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京都と差別

京都における差別の歴史的背景

京都は長い歴史の中で身分制度による差別が形成・固定化された土地でもあります。特に被差別部落(歴史的に差別されてきた人々の集落)の問題は、中世から現代に至るまで社会構造と深く関わっています。以下、京都における差別の歴史的背景について、被差別部落の形成、社会制度との関係、具体的な差別の実態、戦後の変化と部落解放運動という観点から詳しく整理します。

被差別部落の歴史と形成の経緯

中世における被差別民と身分制度の萌芽

京都における被差別部落の起源は中世にさかのぼります。中世の日本社会では、**「ケガレ(穢れ)」の観念があり、死や血にまつわる事象を忌避する風習が強く存在しました​

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。京都は天皇や貴族の所在する宗教都市でもあり、穢れを嫌う傾向が特に強かったと考えられます。そのため、死者の埋葬や死牛馬の処理、刑場での処刑執行など「穢れ」に関わる職能を担う人々が必要とされましたが、彼らは「清目(きよめ)」「河原者」**と呼ばれ、社会の中で特殊な位置に置かれました​

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。京都でも中世には、寺社に仕え葬送や刑場の役目を担う者たち(清目・河原者)が存在し、そのコミュニティが被差別民の祖形となりました。


実際、京都市南部の久世地区(現・南区)には、応永3年(1396年)の記録にまで遡る被差別民の集落が確認されています​

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。この記録には、中世当時その集団が「清目」と呼ばれ、田畑や家屋敷地を所有していたことが明記されています​

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。さらに当該集落には1396年時点ですでに寺院も存在しており、この集落の形成は14世紀初頭(1300年頃)にまで遡る可能性があります​

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。このように、京都では江戸時代より前の中世からすでに被差別民の集団(のちの被差別部落に連なるもの)が成立していたことがわかります。


江戸時代における差別の制度化

近世(江戸時代)になると、封建体制のもとで身分秩序が明確化され、士農工商の枠組みからさらに外れた**「穢多(えた)」「非人」身分が制度的に固定されました。江戸幕府および各藩は、支配の安定のため農民や町人以外に最下層の身分を設け、厳しい差別待遇を課しました​

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。たとえば、穢多身分の人々には引き続き「ケガレ」に関わる職務**(死牛馬の処理、皮革加工、行刑役など)が強制され、彼らは社会の中で蔑視される存在と位置付けられました​

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。江戸時代中期以降になると幕府はさらに差別を徹底し、被差別部落の人々への差別を義務化する法令を出すなど、差別を制度的に強めています​

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京都においても、江戸時代には被差別部落の人々は城下町や村落共同体の周辺部に隔離されて暮らしました。京都・大坂・江戸のような都市では、中心部にあった被差別部落がしばしば堀や垣によって市街地から隔てられており、京都の場合も例外ではありません​

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。豊臣秀吉が京都に築いた御土居の外側や鴨川の河原など、人里離れた土地や都市の縁辺部に彼らの集落が置かれました​

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。実際、六条河原(現在の下京区・七条付近)は16世紀前半から処刑場となり、数百~千人規模の河原者たちが刑の執行に従事していました​

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。のちに六条河原の集落は近隣に移転し、江戸時代には六条村(現在の崇仁地区周辺)として定着します​

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。六条村は周囲を竹垣で囲まれたとも伝わり​

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、一般の村や町との明確な境界が設けられていました。このように、江戸時代の京都では被差別部落の人々は都市や村の中で隔離され、差別が公然と制度化・固定化されていたのです。


明治維新後の変化(解放令とその影響、逆差別論の問題)

明治維新により江戸時代の身分制度は法的には解体されていきました。明治4年(1871年)に明治政府は**「解放令」(賤民身分解放令)を発布し、「穢多・非人」などの呼称と身分を廃止して法律上は平民と同等としました​

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。これにより、被差別民の人々は婚姻・職業選択・居住移転などの自由を形式上獲得し、彼らの居住地は「新平民」**と称されて一般の町村に編入されることになります​

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。天皇を頂点とする近代国家のもと、封建的身分制度は撤廃され、法の下の平等が謳われたのです。


しかし、解放令の布告は社会に根強い差別意識を直ちに解消するものではありませんでした。法令によって制度的差別は廃止されても、差別は非制度的・慣習的な形で残存しました​

