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陰謀論そのものがカバラ、黒魔術であり、ソ連が使った洗脳そのもの

誰に話しても伝わらない話、伝わってるかもどうかも解らない話を続けるのはとてもきつい。賛同者がいるのかどうかも解らず、ただひたすら自分の感じたものを信じて話し続けてきた。

本当はもっとふざけた話をしたいが今はできない、こんな複雑な話ばかりしてると心身共に疲れてくる。


それぞれが自分の正しいを信じている、それが絶対であると思い込み、頑固になり聞き分けがない。どんなに言葉を尽くしても伝わるわけもなく、それを言っている意味も解ってほしいことも考えてはくれない。

自分の話、意見、持論を絶対としろと言ってるわけじゃないのに何故反発心を持たれてしまうのか。カルト宗教をやりたいわけじゃないし、お金儲けが目的でこんな話なんかしていない。全ては愛のため、この神の心を守り従うために行っていること。

自分は保守的ではない、何を守りたいかと言えば、日本の文化や伝統よりも何より、人種性別関係なく、その人の心を守りたい。人の心を守ることが愛を守ることになる。


数々のカルト宗教、集団や団体が愛と言う言葉を悪用してお金儲けに利用した、それは神の心を利用してお金儲けをしたのと同じ。

だから「愛」と言う言葉を使えば、多くの人は懸念を示し、カルト宗教の類いだと認識するようになった。それは神の心そのものを否定させる呪縛となり、世界中の人々を今も苦しめ続ける。


愛とは、許しであり、優しさであり、思いやりであり、正義であり希望、夢であり恋であり可能性であり、勇気でもあり誇りでもある。人を幸せにする全てを集約して表現した言葉が愛と呼ばれるもの。


自分はこういった話をするのがとても辛い、心身共にどんどん疲弊するし、エネルギーの消費が凄まじくて、考えれば考えるほど日々疲れてしまう。この苦しみが神を信じることであり、とても過酷なもので弱い心なら簡単に挫けて負けてしまうと思う。


もしこうだったら、自分の知らない所で誰かに裏切られているかもしれない。その信じた何かは自分の妄想かもしれない、気のせい、一時の気の迷い、何にもないけど何かがあるように感じてるだけ、何者かにからかわれてる、マインドコントロール、洗脳されてる、そんなことを日々思ったりもする。しかし、それでも自分の心に素直に従い信じ続けてきた。普通にはあり得ない何かを、不思議な何かを信じ続けた。

自分が愛を、神を信じないなら、誰が愛を、神を信じると言うのか。自分がその奇跡を信じずに、誰がその奇跡を信じる。

奇跡を疑えば、その奇跡は奇跡では無くなり、愛を疑えば愛は嘘となり、神を疑えば神は存在しない妄想となる。


何より現実的な奇跡と表現するなら、それは恋と愛が成就すること。それこそが人間の最も身近にある奇跡で、多くの困難と他者の邪魔を乗り越えて実現する我々にとっては途方もないが身近にある、かけがえのない奇跡。

その奇跡のために生まれ、今を生きている我々は神が与えてくれた奇跡の世界に生き続ける、それぞれの自我を持つ尊い命。


心理的なものは全て思想主義による洗脳であり、人は何者かの思想主義を基礎として成長し人格が形成される。その思想主義からはみ出したものは許さない、そんな心理に陥り頑固になり、それぞれの想い、その思想主義を他の誰かに押しつけたがる。

こうであるから、こうなる、の持論など押しつけられた思想主義による洗脳、思想の植えつけに他ならない。心とはもっと自由なもの、何者かの思想主義に染められ、そこから抜けられないなら自由などない鎖と檻に閉じ込められた、いつかは多頭飼育崩壊を起こす動物の群れ。


なぜ我々はお金のために無意味なことを続けるのか、なぜ必要のない動きを無理矢理させられているのだろうか。それは神がそうさせているわけではなく、人々が自ら選んだ選択肢の結果そうなった。心を苦しめてるのは人間、人類の作り上げてきた普通や当たり前、常識的とされる呪文。


眩きものは眩きままに、崩れ行くものは崩れ行くままに、美しいもの、眩しいもの。因果応報は必ずやってくる、自分が誰かを許さないなら、自分も誰かに許されない。

自分が誰かを憎むなら、自分も誰かに憎まれるし、自分が誰かに怒りをぶつけるなら、自分も誰かに怒りをぶつけられる。


人は誰もが教祖になりたがる、自分の考えが最も正しい、絶対とするエコーチェンバーに陥ってしまう。そのエコーチェンバーが承認欲求となり、その価値を具現化したいがために数字とお金、人気と崇拝を欲する。


