春に包まれる話
「いま、見て、なかったでしょー!」
もー、と言う声に顔をあげた。
全身で抗議する娘のジーンズを夫が手で払っている。遠目でも、夫の手が触れるたび小さな何かがはらはらと落ちるのが見えた。芝や落ち葉がついたのだろうか。大きく転けた?
わずかな不安がよぎるが、娘はまっすぐこちらを見て頬を膨らまし、その娘の腕や背をはらう夫が肩を揺らして笑っているのを見て気掛かりは安堵に変わる。
「次はちゃんと見ててねー!」
頭の上で大きく丸を作る。読みかけの本に栞を挟み、ベンチの横に置いた大きめの黒いリュックへ入れる。娘が小さなころは荷物でぱんぱんに膨らんでいたリュックサック。4年経った今は持ち歩くものも減り、半分も埋まらずすかすかである。
それでもまだ、私は娘との外出でこの鞄を背負うことが多い。
リュックの横には、お昼のお弁当を食べた後に娘が拾ってくれた桜の花が3つ置いてある。風が吹くたび、3つは寄り添いながら、ころ、ころ、と揺れた。
河川敷に並んだ桜の木は見ごろを終え、満開から半分以上花が落ちていた。
娘は、1メートルほど離れた場所に転がっていた平らな段ボールを拾い、こちらを見る。
もう一度両腕で大きな丸を作ると、娘はへへ、と満足そうに笑い、その段ボールとともに斜面を駆け登った。
3メートルほどの緩やかな傾斜を、夫と娘が作った段ボール”そり”で滑る。
滑っては登り、滑っては登り。
飽きもせず延々と繰り返す娘を眺める。
娘が坂を踏み締めるたび、ちいさくはやく落ち葉が鳴る。いくよー、の声と芝と段ボールの擦れた音。土手を走る自転車の鈴の音。散歩中の犬の鳴声。風に木々が擦れる音。はるか向こうから聞こえる車の走行音。娘の後ろに夫が座り、着地に失敗してふたりで声を上げて笑う。
脳の真んなかがひどくぼんやりして、すべての音が、見えている世界が、ひどく遠くに感じた。
「ちゃんと見ててねー!」
何度目だろう。娘の、かか、いくよー!の号令に手を振る。懸命に手を振りかえし、そりにまたがる。
チチチ、という声が重なり、視界の右端から拳ほどの小さな黒い群れが大きな波を打ち、同時に娘の歓声が聴こえた。
頭上を抜け、二十羽ほどの小鳥が淡い春の空へと飛んだ。その鳥を追うように、花びらのヴェールが風に舞い、娘と夫はゆっくりと、けれども一瞬で春に包まれた。もう一度歓声を上げる娘が、桜色に染まる。
さあっと色が引くと、先頭を進む鳥は、上へ下へ大きな弧を描き、やがて真っ直ぐに、対岸を越え西へと消えた。薄く霞んだ空に、飛行機雲が2本伸びている。
尾を追ってゆっくり視線を下げると、頬を膨らました娘と目が合った。
「もー、娘ちゃんと鳥さん、どっちが好きなのー?」
ふくらました頬はわずかに笑みを携えている。
娘ちゃんに決まってるでしょ!
そう返しながら、ベンチで頭を揺らす3つの桜をそっと手のひらで包み、リュックの紐に腕を通し立ち上がった。
カサカサと芝生を奏でながら駆け寄り、ぎゅっと娘を抱き寄せる。
夫が娘の髪の毛に手を伸ばし、頭にくっついていた花びらを風に飛ばす。
花びらは、ふわりと川の方へと行くかと思いきや、ひらひらと舞いながら3人のあいだに落ちた。
「この花びら、娘ちゃんのこと好きだねぇ」
と娘がいう。
落ちた花びらは春風にすくわれかすかに揺れる。冬枯れした芝の合間からみずみずしい若芽が伸びていた。