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。むしろ、一部では「穢多が平民になった」との風評に対し旧来の百姓・町人が反発し、各地で暴動や嫌がらせ事件が発生したとの記録もあります(解放令反対一揆など)​

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。京都においても、解放令後に被差別部落の人々は戸籍上「新平民」とされ周囲に同化されましたが、実際には地域社会から排除され続け、経済的にも困窮しました​

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。たとえば、従来彼らの生業だった皮革産業は明治以降の産業構造の変化(肉食奨励や機械制工業の発展、外国製品流入など)で大きな打撃を受け、生活基盤が揺らぎました​

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。政府は差別解消の積極策を講じなかったため、元被差別民の多くは依然として貧困に苦しめられます​

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このような状況下、明治期以降も婚姻や就職の場面で露骨な差別は続きました。差別する側の中には、部落出身者に対する救済措置や優遇策が将来的に導入されると、それを「逆差別」であると主張する者も現れました。**「逆差別」**とは、被差別者への配慮や救済策がかえって他の人々への不公平であるという批判的な言説です。しかし歴史的に見れば、被差別部落の人々は法の下に平等とされた後も長年にわたり教育・就職・結婚などあらゆる面で不利益を被ってきたのであり、そうした救済策は差別の解消と機会均等を図るための是正措置でした。にもかかわらず、一部では戦後の同和対策事業などに対し「特権だ」「優遇されすぎだ」といった誤解が広まり、逆差別論が問題視されるようになりました。この逆差別論は、差別の構造的な背景を無視し問題の本質を歪めるものであると指摘されています。

昭和期~戦後の社会変革と部落解放運動の胎動

大正末から昭和にかけて、被差別部落の人々自身による人権獲得運動が台頭しました。1922年(大正11年)には京都市岡崎公会堂にて全国水平社の創立大会が開催され、全国の被差別部落から約1,000人が結集しました​

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。この大会では有名な「水平社宣言」が採択され、被差別民自身が団結して差別に抗し解放を勝ち取ることを誓いました​

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。全国水平社は「人の世に熱あれ、人間に光あれ」というスローガンのもと、部落差別撤廃を掲げた最初の全国的な運動でした。京都もその発祥の地の一つとして重要な役割を果たし、京都府内の柳原(やなぎはら)地区(崇仁地区)は水平社運動の拠点の一つとなりました​

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。もっとも、昭和初期(1930年代)に入ると、治安維持法などにより水平社運動は次第に弾圧・沈静化し、第二次世界大戦中は公然たる解放運動は下火になります。


戦後、民主化とともに部落解放運動は新たな局面を迎えました。1946年には水平社の流れを汲む全国委員会が結成され、1955年には部落解放同盟が結成されます。京都でも戦後いち早く同和行政や教育が模索され、部落差別をなくす取り組みが始まりました。特に1950年代には、京都市の被差別部落で起きた差別事件(後述)を契機に自治体が同和対策に乗り出すなど、戦後の社会変革の中で部落解放運動が本格化していきました。この戦後の動きについては、次章で詳述します。

京都の歴史的な社会制度と差別の関係

幕府・公家社会における被差別民の扱い

京都は天皇(朝廷)と将軍(幕府)の両権威が存在した特別な都市であり、被差別民の扱いにもその二重権力構造が影を落としていました。天皇や公家社会では、古来より穢れを避ける宗教的観念が強く、死や血に関わる人々を遠ざけつつも、その者たちに対して一定の役割を与えるという対応が取られました。例えば中世京都では、祇園祭などの伝統行事で疫病退散の祈祷が行われましたが、その背後で刑場の掃除や死体の片付けといった「裏方」の役割を被差別民が担っていました。六条河原の刑場では戦国期から安土桃山期にかけて、多数の河原者(被差別民)が処刑執行人として動員されており​

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、これは室町幕府や織豊政権が彼らを統制下に置きつつ利用していた例といえます。


