見出し画像

ジャカルタの猛毒の雨はやがて霧雨へと変わり、その中で揺れる、男性器をもった少女と、死んでしまった仔犬



連作:5


猛毒の雨が降り注ぐジャカルタの中華街、そこに集いし怪物たちとの晩餐会






ヘンリー・ダーガー
〈非現実の王国で〉





連作:6



ジャカルタの猛毒の雨はやがて霧雨へと変わり、その中で揺れる、男性器をもった少女と、死んでしまった仔犬






わびしい現実を捨て、ダーガーがそこに生きることを選んだもうひとつの世界では、心躍る冒険や大義のための戦争、清らかな少女たちの友情、
そして神との格闘が繰り広げられていた


60年間、人知れず記した物語は


『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語』



と題され、1万5000ページを超えるタイプ原稿に巨大な挿絵が添えられていた。それは作品として意図されたものではなく、ダーガーがそこで生きるために創造した領域(Realm)だった

”ヘンリー・ダーガー” Wikipediaより抜粋




INDONESIA


NORTH JAKARTA

中華街チャイナタウン

13

Diana Halimディアナ ハリム

22:00-24:00





Diana Halim






わたしたちが食事とお酒を楽しんでいた個室のドアがノックされ、黒い長袖シャツを着た男性マネージャーが入って来て、Jeanジャン普通語プートンファで何ごとかを囁いた


Jeanジャンは頷き、日本語に切り替えてわたしにこういった


——”さわまつさん、ここの個室は時間制で、すでに二時間を超えてしまいました。お店を変えて別に移ってもいいのですが——


JeanジャンはそれからDianaディアナを見ながらこう続けた


——”外はまだ小雨が降っていて、少し霧も出ているようなので・・・
・・・このままこのお店の、フロア席に移ろうと思っていますが、どうですか?”



もちろん、問題なかった
それぞれグラスだけを持ち扉へ向かう






朝5時まで営業しているというここ香港飲茶の老舗はざわめきに満ちていた

フロア席はすでに22時を過ぎていても尚、かなりの込み具合で色とりどりの服を着た、地元客や観光客と思しき老若男女で溢れかえっている

世界中の至る土地に、いわゆる中華街チャイナタウンは存在していて、わたしもヴェトナム・ホーチミンの5区のCho Lonチョロンや、パリの中華街チャイナタウンは好んで見てきたが、ここジャカルタの心臓部
”PIKエリア”はそのどちらとも異なるような凝縮されたエネルギーに満ちているようにわたしには感じられた


そしてここ心臓部チャイナタウンに棲むひとびとのバイタリティは——


そしてここ”PIK”の住人


Jeanジャン——



Dianaディアナ——






ヘンリー・ダーガー
「非現実の王国で」




Dianaディアナ両性具有者アンドロギュノスと聞かされ、その難解な英単語を解読したときには驚いたが、実はそのときそれだけだった

何しろ目の前にいるDiana Halimディアナ ハリムは、誰がどこから見ても女性だった

人間は結局、視覚から入ってくる情報にどうしても左右されてしまうのがよくわかったような気がした

たとえ彼女が上半身に女性の胸をもち、下半身に男性器をもっていたとしても、視覚から入ってくるひとりの美しい女性像からはどうしても結び付かない

何よりDianaディアナの女性特有の柔らかな身体のラインがそう思わせた

Dianaディアナの小ぶりで、まるで青い果実を思わせるような小さく隆起する胸のラインをそういいたいのではない
全身をして、男性のように筋肉質でがっちりとした骨格ではなく、女性特有の柔らかで華奢なラインなのだ

たぶん、間違いないだろうがわたしと同じ状況下にいれば、誰しもがわたしと似たような感想を持ったに違いない

Jeanジャンはやや意外そうな目でわたしを見、涼し気な顔でこういった


——”あまり驚かれないのですね?”


別に正面にいるDianaディアナに対して遠慮して、派手におおげさに驚かなかったわけではなく、本当に、ただ、わたしの目の前にいるのはひとりの美しい中華美人の女性だったからだ


Dianaディアナもやや意外そうな顔つきでわたしを見ていた

Jeanジャンは重ねていった——



——”まぁ、ここでDianaディアナ下着ランジェリーでも下ろせば話は別なのでしょうが”


するとDianaディアナの顔色がサッと変わり、素早く白いナプキンで唇を何度か押し当てるとおもむろに立ち上がり、黒い細身のパンツのボタンに手をかけ最上部のそれをひとつ外して、一気に下ろそうとした

今度はわたしの顔色が変わる番

わたしは椅子から少し腰を浮かせ、慌てて



”ちょっ・・・”