全てを手放す事が悟りなのではなく、全てを愛することも悟りとなる。全てを投げ捨てるだけではなく全てを生み出すこと、マイナスとプラスは、天使と悪魔のように表裏一体であり、生み出されたものは必ず消費される、消費されたものは別の糧となる。

誰かに何かをあげたなら、それは誰かのものとなり、更にそれを誰かに渡れば、それは他の誰かのものとなる。目に見えないものにもその循環作用は働き、誰かが生み出した愛は別な誰かの愛となり消費される、その消費された愛はまた誰かの愛となり生まれ変わる。


悟りと言いながら全てを捨て、何も生み出さず朽ちるだけなら、それは無になるだけ。消費するだけで何も生み出さなければ枯渇する、愛を生み出さなければその心の中にある聖杯はたんなる杯、愛のない心は空っぽの器となる。やがては錆びて朽ちて行く沈黙の天秤となる。


太陽が生み出す光を月の力を借りて地球に届ける。火とは魂であり、心でありエネルギー。太陽から生まれた魂の源は素粒子となり月の導きで地球に降り注ぐ、その源はやがては朽ちて新たなる素粒子となり生み出す力の糧となる。

火は光、太陽があるから存在し、生命を温め育て最後は焼き尽くす。熱があるから我々は存在できる、熱のない生命は存在せず、全てに熱が宿る。熱とは振動、光そのものでありバイオフォトンの輝き、その光が我々であり魂となる。

だから我々は光の一部であり、我々自身が光の人、光の生命。生命とは光であり、その森羅万象の全ての現象を神とする。

天使とは、それを管理するために存在する神の使い。全てを知り全てを超越している者、光り輝く人達、全てに宿る精霊を天へと導く者、宇宙の果てを教えてくれる存在。


人の心理とは、それそのものが魂であり、バイオフォトンの光。意識は魂であり光、その意識が愛を持ち今を生きている我々である。

エロヒム、ヤハウェとは、始まりであり終わりの全てとしてあり、宇宙の全てを表現したこの世の真実、人知を越えた壮大なるもの、それが神の全て。我々は神の体内で生きる、神の一部、神の細胞、神の素粒子。


宇宙とは体内である、我々を生み出した産みの親は宇宙の果て、最小ミクロと最大マクロの絶対領域にいる。

最小ミクロに限界が無いなら、最大マクロにも限界はない。だから人類は数字の限界を導き出す事ができない。

グラハム数では最大マクロを数値化するための計算がされているが、それを越えた先を今だに人類は見ることができない。哲学としてあるこの世の真実を考えるもの「なぜ何もないではなく、何かがあるのか」を考え尽くした釈迦の覚り、仏教の悟りでも不可説不可説転まで、それは最大マクロであり最小ミクロはその逆としてある。


「なぜ何もないではなく、何かがあるのか」その答えが0であり、何もないが確かに何かはある、我々は見えないし聞こえないが確かにあるもの、しかし我々の周波数や次元では到底届かない領域にある何か、物質的なものでは計り知れない、それが神である。


だから我々は神が見えないし、その言葉も聞こえない。宇宙そのものが神ならば、その一部としている我々は神の一部なので既に全てを知っている。それを思い出すために瞑想し、考え、感じ、哲学し、科学し、その答えを導き出す。誰もがたどり着く領域、それが最小ミクロと最大マクロが交わる神の絶対領域0、そこにあるのが永遠。


この感覚に重要なのが宇宙の意志、ルドルフシュタイナーが感じ導き出した概念、アカシックレコードと呼ぶ何か。自分はその言葉や意味を知らない当時、マトリックス図の意味だけは知っていたので、独自に宇宙のマトリックス図、そう呼んでいた。それそのものが神の意識と記憶であり、我々はその中で生きている。

だから必ずしもニューエイジ、スピリチュアル的な感覚が全て嘘なわけではなく、それ自体が悪魔崇拝になるわけでもない。それを悪用したのがカバラ数秘術や黒魔術のような、人の心を操る洗脳方法。

スピリチュアル占い師からキリスト教に転向したドリーンバーチューは、その天性の感覚から、それらの感覚を自然に感じとる事ができたらしい、だからこそ今まで自身が行ってきた事を悪魔の囁きだったと認識し、キリスト教に転向したのだろう。

天使と悪魔とは、人の心の光と闇の具現化であり、重要なのは自分の中にあるもの。本当に目に見えない大切なものは、自分自身の心の中にある。見ようとしても見えない、聞こうとしても聞こえない、それが神の姿であり、神の声、絶対領域0の世界。


ものは使いよう、果物ナイフは果物を切るために使われる道具、人を傷つけるために作られたものではない。そのニューエイジ思想、スピリチュアルも用途によっては人を傷つける刃物となる。