江戸時代、京都には幕府の直轄機関として京都所司代京都町奉行が置かれ、治安維持や市中取締りが行われました。町奉行の管轄下で、京都の被差別民(穢多・非人身分)も一定の支配秩序に組み込まれていました。たとえば東日本では幕府公認の穢多頭・弾左衛門が有名ですが、京都を含む西日本では各藩や町奉行がそれぞれ管轄する形で、穢多・非人頭が任命され統制されていました。公家社会(朝廷)においても、御所の周辺で死穢を扱う者(例:死牛馬の回収人など)は、陰ながら必要とされつつ公式行事には関与させないという扱いでした。つまり、幕府と公家という二重の支配層はいずれも**「必要だけれど、触れてはならぬ存在」**として被差別民を位置付けていたといえます​

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。このような権力側の姿勢が、京都における差別の固定化に拍車をかけました。


京都特有の商業文化・宗教的背景と差別の関係

京都は商工業者や職人が多く暮らす都市であり、伝統工芸や商業活動が盛んな土地柄です。その中で、皮革加工や金属鋳造など一部の職種は被差別民の手によって担われてきた歴史があります。例えば江戸時代、京都の七条河原町付近では銭貨の鋳造所が設けられましたが、その跡地には皮革のなめし場が置かれ、そこで従事する人々の集落(柳原地区)が形成されました​

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。皮革加工業は動物の死体を扱うため穢れ視されましたが、同時に武具や履物、生産用具に不可欠な製品を供給する重要な産業でもありました。京都の商業経済を支えた影の立役者として、被差別部落の職人たちが存在していたのです。


また、京都には神社仏閣が密集し宗教的伝統が色濃い土地柄であることも差別に影響を与えました。神道では穢れを嫌うため、神社の祭礼や儀式の場から被差別民は排除される傾向がありました。一方、浄土真宗など仏教の中には身分に関係なく人々を救済する教えもあり、実際に明治以降、真宗大谷派(東本願寺)などは部落解放運動を支援しています。しかし江戸時代までは多くの寺社で、例えば門前町から被差別民が締め出されたり、参詣を禁じられるなどの差別慣行がありました。京都の伝統文化の華やかさの陰で、宗教的清浄観念が差別意識を強化していた面は否めません​

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。他方、京都の被差別民の中には寺社に奉仕する者もおり、彼らは「御役目」として清掃や雑役を担う代わりに僅かな給付を受けるなど、宗教との特殊な共生関係も見られました。このように京都の商業・宗教文化は、被差別民に特定の職業を担わせつつ差別的に遇するという二重構造を生み出していました。


村落社会と差別の固定化(京都における村と部落)

京都府下の農村部でも、被差別部落は村落社会の中で特殊な位置づけをされてきました。江戸時代、村の共同体の外縁部に**「穢多村」「長吏集落」**などと呼ばれる被差別民の集落が付設されている例が多くみられます。これらの集落は行政上は村の一部とみなされながらも、生活や祭祀の面では隔離されていました。典型的には、被差別部落の周囲に竹垣や土塁が巡らされ、物理的にも他の村民と区切られていたと伝えられます​

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。また、村の鎮守の祭礼では、被差別部落の人々は参加を拒まれるか、あるいは特定の役割(例えば神輿を担がない裏方のみ等)に限定されることもありました​

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京都周辺でも、現在の京都市域に編入される前の郊外や地方に、多数の被差別部落が点在していました。明治期の調査では、京都府内には149か所もの同和地区(被差別部落)が存在したことが報告されています​

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。これらは江戸期以前からの歴史をもつ集落で、農村における身分制が近代まで色濃く残存したことを物語ります。村落社会では、被差別部落の人々は地主や庄屋から賃働きや用心棒的な仕事を与えられる一方で、結婚や交際は厳しく忌避されるなどの差別慣習が続きました。特に農閑期には被差別部落の人々が村の土木作業や力仕事に従事するケースも多く、村社会にとって不可欠な存在でありながら常に最下位に置かれるという構図が固定化していたのです。このような村落における差別の構造は、京都に限らず日本各地で見られましたが、京都でも近代まで根強く残りました。


歴史的な差別の実態と具体的な事例

京都における被差別部落の具体的な場所と形成事例

京都市内には歴史的に著名な被差別部落がいくつか存在します。その代表が、京都駅東側一帯に位置する崇仁(すうじん)地区です。崇仁地区(かつての東七条・柳原地区)は、江戸時代に「六条村」として成立した京都最大級の被差別部落でした​