と、口を開こうとするとJeanジャンDianaディアナも声をあげて大きく笑い
Dianaディアナは再びパンツのボタンをとめ、首を小さく横に振りながら静かに腰を下ろした

もちろんそれはこの夜に飲んだお酒が影響しているのは明白だった
ふたりとも顔をやや朱に染めていて、以前SemarangスマランJeanジャンと飲んだときもそうだったが、基本的にかれの酒はいつも楽しい酒で、その幼馴染のDianaディアナも同様のようだった


17歳も年下の小僧と”小娘”がこのわたしを手玉に取るとは・・・

しかしもちろんそれは気分の悪いものではなかった


そういえば——

Jeanジャンがこの日初めて笑顔を覗かせたのはこのときだったのかも知れない・・・


そしてDianaディアナが立ち上がった瞬間に、タイトな黒いノースリーヴが腹部に沿うようにもちあがり、そのとき左の腰骨あたりに小さな入れ墨タトゥーが見えた

真っ白な彼女の肌に、黒い入れ墨タトゥーは印象的だった

それはわたしには小さな黒い蜥蜴とかげのように見え、しかも赤い舌先がチロチロと出ていたように思えた



蜥蜴とかげ——

蜥蜴とかげか——



そのとき瞬間的にこう思った

蜥蜴とかげって・・・


両性類・・・か——


いや——

いやいや
それとも

爬虫類はちゅうるいだったか——


Dianaディアナにもう一度見せて欲しいと頼んで、蜥蜴とかげ
両生類なのか爬虫類なのかを訊いてみようと思い
もしも両生類ならば、何かの暗示か護符、あるいは全く別の意味があるのかを尋ねようと思い口を開こうとすると、逆にDianaディアナにこう訊かれた


——”さわまつさん、しかし〈androgynos〉の意味をよくおわかりでしたね。英語が母国語ではいひとには、いつもなかなか意味が通じません
けっしてpopularポピュラー(な単語)ではありません”


質問しようとその出鼻を挫かれるくじかれる形にはなったが
なぜそのような専門用語を思わせる英単語をわたしが知っていたかは
「縁」があって、アメリカの1973年に物故した



”アウトサイダー・アートの老王”


ヘンリー・ダーガー
の作品を知り、それについて自分で調べていた過程で
この英単語と巡り合ったのだ

androgynosアンドロギュノス



世界一で最も長い長編小説と知られ、しかしおそらくは未だに刊行されない



「非現実の王国で」



その主人公の七人姉妹Vivian Girlsヴィヴィアン ガールズたちは少女の肉体を持ちながらも男性器をもつ姿が、その世界一長い物語の表紙や
物語のあらゆる局面に挿入される形で描かれているのだ


そしてダーガーの死後
粗末なアパートのかれの遺品の旅行鞄の中から現れたこの長大な物語は
NYとPARISのキュレーターをまるで磁力の引き寄せ



やがて

世界中のひとびとの心を激しく揺さぶりはじめるのだ



ヘンリー・ダーガー
「非現実の王国で」



そしてこの老王の存在とその作品をわたしが初めて知った場所は
Facebookの「過去の思い出」機能の通知に依れば、今から正確に10年前の
ヴェトナム・ホーチミンで
その存在を熱意をもってわたしに教えてくれたのは、当時20代中頃のある日本人女性だった




ヘンリー・ダーガー
「非現実の王国で」






VIETNAM 2013

HO CHI MINH, District 1

MAJESTIC HOTEL

14

臆病で小さな緑亀なのか、それとも雨に打たれた白い仔犬なのか





VIETNAM 2013






当時わたしは、ホーチミンに常駐という形態ではなく、出張ベースで一か月のうち正確に二週間を主に1区で過ごしていた

そうした形態の生活を、実に約8年余り過ごし、ホーチミンでは多くのひとたちと知り合うことになった



HO CHI MINH, VIETNAM
2013


仕事以外でも異業種の、そしてほとんど同世代の日本人男性で結成された交流会、”BIA HOI CLUB”という、週末に主に7区に集い、ローカル屋台でビールを飲むだけのささやかな会に参加するようになり、ある一時期はその会の中心メンバーのひとりとして様々な業種の日本人と知り合うことになった

ある晩、その会で知り合い今でも懇意にしている旧知の友人から電話で相談を受けた

それによると、その友人は日本出張で一時帰国の日程が決まっていたが、その帰国期間の間にバックパッカーで世界を放浪している女性の友人が隣のカンボジアから陸路でホーチミンに入ってくるらしく、その女性のHCMCホーチミン滞在中のアテンドをお願いできないだろうかという内容の相談だった

