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家族のこと

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娘や夫のはなし
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秋の参観日

秋の参観日

 朝日とともに窓から入る風が、一瞬するどく腕をなでる。家々の隙間に見える山の一部が秋めいていて、クローゼットから深い赤色のニットを出す。
 行ってきます、と手を振った娘のはねるポニーテールと、「交通安全」の黄色いカバー。もう半年で進級だなんて、娘が産まれてめまぐるしく過ぎる日々は、ただひたすらに駆け抜けてゆく。
 教室の後ろから、まっすぐに黒板を見る瞳を、ぴんとのばした腕を見る。たった数年前の、は

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春に包まれる話

春に包まれる話

「いま、見て、なかったでしょー!」
もー、と言う声に顔をあげた。

全身で抗議する娘のジーンズを夫が手で払っている。遠目でも、夫の手が触れるたび小さな何かがはらはらと落ちるのが見えた。芝や落ち葉がついたのだろうか。大きく転けた?
わずかな不安がよぎるが、娘はまっすぐこちらを見て頬を膨らまし、その娘の腕や背をはらう夫が肩を揺らして笑っているのを見て気掛かりは安堵に変わる。

「次はちゃんと見ててねー

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白い世界の話

白い世界の話

 はるか北、白い世界が映る。
 黒いはずのダウンコートは、斜めに降り続く雪でくすんだ鼠色に見えた。白いヘルメットから細く険しい眼が覗く。結ったの髪の毛から落ちたひとふさに、ばたばたと頬を打たれていた。断崖絶壁、下から吹き上げる風を全身に受けているように見えた。
「今年いちばんの、大雪です、交通機関に、大きな、影響が出ています」
 途切れ途切れになる女性キャスターの声を聞き、4歳の娘が腰を浮かす。1

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ふと泣きたくなる話

ふと泣きたくなる話

 木漏れ日が娘の頬に落ちたとき、ふと泣きたくなった。
 じいじいと鳴く声をたよりに枝という枝を見つめてセミを探す。伸びた羽に流れる翅脈は木の幹と同化し、生暖かい風に揺られる葉の影がそれを一層見えにくくする。頭上でけたたましく鳴いているのに目を凝らしても見つけられず、10メートルほど離れた場所にいる娘に目をやる。
 昨年買った麦わら帽子を深くかぶり、先ほどの私よりも長く、まっすぐに枝を見上げている。

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娘の雨傘を買った話

娘の雨傘を買った話

「明日のお天気、雨かなぁ?」
 夜、天井のライトをちいさく灯してベッドへもぐりこむと、もうすこしで4歳になる娘が言う。ぱちり、と大きく瞬きした瞳は、暗闇の中で溢れそうな光をきらりと灯している。こぼれた輝きをまっすぐに受けながら、私の言葉で残念がらせてしまうのがわかって、ちくりと心が痛む。
「明日は晴れるみたいだよ」
 夕方の天気予報でそう言っていたと伝えると、「そっかぁ」と気の無い返事をしたあと、

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振り返った娘と目が合う、5秒前の話

振り返った娘と目が合う、5秒前の話

 両足を投げ出して床に座り、時計を眺めて途方に暮れる。
 規則正しく進む針は、頭の中で数えるよりも随分はやく時を刻む。
 ちく、たく、ちく、たく。
 秒針の音はおおかたそう表現されているけれど、誰もが、いつでもそう聞こえているのだろうか。
 少なくとも今の私にとっては、ちく、ちく、ちく、ちく、と耳の奥へ柔らかい針を打ち付ける音に聞こえる。1秒おきに増えるその針の先から、得体の知れない生あたたかいジ

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2度目の胃腸炎と娘の話

2度目の胃腸炎と娘の話

 ぎりぎりと締めつけられる脳みそに眉がゆがむ。無数の針を持った胃液が、粘膜を突き破って腹まで刺さるようだった。食道は酸で焼けただれ、呼吸で肺が動くたび、絶えず込み上げてくる何かを抑えていた。……と、2週間ほど急性胃腸炎で寝込んだり、スローに生きて滋養していた。
 必要なこと以外は何もせず、うどん、うどん、おかゆ、うどん、の生活がやっと終わり、数日前から自炊をする気力が回復してきた。

