(うれがわ)の水面が視角に入って来ました。宇連川の水面を見ながらさらに北上しました。 飯田線踏切から550mあまりで、宇連川に掛

          伊川津貝塚 有髯土偶 68:空海と丹生族

          伊川津貝塚 有髯土偶 67:出雲大社と砥石山天疫神社の謎

          今回は愛知県新城市(しんしろし)川合(かわい) 諏訪神社の境内社だけを紹介する記事になります。諏訪神社は鳳来湖(ほうらいこ)から亀淵川に流れ出ている宇連川(うれがわ)の右岸(西側)に面しています。 川合 諏訪神社の境内社はすべて諏訪神社社殿の西側に東向きに設けられた長い連棟社の中にすべて収められている。 そのもっとも奥(北)に祀られているのが出雲大社だった。 社(やしろ)は総素木造の祠だった。 これと同じ祠を他で見たことのある人はいないはずだ。 なぜなら、この祠はおそらく

          伊川津貝塚 有髯土偶 67:出雲大社と砥石山天疫神社の謎

          伊川津貝塚 有髯土偶 66:諏訪からやって来た

          愛知県新城市(しんしろし)池場の池之神社の西側に面して竜ヶ池(りゅうがいけ)がありました。 池之神社境内の西端に幹を伸ばす池場のけやきの脇からは池が見え、初めてここに池があることに気づいた。 この池はやって来た国道151号線のカーブ脇にあるため、カーブでは脇見のできないモーターサイクルでは気づきにくく、登り下りとも走行中にはその存在に気付いていなかった。 上記写真奥の白いガードレールが151号線。 この竜ヶ池に関しては「竜ヶ池」という民話があるようだ。 しかし、現場にも

          伊川津貝塚 有髯土偶 66:諏訪からやって来た

          伊川津貝塚 有髯土偶 65:大和のミクマリ

          愛知県東栄町(とうえいちょう)の須佐之男神社から国道151号線にもどり、南西に向かって延びる151号線をたどっていると、左手に大きな常夜灯があるのに気付きました。須佐之男神社に向かっている時は気づかなかったものです。森の中に鳥居も見えたので、Uターンしてもどりました。ここまで須佐之男神社登り口から1.6km以内で、すでに新城市(しんしろし)に入っています。 151号線の南側に面したその神社の社頭は北向きで、都心では見られない高木の杉の重なる社叢が印象的だった。 一方で、社

          伊川津貝塚 有髯土偶 65:大和のミクマリ

          伊川津貝塚 有髯土偶 64:山幸彦の妻は海人族

          愛知県内の中央構造線を辿ることにしましたが、中央構造線のほとんどは分け入るのが無理な場所か私有地を通っているので、実際に見ることができるのは分け入るのが可能な場所で、中央構造線の露頭(岩石や鉱脈の一部が地表に現れている場所)に限定されるので、愛知県内で見学できる場所は10ヶ所も存在しません。ほかには私有地でも入っていける神社、来訪が歓迎される寺院(密教寺院や観光地になっている寺院)、遺跡のある場所、公共の一般道、河川になります。いずれにしても直接、線としてたどれるのは道路のみ

          伊川津貝塚 有髯土偶 64:山幸彦の妻は海人族

          伊川津貝塚 有髯土偶 63:中央構造線と丹

          noterであるway_findingさんのコメントから渥美半島が中央構造線とは不可分の土地であることを思い出し、急遽、愛知県内の中央構造線を辿ることにしました。 上記の地図がWikipediaの「中央構造線」の項目に紹介されている地図で、現在は不明だが、かつては高校の教科書にも使用されていた地図だ。 そして、「中央構造線」に関して「西南日本を九州東部から関東へ横断する世界第一級の断層である。」と紹介されている。 本来は地下の断層の面を地上に延伸した地表トレースの線を指す言

          伊川津貝塚 有髯土偶 63:中央構造線と丹

          伊川津貝塚 有髯土偶 62:顔から生まれた系譜

          愛知県田原市伊川津町の伊川津貝塚と本刈谷貝塚(もとかりやかいづか)を結ぶレイラインと汐川(しおかわ)をたどった後、渥美半島(田原市)の気になる場所を巡ることにしました。汐川の流域にあるのですが、汐川の両岸からわずかに外れていると判断したことからノーチェックだったものの、汐川水門で使用している時にカメラの電池が切れたために撮り残した部分を撮影するため、蔵王山から汐川水門に向かっている時に、前を通りかかったのが吉胡神明社(よしごしんめいしゃ)でした。 森の前の緩やかな下り坂を通

          伊川津貝塚 有髯土偶 62:顔から生まれた系譜

          伊川津貝塚 有髯土偶 61:二つの河口

          愛知県田原市吉胡町(よしごちょう)の田原市中部ポンプ場から、汐川と並行した農道を汐川河口に向かうと、830mあまりで汐川の堤防は行くてに回り込み始めました。すでに河口が近いことが解ってきましたが、堤防は高くて登れないので、汐川の様子は見られませんでした。それで、汐川沿いを走るのはあきらめて汐川から離れ、汐川と並行した幹線道路に出て、汐川干潟の西側に迂回して汐川河口を見ることにしました。 幹線道路に出て北上すると、260m以内で幹線道路の左右に不明の水路のある三叉路に出た

          伊川津貝塚 有髯土偶 61:二つの河口

          伊川津貝塚 有髯土偶 60:芭蕉の道

          愛知県田原市赤石のふれあい橋から、下流510mあたりに架っている船倉橋に向かいました。この間も汐川堤防上には道が無いので、左岸(西岸)の田原町の幹線道路を迂回して船倉橋の左岸に到達しました。 船倉橋の親柱は、やはり交通量の多い、ふれあい橋の装飾とは対照的にコンクリートで平面図L形の柱に「船倉橋」と浮き彫りされた銅板を取り付けただけの質素なものだった。 「船倉橋」という橋名はこの周辺に三河湾から汐川を遡って流通網を利用する倉庫が存在したことを推測させる。 現在も、船倉橋の橋

          伊川津貝塚 有髯土偶 60:芭蕉の道

          伊川津貝塚 有髯土偶 59:ダミエの護岸

          加冶町を流れる汐川(しおかわ)の両岸堤防上の道は支流で分断されていたり、徒歩でないと入って行けなかったりしていました。そこで、愛知県田原市神戸町の汐川改修之碑前から汐川の左岸(西岸)には戻らず、右岸側をたどって北上しました。ところが、愛車で通れる道は大きな総合病院が立ちはだかっていたことから、紆余曲折して、汐川に架かった汐川橋を渡っている田原バイパスに出た時は汐川橋から東に560mあまり遠ざかっていましたが、汐川を観るため汐川橋に向かました。 田原バイパスは田原市街地の南側

          伊川津貝塚 有髯土偶 59:ダミエの護岸

          伊川津貝塚 有髯土偶 58:華山&式次郎の農地改革

          愛知県田原市西神戸町を北東に向かってきた汐川(しおかわ)は赤松一本橋を越えるとほぼ北に向かうように方向転換し、左岸の堤防上をたどると、360m以内で中田橋に到達しました。 中田橋は上流側にあった橋と同じ既成のガードレールに鉄板の手すりを乗せた欄干の両端に細かな石粒を練り込んだ人造石の親柱を設置したものだった。 それは左右対になった親柱をくの字形に開いたプレーンな造形で、それに橋名を浮き彫りにして枠を付けたブロンズのプレートを取り付けたシンプルなものだった。 志田橋上から

          伊川津貝塚 有髯土偶 58:華山&式次郎の農地改革