それは別にわたしでなくてもよかったはずだが、当時のわたしの業務の性質のひとつは、日本から商談に来られた顧客を、商談が終わった足で市内のレストランや、ときに観光地に案内するということが頻繁にあり、ちょっとしたガイドのような真似事は簡単にこなせるということが大きかったのかもしれない

それにわたしの方も、相手がわたしよりいくらか年下の若い女性だということもあり、そこに小さな下心のようなものが全くなかったわけではなかったのだ

わたしはふたつ返事でその依頼を受け、ある土曜日の夜に彼女が数日滞在する予定の、世界中のバックパッカーが集まる
Pham Ngu Laoファング―ラオ通りまでタクシーで向かったのだ





Pham Ngu Lao St.
2013




そうして、ピックアップに向かったGUEST HOUSEゲストハウスでその女性と会うも、会って五分もせずに、この話をもってきたBIA HOI CLUBビアホイクラブの友人のことをを呪いたくなった

もちろん、その女性のことをとやかくいうつもりは全くないのだが、彼女は



究極の人見知り屋さん


だったのだ・・・
今振り返っても、この彼女クラスの人見知り屋さんには出会った経験がない

ショートカットでかなりの小柄、問答無用で保護したくなるような女優の石田ゆり子を思わせる仔犬顔で、小さなリュックを背ではなく胸元にかけ、それがまるで自身を外敵や悪党から守る「盾」のように抱きしめながらわたしの前に現れたのだ

それ自体はもちろん問題はないのだが、挨拶をかねて、わたしが何を話しかけても聞き取れないような小声でぼそぼそっと何かをいうだけで、彼女からの”YES”のサインは無言で小さく首を縦にふるだけ・・・

友人からは、彼女はバックパッカーでインドを放浪した後に空路で東アジアに入り、カンボジアを旅した足でヴェトナムに入ってきたらしいと聞いていて、わたしはよほどタフな女性のイメージを抱いていたが、眼前に現れたのはまるで臆病で小さな緑亀・・・いや、雨の夜道で震えているような仔犬こいぬだったというわけだ




Pham Ngu Lao St.
2013



当時のPham Ngu Lao通りの喧騒は、交通規制が入る前の時代だったこともあり、多国籍の多くのひとびとが行き交うすさまじいエリアだった

わたしはとりあえず彼女をGUEST HOUSEゲストハウスから連れ出し、ごったがえす人波をかきわけるようにして進み、当時よく通っていた通りの最も奥の、Bui Vien通りと交差する角の店〈Santa Cafe〉へと案内した

その店は欧米人のバックパッカーを当て込んだ安直の洋食の店で、通りまで簡易テーブルと椅子が並び、通りを行き交うひとをぼんやりと眺めながらビールを飲むのが常で、商談や会食のあとの深夜にひとりでもよく来たし、福岡から来た友人も案内したし、CLUBのメンバーとも来たし、本当に懇意にしていた同世代の日本からのお客様のみも、ときどき案内していた

要するに肩肘を張らずに、本当に力を抜いてリラックスできるような店だったのだ



Santa Cafe
2013
惜しまれながらも数年前に閉店




仔犬の彼女は相変わらず何を考えているのかわたしにはさっぱり不明だったが、通りがかった定員にとりあえずタイガーが吠えているラベルのTiger Beerと氷を頼み、ヴェトナム方式とも呼べる氷を入れたグラス・ビールで、ふたりでとりあえずの乾杯をした

ちなみにFacebookの当時の記録によると、このとき飲んだビールが一本22,000VND、当時のレートで約90円という破格の安さということもあり、だから多くのバックパッカーたちが集まる、東南アジアのひとつの「聖地」でもあるのだ




Santa Cafe 2013
10年前・・・あの頃おれは・・・若かった・・・(遠い目)




Santa Cafe 2013
福岡から遊びに来てくれた女性の友人2名を案内して
その場に居合わせた外国人夫妻と乾杯笑

2013年当時、一番手前の女性の友人からは「わたしの二の腕の太さ、トリミングしてよ涙」と強くいわれたが、もう時効なのでこのまま掲載



そして乾杯の後は、その仔犬の彼女はメニューを、まるで小さな緑亀のように自分の顔を隠すようにしながら必死に料理を選んでいたのだ

わたしはどのくらいの時間それを待っていただろう

ビールはすでに飲み終え、追加でもう一本頼んでそれを飲んでもいてもまだ決まらない・・・

もちろんその間はお互いに無言・・・


そして突然ハッとし、仔犬ちゃんに訊いてみた


——”ごめんごめん。メニューはヴェトナム語と英語表記だから、ひょっとして全然わからなかったかな?”