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。前述したように、この集落は安土桃山期の六条河原刑場に起源をもち、江戸中期には貨幣鋳造所跡地なども取り込んで拡大しました​

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。18世紀初頭には「柳原庄」の一角に皮革のなめし場が置かれ、周辺に**「非人」と呼ばれた人々が移住してきたことが記録されています​

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。これが現在の崇仁地区の基盤となり、明治維新後には柳原町と改称されました​

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。柳原町の住民は周囲の銀行から融資や預金を拒まれるなど経済差別にも直面したため、自ら柳原銀行(1899年設立)**を興して金融ニーズに応えたというエピソードも残っています​

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。柳原銀行の建物は現存し、記念資料館として地域の歴史を伝えています​

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京都市南区の久世地区も具体的事例の一つです。久世大薮町・久世大築町などからなるこの地域は、前述の通り中世からの被差別民集落の伝統を引き継ぐ土地です。久世地区の歴史は古く、1396年の史料に清目(被差別民)として登場し、江戸時代には穢多身分に組み込まれました​

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。明治期以降も周辺から孤立した農村部落として残り、戦後になって京都市に編入されています。久世地区は1970年代に起きた結婚差別事件(後述)の舞台にもなりましたが、これはこの地域が近代まで「見えない形で」差別を受け続けてきたことを示唆しています。


この他にも、京都府内には例えば丹波地方山城地方の農村部に多くの被差別部落が点在しました。明治以降の行政区画において「部落」の名称は表面上消えましたが、同和対策事業の対象地区として把握された数は前述の通り149地区に上ります​

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。これは、大阪や奈良などに次いで全国的にも多い数字であり、京都が被差別部落の歴史と深く関わってきたことを物語ります。各地域の形成事情は様々ですが、いずれも中世~近世にかけて何らかの理由(特殊な職能や社会的役割)で周囲から隔離された人々が定住し、明治期以降も地理的・社会的に孤立させられてきた点で共通しています。


歴史的な差別事件(江戸・明治・戦前・戦後)

京都における差別の実態を示す具体的事件・エピソードを、時代ごとにいくつか挙げます。

  • 江戸時代: 京都では日常的に被差別民への蔑視・差別行為が行われていました。例えば、被差別部落の住民は町中を通行する際には定められた木札を携行し、一定の服装しか許されず、城下の門限後の外出も禁じられるなどの取り決めがあったとされています。公的な記録に残る大事件こそ少ないものの、差別は制度として組み込まれていたため、被差別民への暴行や嫌がらせは「事件」として扱われないまま黙殺されることが多くありました。また、一般の町人百姓が誤って穢多身分者と婚姻関係を持とうとした場合、双方が厳罰に処されるといった例も各地で見られました(京都でも類似の掟があったと考えられます)。江戸後期になると他地域では穢多身分者による一揆(庄内騒動など)も発生しましたが、京都では幕末期までそうした抵抗運動は記録に残っていません。

  • 明治時代: 解放令発布直後、全国的に旧身分の「平民化」に伴う混乱がありました。京都でも明治初期には、元穢多身分の人々に対し陰で「新平民」と呼んで差別する事例や、村の寄合から排斥するといった動きが散発しています。直接的な暴動事件として京都で知られるものは少ないものの、経済的差別が深刻でした。前述した柳原地区で住民が自前の銀行(柳原銀行)を設立せざるを得なかったのは、既存金融機関から取引を拒否されていたためです​

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  • 大正・昭和戦前期: 差別に対する具体的な抵抗として重要なのが水平社運動です。京都では1922年の全国水平社創立大会(前述)以降、部落差別に抗議する直接行動が生まれました。その一例が、1922年(大正11年)に奈良県の青年たちが起こした「糾弾闘争」で、京都からも支援者が駆け付けています。また第一次世界大戦後の社会不安から1918年に全国で起きた米騒動では、京都の柳原町でも騒擾事件が発生し、官憲はこの地域を重点的に取り締まり、50人以上の被差別部落住民が逮捕されました​

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  • 昭和後期・戦後: 戦後、差別撤廃に向けた動きが活発化すると同時に、差別事件も表面化しました。京都で戦後最も知られるのは**「オールロマンス事件」**(1951年)です​