 胃腸炎にな

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シャツワンピースを着て試着室で泣いた話

シャツワンピースを着て試着室で泣いた話

 大学生の夏、バイトを終えた足で深夜バスの停留所へ向かった。
 前輪と後輪のあいだにぽっかりと口を開けたトランクルームがある。荷物を預ける乗客が長い列を作っていた。
 運転手が流れ作業のように長方形のトランクケースを次々に投げ入れているのを横目に、乗車口へ向かう。肩からかけたトートバッグはバスの中に持ち込むと決めていた。
 乗車口へ行くと、特有の匂いが充満していた。久しぶりだな、と思いながら数段の

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春に思い出す音がある話

 ソメイヨシノがぷっくりと芽をつけはじめた。
 娘の通う保育園から、卒園式のお知らせが届いた。
 気づけば今年は幼稚園組と保育園組へ別れる年齢だった。娘を含め、半数ほどの園児はそのままひとつ上の学年へ上がる。もう半数は、他の幼稚園へ進級する。その別れと区切りの春、卒園式を執り行うとのことだった。

 お知らせの端に描かれた証書を手渡すイラストに、中学卒業の日を思い出した。中学卒業といっても、中高一

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変わらないものを見つけることの方が難しいのだ、という話

 ほんの数年前、はじめて「わうわ」としゃべったとき、私たちは歓喜した。

 数年前の冬の休日、寒さが和らいだ日はよく散歩をしていた。ブランケットを積んだベビーカーを押し、娘と手を繋ぐ。1歳になる前だった娘は歩くことを覚え、ベビーカーに乗ることを一層嫌がった。大人の手のひらよりもちいさな靴を履き、私の靴よりもちいさな一歩を噛みし目ながら、娘はずんずん歩いた。

 道端に生えた雑草をしゃがみこんで見つ

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砂の中の貝殻と涙の話

 保育園の屋上には園庭がある。
 海がないはずなのに、そこには2ミリ程度の小さな貝殻がたくさんあるらしい。たまに、ビニール袋に入れた小さな貝殻を「かかにおみやげだよ」と持ち帰ってくれる。
 
 はじめて持ち帰ったとき、
「どうして砂場なのに、貝殻があるの?」
と娘に聞かれた。貝殻は、砂場の中にひっそりと埋まっているらしい。
 わからなかったので保育園の先生に伺うと、「砂場用の砂を買うと入ってるんで

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なんでもない日にケーキを買う話

なんでもない日にケーキを買う話

踏んだら痛いことは知っていた。
現に、ジンジンとした痛みが私の足裏に広がっている。

カーテンを開けると、リビングに散乱したカラフルなブロックが色あざやかに映った。惨状を知っていたのに、娘がねむる横ですべてあきらめて目を閉じた昨晩の自分を、苦々しく思う。

重いはきだし窓を開けると、澄んだ空気が足元をすうっとかけ抜けた。
ベランダに出て太陽が差す場所へ手をかかげると、春になりたての光が皮膚の薄皮を

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残したい景色はいつも目の前にあって、嵐のように去る話

残したい景色はいつも目の前にあって、嵐のように去る話

無謀にも、「覚えておきたい」と思う。
人は忘れる生き物なのに。



外に出ると、3歳の娘と私は手を繋ぐ。
玄関を出て、娘は左手を差し出す。目は行く先のみを見ている。
娘の頭の横で宙に浮いている小さな手は、握り返されるのを静かに待っている。その手をぎゅっと掴むと、弾かれたように駆け出す。

待って、早いよ。そう言って、娘の揺れる髪の毛と、きゅっと上がった頬を斜め後ろから見る。喜びが、小さな身体か

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夫への育児賛歌の話

夫への育児賛歌の話

目が覚めると、寝室にひとりきりだった。

隣に寝ていたはずの3歳の娘も、その娘を私と挟むように寝ていた夫もいない。娘が寝ていたはずの場所を手のひらで撫でると、指先が軽い音を立てて滑った。
リビングから娘の笑い声が小さく聞こえ、ぼんやりとしていた頭が徐々に晴れてゆく。カーテンの隙間から、じんわり光が漏れている。朝だ。
時計を見ると、9時をとうに過ぎていた。



リビングのドアを開けると、炊きたて

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