そう。この手のバックパッカーが多く集まる店はメニューに料理の写真を載せるような親切心はなく、ただぶっきら棒にヴェトナム語と英語でしか表記されていないものが多かったのだ


するとその超人見知りな仔犬ちゃんは、本当に消え入りそうな小さな声でこういった



——”すっ・・・すいません。わたし・・・先に申し上げるべきだったのですが、まだヴェトナムの通貨のVNDヴェトナムドンをほとんど持っていなくて・・・”



やれやれ・・・



やれやれだ・・・
何が哀しくてバックパッカーの、しかもいくらか年下の、それも女性を相手に、わたしが彼女にお金なんかを出させることがあろうか・・・



少しばかりこれにはわたしもショックを受けた



——おれって・・・そんなにケチでセコイ男に見えるのだろうか・・・?



もちろんそれは、この仔犬の彼女の礼儀正しさだということはわかってはいたが、そのときは小さく苦笑して首を横に振るしかなかった




Pham Ngu Lao St.
2013



——”そんなことは何も気にしなくていいよ。1区にレートが最もいい両替屋があるから後で連れていってあげるよ”


そしてそこでお互いに何本づつかビールを飲み、この仔犬の彼女の顔に朱が差し始めた頃に、ようやくリラックスしはじめたのか、それともわたしに対する警戒心を解き始めたのか、じょじょに、ぽつりぽつりと話始めた

もちろんそれでも、会話が成立するというわけではなかったのだが・・・




Pham Ngu Lao St.
2013




ホーチミン1区の目抜き通り、Don Khoiドンコイ通り
SHERATON HOTELの通りを挟んだ向かいの両替屋にタクシーで連れていき、さてこの後はどうしようかとわたしは途方に暮れはじめていた
会話がほとんど成立しないのだ

ひょっとしてこの仔犬の彼女は、単独で市内を歩いて廻りたいのではないのだろうか

とりあえず友人の依頼通りにピックアップし、彼女もVNDヴェトナムドンを手したのだ

ひとりでホーチミンを味わいたいのであれば、あとは最低限の危険情報を彼女に教えてあげれば、もうそっとしておくべきなのではないか・・・

夜でも多くの観光客で賑わう通りの突き当りにあるサイゴン・リバーへ向かって何となくふたりで歩きながらそう考えていると、相変わらずリュックを胸元に構えた仔犬の彼女はわたしをチラチラと見上げながら、おずおずと、そしておっかなびっくり、わたしにこう話しかけてきた



——”あっ、あの・・・さわまつさんは沢木耕太郎にお詳しいとXXXから聞いているのですが・・・それは・・・本当でしょうか・・・?”



この雨に打たれたような石田ゆり子的な仔犬はいったい何を言い出したのかと一瞬怪訝に思ったが
その内容を理解してわたしは小さく声をあげそうになった



そうか!





その友人がわたしにこの仔犬ちゃんのお守りを依頼してきた理由は
沢木耕太郎だったのか

これで友人が名指しでわたしを指名してくれた理由がわかった
その友人とサシで飲むときは、お互いに沢木耕太郎の熱心なファンでもあるので新刊が発売されるとお互いに感想を述べあっていたのだ
だからかれはわたしに依頼してきたのだ
気がつくのが遅すぎたくらいだった



仔犬ちゃんはいった



——”あっ、あの・・・もしよろしければ”MAJESTIC HOTEL”に連れて行って頂きたいのですが・・・もし、よければ・・・でいいのですが・・・
さっ、さわまつさんはよく行ってらっしゃるとXXXからは聞いていて・・・”



仔犬ちゃんはかなり勇気を振り絞ってわたしに話しかけてきたに違いない
前にかけていたリュックを強く両手で抱きしめるようなしぐさだった

彼女の声はほとんど聞き取れず、わたしはやや前傾で膝を曲げ、彼女の口元に耳をもっていかなければ聞き取れないほどの小声だった

わたしはひとりで笑いながら何度も頷き、隣の仔犬ちゃんを見下ろすかたちでこういった




”MAJESTICでMs.SAIGON?”




SAIGON RIVER
2013



バックパッカーたちの聖書バイブルともいわれる一冊に、ノンフィクション作家の大家、沢木耕太郎の「深夜特急」がある
香港からインドのデリーを経て、陸路の、しかも乗り合いバスでロンドンまで旅をする紀行文の伝説的な一冊だ

沢木さんはそれ以外にも多くの紀行文の傑作を書かれているが、そのなかのひとつにヴェトナムを舞台にした「メコンの光」という名作がある
(ノンフィクション全集「オン・ザ・ボーダー」「一号線を北上せよ」に収蔵)