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京都では他にも戦後、一人ひとりの人生に関わる差別事件が発生しています。結婚差別がその典型です。1974年(昭和49年)には、京都市南区の久世大筆町に住む被差別部落出身の女性が、長年交際して婚約目前であった同僚男性から身分を理由に結婚を拒絶される事件が起きました​

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。男性は彼女に対し差別的な暴言を浴びせ、女性は失意のあまり彼の目の前で自殺を図ろうとしました​

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。幸い未遂に終わりましたが、この**「久世結婚差別事件」**は裁判にも発展し、当時大きく報道されました。法廷では部落問題の専門家が証言に立ち、歴史的経緯を踏まえて差別の不当性が述べられています​

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。この事件は、高度経済成長期を経てもなお結婚差別が露骨に行われていた現実を世に知らしめ、結婚差別禁止の世論喚起につながりました。


さらに現代に近づいても差別の残滓は見られます。2000年代初頭、京都府知事選挙に絡み、特定候補を中傷するために部落差別的な落書きが連続して見つかる事件が発生しました​

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。匿名の落書きという卑劣な手段で、未だに差別意識を利用しようとする者がいることが浮き彫りになっています​

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。このように、京都における差別事件は時代とともに形を変えつつも後を絶たず、そのたびに被差別部落の人々は苦しめられてきました。しかし同時に、そうした事件に対しては関係者や支援者が声を上げ、社会に訴えかけることで、少しずつ差別撤廃への歩みを進めてきた歴史でもあります。


口承伝承や地元の歴史記録にみるエピソード

差別の歴史は、公的記録だけでなく口承や地域の記憶にも刻まれています。京都の被差別部落には、長年語り継がれてきた伝説や逸話が存在します。例えば、崇仁地区では「首切り又六(またろく)」という処刑人の伝説が伝えられてきました。六条河原で処刑役を務めたとも言われる又六は、代々その職責を負った家系の象徴的人物であり、地域の誇りと悲しみを体現する存在として語られます​

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。また別の地域では、江戸時代に大飢饉が起きた際、被差別部落の人々だけが村民から食糧援助を断られ、餓死者を出したという悲話が残っています。こうした口承は、公の史料には現れにくい差別の実相を物語るものであり、部落の人々が直面した現実を知る手掛かりとなります。


地元の歴史記録としては、京都市や京都府が編纂した同和関係の資料集に、明治以降の差別事例や行政対応が克明に残されています。例えば、明治期の京都府布達には「穢多」「非人」という言葉を使用しないよう命じた通達や、水平社運動への警戒を示す文書が見られます。昭和期の京都市会議事録には、同和対策費計上に関する討議や、差別事件に対する市長答弁などが記録されています。中には、市議自身が差別発言を行い問題となった事例もあり(1960年代の京都市会での失言事件など)、議事録として残ることで後に検証可能となっています。これら公的記録と口承伝承の双方が、京都における差別の歴史像を立体的に浮かび上がらせています。

戦後の変化と部落解放運動の展開

1960年代以降の部落解放運動と京都の役割

戦後、日本国憲法のもとで基本的人権尊重が謳われましたが、被差別部落の置かれた状況は依然厳しく、差別は日常に残存していました。こうした中、1960年代に入ると部落解放運動は再び勢いを増します。全国水平社の流れを汲む部落解放同盟は、各地で差別事象に対する糾弾闘争や行政交渉を展開しました。京都府連もその先鋒に立ち、先述のオールロマンス事件(1951年)で成果を上げた経験を踏まえ、教育現場や企業における差別事案にも積極的に取り組みました。また、京都は部落問題研究の学術的拠点としても重要で、1960年代には京都部落問題研究所が設立されて歴史・実態の調査研究を進めました​

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。京都大学や京都産業大学の研究者も解放運動に知的側面から協力し、灘本昌久氏のように京都部落史の調査に尽力する人材も輩出されています​

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。京都の部落解放運動は、都市部の大規模地区と農村部の小規模地区の双方を抱えるという特徴もあり、都市と農村の差別構造の違いに対応した運動戦略が取られました。例えば、都市部では同和住宅の建設要求や就職差別撤廃運動が中心となり、農村部では生活インフラ整備や結婚差別是正に力が注がれました。京都発の運動事例・ノウハウは全国の解放運動にも影響を与え、1960年代後半以降の部落解放同盟の闘争方針に反映されています。


