変わらないものを見つけることの方が難しいのだ、という話
ほんの数年前、はじめて「わうわ」としゃべったとき、私たちは歓喜した。
数年前の冬の休日、寒さが和らいだ日はよく散歩をしていた。ブランケットを積んだベビーカーを押し、娘と手を繋ぐ。1歳になる前だった娘は歩くことを覚え、ベビーカーに乗ることを一層嫌がった。大人の手のひらよりもちいさな靴を履き、私の靴よりもちいさな一歩を噛みし目ながら、娘はずんずん歩いた。
道端に生えた雑草をしゃがみこんで見つめる娘に、「それは草だね」という。「春になったら花が咲くかもね」と加える。
群れをなして空を飛ぶ鳥を、ぽかんと口を開けて見上げていた。「渡り鳥かな、みんな暖かい方へ飛んでいくんだろうね」という。
靴に当たってころりと跳ねた石を目で追う。「靴に石が当たって転がっていったね」と伝える。
尾を立てて毅然と歩く芝犬を見て、「わんわん、犬、芝犬だ。かわいいね」という。私が子どものころ、実家で犬と暮らしていた。いいなぁ、と言ったこともある。
娘は聞こえているのかいないのか、いつも黙ったまま視線を動かさず、ただ、たたずんでいた。そして数秒、時間を置いたあと、何かに納得したような顔をして足を進める。散歩はこの繰り返しだった。
私は毎日のように独り言を繰り返す。喉がかすれて仕方がなかった。
「わうわ」
夫と私と娘、3人で散歩をしていた。リンリンと鈴を鳴らしながら歩くチワワを見て「小さい犬のわんわんだね」と言うと、風に乗ってその声が聞こえた。
娘は、ちいさなチワワを見ながら「わうわ、わうわ」と繰り返す。
私たちは娘が繰り返す「わうわ」を「犬」だと信じて疑わず、「そうだね!あれはわんわんだね」と何度も頷いた。
「そう、あれはわんわん。鈴もリンリンしてるね」
「すごいね、わんわんって言えたね」
そう言って、かわるがわる娘のやわらかい髪の毛を撫でた。
茶色い芝犬を「わうわ」と差す、小枝ほどの指。薄く動く富士山をうつしたような形をした小さな口。おおきく瞬きを繰り返すまつげ。その下にある真剣な眼差し。うわごとのように繰り返される「わうわ」。
私と夫は顔を寄せて見つめ、耳を寄せた。
あれから3年近く経ち、保育園の帰り道に犬を見かけた娘は言う。
「かか、みて、犬がいるよ。娘ちゃんたちが大きな声だしたらびっくりしちゃうから、しーってしながら行くんだよ」
ヌチアシ、サシアシ、シノリアシ。
小声でゆっくりと呪文を唱えながら、そうっとつま先をアスファルトへつける。すれ違ったあと、こちらを見る芝犬がハッハと舌を出すのを見て、えへへと笑う。そして、小さくなってゆく芝犬をしばらく見つめた後、
「あのわんちゃん、娘ちゃんのこと、だいすちって言ってたよねぇ。ほんとは遊んで欲しかったんだろうね」
と、得意気に私を見る。
「あーあ、娘ちゃん、わんわんとねこちゃんと一緒に、くらしてみたいなぁ」
最後に、期待と希望をぽつりとつけ足すのも忘れずに。
黙ったまま犬を凝視していた娘も、「わうわ」と初めて言った娘も、そこから3年後、すれ違う犬にやさしさを見せた娘も、戸惑うほど異なっていて、それでいて同じなのだ。
「わんわんとねこちゃんと暮らしたい」と語っていた娘は、道路にできた水たまりを見つけると駆け寄って足を入れる。興味がころころと移り変わるのはあの頃のままだ。
不意に空を見上げた娘は、南の空に白く輝くシリウスを見つけた。
「あれは、おおいぬ座の、いちばん輝く星だよ」
と伝える。シリウスの寿命は2億年ともいわれている。果てしなく長いようで、星にだって変化とともに終わりがある。
「いぬ?かがやくってなに?」
わからない、という顔をした。
輝くっていうのは、きらきら光るってことだよ。と言うと、説明の続きを待たず、童謡の“きらきらぼし”を歌い出した。少しずれる音程も、あやふやな歌詞も、いつか美しく整えられてしまうのだろう。軽く歌い流したあと、急にぴたりと立ち止まる。
「だっこしてー」
手を伸ばして待つ娘を「よいしょ」と言いながら抱き抱える。いつまでできるかわからない、娘といちばん近くに寄り添える“だっこ”を、言われたらできるだけするようにしている。そもそも、これまで娘はあまり甘えたがらなかった。歩けるようになってからは“だっこ”よりも自分の足で歩く方が好きだった。それが不安だったときもあった。だから私も夫も、最近ようやく言い出したこの“だっこ”が、とても嬉しい。
3歳後半16kgの甘えんぼう、さあ、受けて立ちます。
だってもう気づいてしまった。変わらないものを見つけることの方が難しいのだ。