それは2000年代初頭の沢木さんの旅を記録したノンフィクションで
1970年代のヴェトナム戦時下の生々しいルポルタージュを残してこの世を唐突に去ったジャーナリストの近藤紘一を追走するかのような旅でもあり
その近藤紘一が、やがて精神病の誘発に依る原因で、自殺によって失うことになる前妻とともに滞在していた追憶の宿、MAJESTIC HOTELに、沢木さんは滞在されるのだ



あの夏の朝、私は幸福だった。
かたわらには前の妻がおり、そして私たちの目の前には、二年間の外国での自由な時間があった。
妻はベランダに椅子を持ち出し、長い時間をかけて、川と対岸の景色を写生した。

「サイゴンの一番長い日」近藤紘一
※”サイゴン”は現ホーチミンの旧称



そしてその「メコンの光」のなかでもとりわけ印象深く描かれているのが、ホテルの屋上にあるオープン・エアの〈Breeze Sky Bar〉でカクテルの
Ms. SAIGONミス サイゴンを飲むという描写が数回描かれていて、それを読んだバックパッカーや沢木さんのファンがまるで〈巡礼地〉のようにその場所を訪れ、そこで飲むMs.SAIGONミスサイゴンを通称、わたしたちは




MAJESTICマジェスティックMs. SAOGONミスサイゴン


と呼んでいたのだ



もちろんいうまでもなく、わたしも何度も何度もそこへ行き
「メコンの光」を読みながら、沢木さんと同じように
Ms.SAIGONミスサイゴンを飲み、ひとりで悦に入り、おおいに満足していたのだ

そしてそれに収まらず、わたしの両親が旅行でHCMCに来た際にもかなり無理をして自腹を切り、この五つ星ホテルでもあるMAJESTICに宿泊させ、やはり〈Breeze Sky Bar〉へ連れていき、熱意をもって、ここがどういう場所なのかをふたりに説明しながら、酒が一滴も飲めない父の分まで一緒にMs.SAIGON《ミスサイゴン》を頼み、半ば無理やり乾杯して一緒に飲んだのだ・・・




Breeze Sky Bar. HOTEL MAJESTIC
2013
両親が遊びに来てくれたときの一枚
父は正確にこの4年後の2017年に鬼籍に入るが、HCMCのMAJESTICはわたしたち家族にとっても特別な思い出を作ってくれた、大事な追憶の場所であることは間違いない
特別な想いを残したホテルなのだ

コロナが明け、今でも日本からヴェトナム旅行にでかける友人たちに、よくお勧めのホテルはどこ?と訊かれるが、このMAJESTIC以外はまったく思いつかない

そして、わたしは母のクローン人間か!?って言われるほど似ている(らしい)




この夜は特別、沢木耕太郎に感謝した


この何を考えているのかさっぱりわからない人見知りで臆病な仔犬ちゃん
沢木さん、あなたを媒介してようやく共通点を見出すことができました!



Breeze Sky Bar, HOTEL MAJESTIC.
Ms. SAIGON 2013
画面奥のサイゴン・リバーの風を浴びながらの一杯
別の日に撮影した一枚



フレンチ・コロニアルを濃く残す建物のMAJESTICに仔犬の彼女を連れて行き、木製の小さなエレベーターで屋上の〈Breeze Sky Bar〉まで案内して
Ms.SAIGONミスサイゴンを頼んであげると、彼女はとても喜んだ



彼女もまた、わたしと同じく熱心な沢木耕太郎のファンだったのだ






それは、たぶん、イギリスで作られ、世界的にヒットしたミュージカル
「ミスサイゴン」から採った名前なのだろう。
「ミスサイゴン」は、「マダムバタフライ」のヴェトナム版ともいうべきもので、サイゴン陥落によって引き裂かれたアメリカ兵とヴェトナム女性の悲恋の物語だ。
いつか迎えに来てくれることを信じて、アメリカ兵との間にできた子供を育てる健気な女主人公。
しかし、その女主人公に次々と不幸が押し寄せ、ついには自ら命を絶つことになる。

「メコンの光」沢木耕太郎



出てきたミス・サイゴンは、スピリッツにライムを絞り込み、甘みを加えるために何らかのリキュールを数滴たらしたものだった。
しかし、そのリキュールが何なのかは、私の粗雑な舌では識別できなかった。

「メコンの光」沢木耕太郎



その夜は遅くまで沢木耕太郎の著作についておおいにふたりで語り合い、仔犬ちゃんも警戒心を解いてくれて大いに盛り上がり

なんだ!変わったこじゃなくてよかった!

