オフをオフにする
今、この社会を生きていて、【何の価値観にも触れない時間】を作ることが難しいなと思っている。
正直、ぼくはこの文章を書くか迷った。
探せば書くことはある。でもなぜ探すのだろうとも思った。
文章を書くことに対して義務感がまとわりはじめている。
「義務感を捨てよう」
「何もしないことを選択しよう」
ぼくは一度スマートフォンを置き、ゲームの電源をつけた。
ゲームというのは本当に何も産まない。暇つぶしの王様だ。
何もしないことを選択したはずのぼくがゲームをする。
普段とは違うゲームへの入り口だった。
するとテレビ画面の向こう側にある“無体”な世界に対して、感情が動いてしまっていることに気づいてしまった。気づいたというよりかは敏感になっていたということばの方が近いかもしれない。
何もしないことを選択したぼくにとって、“無体”に対する感情ほど邪魔なものはなかった。
なのですぐにゲームの電源を消し、テレビを見始めた。
企業への密着系ドキュメンタリーである。
身体はだらけきっているし、特別何か感情移入するような番組ではないのに、価値観がぼくに入ってきてしまう。
そしてテレビを消して、AirPodsを耳につけ、ノイズキャンセリングしながら、この文章と向き合うことになった。
どうして【何もしない】ということができないのだろう。
もちろん命ある限り、今いる場所に存在し続けているのだけど、どうして【ただ、いる】ということができないのか。
途中経過を書くようで申し訳ないが、この文章を書き始めて数分。
【ただ、いる】という状態に近づいてきた。
実際にはこの文章を書くためにスマートフォンを見ながら、思考はしているのだけど、呼吸が深くなり、リラックス状態を獲得しはじめている。
これは自分を内省している時間か。
オフ日というのは自分を省みるということに対して逆に油断してしまうのかもしれない。
オフだからこそ、ふっと自分の存在を忘れてしまう。何かをやることに必死になってしまう。
忙しいときの方が「いかんいかん、自分の時間を取りたい」となっているのかもしれない。
世界に価値観が氾濫しているからこそ、自分の価値観を思い出してあげる。
そのために社会から隔絶された時間・空間を自分のために確保してあげると心のデトックスになるのかもしれない。
瞑想だ、瞑想。瞑想しよう。
良い時間でした。