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ああ、当たり前の、漢に会いたくて、しかめっ面した、しょっぱい三日月の夜
自分は未熟者、本当にダメなやつ。心が全然なってない、1人で生きてると錯覚を起こしていたのかもしれない。
世間知らずだった、少年時代から、自分だけを信じていたけど…
何をやってきたのか、今まで何を言ってきたんだろう。誰も切り捨てたりなんかしない、一度関わったなら自分からは絶対に手を放さない。誰も裏切ったりなんかしない、そんなことしたくない。
それでも自分は、たった1人で生きてるような、そんな錯覚を起こしていたのかもしれない。誰も嫌ってなんかいないし、誰も遠ざけたいと思ってはいない。それでも、自分の心が未熟だから、気のきいた言葉も言えない。
もっと優しい言葉をかけてあげられない。それでも俺は、一度関わった人はずっと気にかける、いつまでも変わらず。みんなチッチとピッピ、仲良しなんだ。
たとえ繋がりが無くなっても、あの時に交わした言葉とかは消えないし、いつまでも残ってる。生きてる限り、みんな俺の友達。
大切な友達、一生繋がり続ける、かけがえのない友達。自分は一生その人達と共にいる、いつまでも変わらず、ずっといる、ここに。
インターネット上の何処にでも俺はいる。
だってさ、俺はそんな人達の言葉に支えられ、元気づけられたり、笑わせてもらったり、嬉しい気持ちにさせてもらったりして、感謝してるんだ、そんな人達みんなに。
みんな優しかった、こんな俺に、こんな勝手な事ばかり言い続けてきた自分に。俺はそんな人達には敵わない、とてもかなわないよ。
知識なんかどうだっていい、陰謀論を知ってるから何だって、神を信じても、先に人を信じなきゃ心は治らない。
捨てなきゃいけない、自分の汚い部分や、自惚れも何もかも。知識がないと思われることを恥ずかしがっていたのかもしれない、誰よりも優れてると思われたかったのは自分だったのかもしれない。
こんなんじゃダメなんだ全然、心がなってない。もっと成長させなきゃいけない、いつまでもこんな子供みたいな心でなんかいられない。しっかり生きなきゃ、自分で言ってるんだから今をしっかり生きなきゃ。
誰かに、罵られ、馬鹿にされ見下され、レッテルを貼られ怒りが出て、それをあれやこれや勝手に考えながら、勝手に怒りにうち震えて、言葉で見返してやろうなんて、そんなつまらないことを自分自身がまだやってると気がついた。
何かに執着して、そこだけをずっと見ていた気がする。自分は、昔から多くのコンプレックスを持っていた。学歴や頭が悪いと思われること、醜形恐怖症、自分の顔が汚いと思う気持ちとか感覚とか、生活スタイルも何もかも、他とは違うんだと、普通じゃないんだと、そんな気持ちを持ち続けてきた。
それを克服できたと思い込んでいた。全然違う、まだそんなものすら捨てきれてない。誰かにどう思われるか、それをまだ気にしてる。素直な言葉を表現することに専念してきた、自分の心を全てさらけ出して羞恥心を無くそうと思った。
でも、やっぱり羞恥心はなかなか、そう簡単に克服できるものじゃない。誰もが持ってる心の苦しみ、それを生み出す羞恥心。もう10年以上前にあった出来事を、今だに思い出し恥ずかしくなる現象。
それがチック症のように何度もぶり返す。それを思いだしては、汚い言葉や考えが頭の中を駆け巡る。これは他者への怒りではなく、自分に対する自傷行為で、あの時の自分への怒りが言葉となって現れる。
「うるさい、しね、ふざけんな、みんなぶっとばしてやる、むかつく、どいつもこいつも、くそったれ」
そんな言葉が脳内を駆け巡り、実際に言葉に出る。自分への怒り、自傷行為が。
それが羞恥心からなる、悪魔の囁き。
時にそれが他者へと向けられる、簡単に言えば「何もかもどうでもいい」そう考えるような自虐意識。それに気がつかないまま大人になり、今でもそれが抜けきれない。
外部から聞かされる共感性羞恥心と、内部から聞こえる羞恥心が融合して自分の心を苦しめる。毎晩布団の中で叫び、頭をかきむしる。自分を苦しめるのは自分自身でもあり、その羞恥心が他者の心にまで、ウイルスのように感染する。それを封じ込めるように、自分自身に罵り叩きつけ、痛めつける。自傷行為をする。
俺は、そんな人達の心の痛みがよく解る。
それを何とか克服したい、そのために精神世界を深く知りたいと願う。何かも解らない心の苦しみを克服するために。
だからスピリチュアルに頼り、ニューエイジ思想にのめり込む。
「なぜ何もないではなく、何かがあるのか?」
それを知りたいから、真理を追求したがる。
いくら探しても見つからず、いくら追いかけても届かない。どんなに哲学し考えても本当の答えが見つかる事がない、しかし人はその心の苦しみの正体を知りたくて、諦めることができずに精神世界を覗きたがる。
科学に答えを求め、哲学に答えを求め、スピリチュアルやニューエイジ、占星術、宗教に答えを求め続けるが、どれも本当の答えを導き出す手段にはならなかった。
それでも諦められない、この心の中にある羞恥心の正体が何なのかを知りたいから。
この命燃えつきるまで、最後の日まで諦めずに、人は答えのない何かを探し続け、求め続ける。それは生まれたての赤ん坊の頃から同じだった。何かも解らない悲しみに涙を流し産声をあげた、自分の意志を伝えたくて態度で表現する。全力で、必死に。
それをしなければ生きていけないから。だから泣き続け、求め続ける。
いつまでもずっと、変わることなく。だから人は皆、幸せになるために産まれてきた、幸せを追求し求め続ける、そのために生きている、今を生きるために存在してる。
なぜ人は恋をすると凄まじく悲しくなり、心がとてつもなく痛むのか。叶わない想いを抱えながら、いつまでも苦しみ、届くこともない声をあげ続ける。52ヘルツの、寂しくて哀しい、せつなくて儚いメロディーをいつまでも奏で続ける。
心の振動、遠くに見える遥かなる光、その神のシグナル、音、声が聞こえた時、本当の幸せとは何かを思い出すことができる。
我々は幸せになるために生まれ、今を生きるために存在している。
苦しみの世界に生きるために生まれ、悲しむために生きてるわけじゃない。
だから、自分の全てが大切なんだ。どんなに心を苦しめても、病んでいても、幸せになるために生きる絶対なる自由が、全ての生命に、全ての人々に赦されてる。
誰かを憎む必要なんかない、羨まなくてもいい、悪魔の囁きに苦しめられ、自分で自分を傷つける自傷行為なんか必要ない。
今を、幸せに生きるために、存在していればそれでいいんだ、それでいい。