と自分勝手な感想までもった



ヘンリー・ダーガー
「非現実の王国で」



仔犬の彼女はイラストレイターを養成する専門学校をでたあと、美大に入り直し、社会に出てからは親元からほど近い小さな広告代理店に数年勤め、その間に貯めたお金で、思い切って海外へ出てきたらしい

親には、専門学校の学費に加え、高額な授業料を払わなければならない美大まで進ませてもらい、そして人間関係に嫌気がさしてあっさり会社を辞めた経緯で、ご両親ー特に父親とはかなり複雑な状況下にあったらしい

それに対してわたしが彼女に何か具体的なアドヴァイスをしたとは到底思えない

ただ強く印象に残ったのは、すこしばかり酔いの勢いに任せて彼女が語り始めたアメリカの”アウトサイダー・アートの老王”の人生とその作品群だった

おそらく本当にアートや芸術が好きな女性だったのだろう
この夜のほとんど99%はわたしが話題を見つけて提供したが、残りの1%は仔犬の彼女が自分から語ったヘンリー・ダーガーの話だった

しかし、その1%が全てだった

彼女のスマートフォンに映し出されたダーガーの「非現実の王国で」のパステル画とコラージュを多用した独特の世界観は、しかし、わたしにも強い印象を残した

そしてこの仔犬の彼女がまるで「盾」のように前にからっていたリュックからスケッチブックを取り出すと、インドのガンジス河の霧が漂う朝の風景のスケッチや、動物園で見てきたベンガル虎の見事な線画、そして何枚も何枚も模写したダーガーの水彩画を、まるで思い切って自分の秘密を打ち明けるようにわたしに見せてくれたのだ


はっきりは覚えてはいないが、後になって調べ直すと、2013年当時の、その数年前に東京で初めてダーガーの展覧会が開かれていたはずだ
彼女はそこへ実際に足を運び、強烈な衝撃に小さな身体の全身を撃ち抜かれたのだ



HO CHI MINH, VIETNAM
2013



その夜はお互いに二杯づつ、ミス・サイゴンを飲み、わたしはさらにフォア・ローゼズを一杯飲んだあとで、彼女をタクシーに乗せて再び
喧騒渦巻く深夜のPham Ngu Lao通りの彼女が宿泊していたGUEST HOUSEゲストハウスまで送り届け、わたしは予定通りに翌日曜日の朝の便で成田に帰国した

10年前のその夜に、なぜそのとき飲んだお酒の種類と数まで覚えているのかは後述することになる

この夜のことは後年、わたしの心に鋭く刻まれる夜となり、この夜を追走することができる〈記憶〉を、わたしはもちえることができたのだ



そして、この仔犬の彼女と会ったのはこの日が最後だった
もうお互いの人生が交差することは決してなく、本当に最後だったのだ




ヘンリー・ダーガー
「非現実の王国で」



それから数か月して、久しぶりにBIA HOI CLUBのいつもの飲み会にでも行こうと思い立ち、7区のローカル屋台に着くと、その仔犬の彼女のアテンドを依頼してきた友人も来ていた

このBIA HOI CLUBのメンバーたちは、基本的に自由参加で、都合がつけば行くというような緩やかなルールの下に成り立っていて、同じメンバーでも数か月、あるいは数年会わないということもざらだった

それは基本的に当時30代のメンバーが多く、みな所属している会社の仕事ビジネスの最前線で仕事をしていて、商談の後は顧客との会食をもつ者やわたしのように頻繁に日本とヴェトナムを行き来する者が多かったのだ



HO CHI MINH, District 7
2013
ある夜のBIA HOI CLUBで使ったお店
`



久し振りに再会したその友人に会うと、かれは他のメンバーに断わりをいれてこういった



——”さわまつさん、ちょっと向こうのテーブルで二人で飲もう”



いったい何事なのだろう
わたしも他のメンバーに小さく断わりをいれ、その友人と別のテーブルに座ると、普段は陽気な男が沈痛な面持ちでこういったのだ


——”数か月前に、おれがアテンドを頼んだバックパッカーのXXXのことなんだけど、実は・・・”


小さなリュックサックを前にからった仔犬の彼女の姿が脳裏によぎる


かれは続けた


——”実は旅を終えて帰国したほとんどその直後に交通事故で死んだんです”





えっ——

なんだって——





わたしと別れた後の仔犬の彼女の旅は、その後ヴェトナムを北上し首都HANOIハノイを超えて、徒歩で中国国境を越えて、陸路の南廻りで上海まで到達したはずだ

それは以前わたしがバックパッカーで辿ったルートの、全く逆のルートでもあった

あの日会った際に、当時隆盛を極めたFacebookのアカウントを交換して
「友達」になっていたのだ

それによって彼女の足跡をわたしも追うことができ、帰国したのを
「見届けた」あと、たしかに彼女の投稿は一切なくなっていたが、わたしはほとんど気にも留めていなかった

当時の海外で知り合った友人たちの傾向のひとつとして、海外では頻繁にFacebookの投稿を繰り返すが、日本に戻るとパタリと投稿を止めるパターンが多く、わたしもそうした傾向が強くでていた