だからこそ、それを制御するために神を信じること、その心である、全ての生命に宿るアガペー、それを守り信じる事が大事だと言っている。


自分の話を読んでくれた人達の中に、これらの話を理解してくれている人はいるのだろうか、解らない、解らないが自分はひたすら一心不乱に綴り、話し続けてきた。


人の心の中にあるのが天使と悪魔、光と闇であり、その具現化が天使と悪魔になる。それが善悪の知恵であり、我々はその葛藤の中で左右に分断し争い、ウロボロスの共食いの支配の中で操られ支配されている。

ウロボロスとは蜥蜴科の動物、蛇によく見られる現象で、蜥蜴科の動物は殆ど第三の目の部分、額の目によって太陽の位置を把握する。それにより概日リズムを調整して正常な意識を保っているが、そのバランスが崩れた時、空腹を感じて自らの尾を飲み込みはじめる、それがウロボロスの語源となった。概日リズムを乱した蛇は、自らの尾を飲み込むだけではなく、中には仲間を互いに食い合う現象も見受けられる。



人間も同じで、松果体には太陽光を受け、メラトニンやセロトニンの分泌によってホルモンバランスを整える役割を持つ。だから生命は太陽の光から栄養をもらい、心の栄養、ホルモンバランスも調整している。亀が甲羅干しするのも、猫が日向ぼっこするのも、全て太陽からの栄養を貰っている本能的行動になる。だから亀も猫も、草木ですら、既に全てを知っている。解らないのは、それを表現する方法、言葉を使えないから。


松果体の働きには科学的に証明された根拠がある、だからそれはスピリチュアルでも神智学協会のニューエイジカルト思想に利用されたネタでもない。ニューエイジの何が間違ってるかと言うなら、神を信じず、自らを神とする考え方、ヒンドゥー教や仏教に通じる考え方をするから、自分はそれを間違ってると認識している。


自分の言う、言葉で表現している神とは、頭に天使の輪をつけて真っ白な衣を纏い、白い髭を蓄えたような人間の認識として見る存在ではなく、始まりであり終わりの全てとしてある宇宙そのものを言っている。古来の人々は青空、または夜空の先の世界を知ることはなかったが、現代の我々は宇宙を知っている。だから古来の人々よりも科学や知識も発展し、真相、真実により近づいている。

古来の人々は空の彼方に天の国があると考えた、その天の国がある場所の認識は何ら間違ってなどいない、それが宇宙であり、最大マクロは更にその向こう側にあったと言うこと。だから宗教で語られてきたものが全て妄想とするのは、逆に非科学的とも言える。



Qアノンとは、神を悪とし、聖書を悪魔の書物と認識するグノーシス主義のニューエイジである。それは反キリストでもあり、キリスト教と表裏一体となる陰の部分でもある。それと同じ陰謀論を語り、それが絶対であるかのような洗脳を信者に施すカルト宗教のような行いをする陰謀論者もいる。

陰謀論そのものがカバラ、黒魔術であり、ソ連が使った洗脳そのもの。その洗脳に気がつけないまま、多くの人々はカルト宗教や、政治的な思想主義、自分を神とするスピリチュアルやニューエイジ思想にはまってしまう。



そういった、道に迷いし哀れな小羊達が誤った道に誘導され、迷わないように残されてきたものが聖書のような神秘的な何かが秘められたオーパーツである。


大事なのは信仰心があるかないか、形やしきたりなど関係なく、真に神を、その心である愛を信じているかどうかを試されているし、我々は常にそれを見極められている。だから魂の選別、人間選別、最後の審判のジャッジは、始まりから終わりまでの魂全てにおいて今も行われている最中だと言うこと。


美しき輝きを放つ魂に、差別的な意識、偏見や排他主義的なものなどない。許しなき心も無ければ、おかしな陰謀論のレッテルによって人の心を傷つける言葉など使わない。全てはその実によって見極める、自分を愛してくれる者だけを愛するのではなく、自らが愛すること。


お金を愛するのではなく全ての生命に等しく与えられたアナーキー、無秩序なる自由、神に与えられた普遍的なる自然法、その動きを愛することが大事。


ここまで書いてきたが、きっとこれを読む殆どの人は、カルト宗教と大差ないと認識するかもしれないが、自分はどんなことがあってもカルト宗教などやらないし、信者など募らない。それは絶対であり、それも自分自身が神と約束したこと、それを破るなら神を裏切ることになる、だから自分はこの身が朽ちるまで、その神との約束は守り続ける、この心の中に宿る、神が全ての生命に分け与えてくれた心、光、愛を永遠に守り続ける。

それが自分であり、自分自身の幸せとなる。










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