それは海外にいるということを、まるで何か特別視したかのような幼い虚栄心を投影させたような不思議な心理で、もちろん当時はそのようなことは自身で気がつくことができなかった


その友人が教えてくれたところによると、その交通事故はどうやら相手側の飲酒運転に明確な原因を求めることができる性質のものだったらしい


あの小柄で、まるで夜の冷たい雨に打たれ、問答無用で両手で胸に抱きかかえて保護したくなるような、仔犬のように可愛らしい、仔犬の彼女は、ほとんど即死に近い状態で突然この世を去っていってしまったらしい・・・




その友人から聞かされた事実の、この夜のことは10年経った今でも克明に覚えている
この夜にわたしが何を着ていて、その友人が着ていたポロシャツの色さえも今でも不思議と鮮明に覚えているのだ

原色の青色が目にきつい、屋台の安物のプラスチックの椅子の背もたれに全体重を預け、茫然とした




まさか——





そんなことが・・・





ヘンリー・ダーガー
「非現実の王国で」



時折、ネットのニュースで飲酒運転事故の記事のタイトルが視界に入ってくると、いくつかの情景が唐突に脳裏に浮かび上がることがある

それらは全く脈絡がなく、また秩序もないもので
カクテルのミス・サイゴンとヘンリー・ダーガーの男性器をもつVivian Girlsたちが一瞬だけわたしの脳裏に浮かび上がってくるのだ




HO CHI MINH, VIETNAM
聖マリア大聖堂
2013



今日現在、全世界には約70億人の人間がこの地球上にいるはずだが、飲酒運転事故の報道を観て、ミス・サイゴンとVivian Girlsを瞬間的に連想するのは、その70億人のなかでも、このわたししかいないはずだ

一件脈絡のない無機質で無関係なものだが、わたしの内部ではある有機的な繋がりをもって、たしかに存在しているのだ

それはなにも、わたしが特別鋭敏で、また、繊細な感性を持っているといいたいのではない

一件の報道記事ニュース、あるいは一枚の絵、一曲の音楽、何かの手触り、懐かしい匂い

それはあるいは何かの味覚であったとしても、わたしたちが五感で感じることができる感覚の、それらが無意識下で突然沸き起こる過去からの追憶は
間違いなく70億通りの、ひとびとの心を瞬間的によぎる、それぞれ固有の情景が存在しているはずだ



生きている者で、それを持たない者はいない



だからわたしの場合も、ただの70億分の一にすぎない


ただひとつだけ、絶対的なものがあるとすれば、その瞬間的に浮かび上がる情景には決して「未来」は含まれないということだけだ

地球上の誰もが未来の記憶と経験をもたず、だから未来それを追体験することだけはできない

ただ在るのは、ときおり、うっと声を出して呻いてうめいてしまうような、中世のギロチンを思わせるような唐突さで断絶された冷たい過去だけだ




それは間違いない事実だった



だから・・・という言い方はおかしいのかも知れないが、わたしの中ではヘンリー・ダーガーの作品群は、だから・・・いつも身近にある存在でもあるのだ


ヴァン・ゴッホや、ダ・ヴィンチ、「地獄門」のロダンや、「バベルの塔」のブリューゲルのように、過去の遠い地点からやって来た芸術家アーティストではないのだ


海外からほとんど毎日のように見る日本のYahoo!ニュースの裏側には
Ms. SAIGONミスサイゴンとVivian Girlsが毎週のように透けて見えることがあるのだ・・・




HO CHI MINH, VIETNAM
聖マリア大聖堂
2013



この章で掲載した2013年当時のホーチミンの写真は、すべてわたしのFacebookの投稿から抽出し、この〈note〉に再度掲載したものだ

タイムマシンのように時代を2013年まで遡り、今回改めて俯瞰すると、そこにはもちろんあの仔犬の彼女の記憶も、まるで図書館の閉架書庫の書棚のように残されてあった

それはあの夜の顛末のおおまかなアウトラインだけを短く切り取ったもので、おそらくわたししか内容を把握できないほどに簡素化され、第三者が読んだとしても、そこに仔犬の彼女がいたということはわからない

なぜなのだろう

別に彼女の存在を「隠す」意図はわたしにはなかったはずだ
「隠す」理由が一切ないからだ

微かに訝し気にいぶかしげ思って当時の記録を遡っていると、そこにはもう一つ、仔犬の彼女に関する別の記事があった

しかしそれには「閲覧制限」がかけられ、わたし自身しか読むことができないようにロックがかかっている

それでようやく理解ができた

その「閲覧制限」の記事は「下書き」だったのだ
それは記事にする前の推敲すいこうともいうべきもので、当時のわたしは仔犬の彼女との短い交流をなんとか文章として定着させようと試みてはいたが、おそらくはまだ客観的な事実やそれに対する自分の内面を書き出すことができる技術、いや、感応する精神を持ち得ていなく、途中で断念したか、あるいは時間を作ってどこかのタイミングで何とか書き上げようと文章と構成を練っていたのか、そのどちらだったのかは、今ではもう思い出せない

しかし、いずれにせよ忘れてしまっていたことだけは間違いなかった

そして、その推敲の中には僅かに、仔犬の彼女の当夜の「肉声」が遺されていた






東京まで行って観てきたヘンリー・ダーガーの作品群は本当に衝撃でした
アメリカの貧困層のなかで生まれ、生涯をカトリック系の病院の掃除夫として最低限のささやかな収入を得ながら、生涯の全てを「非現実の王国」
Vivian Girlsに捧げて・・・

ダーガーの略歴については、研究は進められていますがまだ全貌はわかっていません

何しろ職場や近所のひとたちから話しかけられても、ただ天気の話しかしなかったと言われているくらいで・・・

しかしVivian Girlsが生まれた経緯については、ダーガーが幼いときに里子に出された「妹」の存在が決定的だったという説が有力で、ダーガーは生涯その妹と再会することができず、一説ではその妹の名前さえも知ることができなかったといわれています

生涯会うことが出来なかった「妹」への執着に近い追慕の強い思いが・・・

徹底的な孤独の中でしか生まれない、本当の芸術というものがあるのです



仔犬の彼女




わたしたちの人生に、「もしも」は存在しない
もしもあのとき、という発想は空想と同義で、そこには微かな希望的な観測しか存在しえない

だから死者は死ぬべきときにこの世界を去り、それがたとえ陰惨な事故であったとしても同じで、仔犬の彼女が辿らざるをえなかった情熱の軌跡だと思うしか、この喪失の痛みから逃れることができない

だが、たった一度だけ「もしも」という仮定が許されるのであれば
遺された仔犬の彼女の「肉声」に対して、こう反論し、問うてみたい誘惑に駆られる


——”「孤独の中でしか生まれない芸術」などはない

それは「孤独の中でしか、生まれざるを得なかった芸術」と言い換えられるべきで、ヘンリー・ダーガー自身も、そのようにして生きる以外に自分の人生を生き抜く方法を知らなかったはずだ
そして、ダーガーのような生き方ができる人間は、この世界ではそれこそダーガー自身しか存在しえなく、わたしたちが真似することは絶対にできない

だから、歴史上で最も孤高で、最も偉大な芸術家のひとりであるはずだ”






Thai Van Lung St.
"BERNIES"
2013




そして、あの仔犬の彼女の死後数年が経って、わたしは本格的に英語を学び始めた過程で、ダーガーとVivian Girlsのことをもっと知りたくなり、日本語では限られた情報しか得られなかったこともあり、本国アメリカのサイトやダーガーについて英語で書かれた個人ブログを探し出し、その過程で男性器をもつVivian Girls〈androgynos〉という両性具有者を指す
わたしにとっては馴染みのない英単語に巡り合うことになったのだ・・・





HO CHI MINH, VIETNAM
聖マリア大聖堂
2013







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連作:7〈完結編?〉

10月01日(日) 日本時間AM7:00

〈六か国語を操る華僑のゲイ〉と〈四か国語を操る華僑の両性具有者アンドロギュノス




〈お断り〉

前作の終わりで、今回の連作:6で完結のアナウンスを出させて頂いておりましたが、これを書く時点ですでに15,000字に迫るもので、このまま続けても良いのですが、やはり便宜上ここで一端カットし、次回、連作:7での完結に延長させて頂きます(たぶん)

だらだらと長くなってしまっていますがどうぞ最後までお付き合いください





ヘンリー・ダーガー
「非現実の王国で」






この連作へと続く
前日譚




連作:1


〈六か国語を操る華僑のゲイ〉と、〈黒いノースリーヴの”D”〉




連作:2


今夜、ジャカルタの心臓部を喰らう




連作:3


混沌と喧騒の激しい渦の中、ジャカルタの陽は落下して、光は慟哭と共に去りぬ




連作:4


汝、月灯りに照らしだされ、ジャカルタの酸性雨に濡れし黒衣を纏ひて、来たる




連作:5


猛毒の雨が降り注ぐジャカルタの中華街、そこに集いし怪物たちとの晩餐会




連作:7〈完結編〉


〈六か国語を操る華僑のゲイ〉と〈四か国語を操る華僑の両性具有者〉





次回へ続く





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