政府・自治体の対策(同和対策事業など)

差別の解消と部落の生活向上を図るため、国と地方公共団体も徐々に本格的な対策を講じるようになりました。大きな転機は1965年、政府の同和対策審議会が「同和対策に関する答申」を出し、部落差別が依然深刻であることを公式に認めて抜本的な改善策を提言したことです。この答申を受け、国会は**1969年(昭和44年)に「同和対策事業特別措置法」**を制定しました​

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。これは国と自治体の責務を定め、被差別部落の生活環境改善等に関する事業を集中的に行うための時限立法です​

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。当初10年間の期限で始まったこの法律は、その後幾度か延長され、最終的に2002年(平成14年)まで約33年間にわたり存続しました​

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。この間、全国で約15兆円もの公的資金が同和対策事業に投入され、住宅の改良(改良住宅の建設)、上下水道や道路の整備、学校教育の充実、就労支援などが行われました​

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。京都府・京都市も積極的にこの事業を推進し、京都市内の同和地区では老朽家屋の建て替えや公営住宅の建設、部落解放会館の設置などが進められました。


京都市崇仁地区の例では、1950年代後半から市営の改良住宅が建てられ、長屋やバラックに住んでいた多くの住民が移り住みました​

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。これはオールロマンス事件後の同和予算拡充の成果の一つでした。その後も1970年代・80年代を通じて、崇仁地区では大規模な生活環境改善事業が行われ、地区内の道路拡張や上下水道完備、公園整備などインフラが飛躍的に向上しました。同時に、京都市は同和教育にも力を入れ、市内の学校で部落問題学習を実施し偏見解消に努めました。京都府は府内の農村部落にも補助金を出して簡易水道の設置や集会所建設を支援し、地域間格差の是正を図っています。


1990年代以降、同和対策事業は「地域改善対策事業」へと名称を変え(1987年の地域改善対策特別措置法)つつ継続し、2002年に特別措置法が失効した後は一般施策に移行されました​

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。京都市・府では特法失効後も自主的に人権施策推進を掲げ、住宅・教育ローンの低利融資や奨学金制度、人権啓発活動などを継続しています。一方で、同和対策事業の長期化に伴い不正や弊害も指摘されました。全国的には低利融資の未返済問題や事業利権をめぐる不祥事が発生し、京都でも1990年代に公共工事の入札談合疑惑が報じられたことがあります。これらを契機に、行政の透明性確保と「逆差別」批判への対応が課題となりました。京都府・市は2000年代に入り、人権施策の普遍化(特定の地区に限らず全体の貧困対策へシフト)を進めつつ、差別そのものの解消に重点を置くよう方針転換しています。


現在までの影響と社会への残存課題

長年の同和対策事業と啓発活動の結果、京都の被差別部落の生活環境は飛躍的に改善し、若い世代の教育水準も向上しました。表面的には、かつてのような露骨な隔離集落や貧民街は姿を消し、京都市内の同和地区の多くは再開発によって近代的な街並みに変わっています。例えば崇仁地区では、近年京都市立芸術大学のキャンパス移転計画が進み、地域の再生と活性化が図られています​

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。住民と学生・行政が協働して地区の歴史を継承しつつ新しい街づくりを進める試みも始まっています​

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しかし、歴史的な差別の背景は今なお社会に影を落としています。インフラが整い生活水準が向上しても、結婚差別や就職差別が完全になくなったわけではありません。現在でも部落出身者であることを理由に縁談を破棄されたり、不採用にされたりするケースが報告されています。またインターネット上では、部落問題に関するデマや中傷が書き込まれることがあり、新たな差別の火種となっています​

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。京都でも先述のように2000年代に差別落書き事件が続発しましたが、その背景には「もう差別は解消したのだから同和ばかり優遇するな」といった逆差別論的な誤解が存在するとも指摘されます​

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。実際には、差別が完全になくなっていないからこそ啓発や支援が続けられているのであり、この点の社会的理解が不足しているという課題があります。


現在、京都府・市では**部落差別解消推進法(2016年制定)の理念に基づき、相談窓口の設置や啓発プログラムの実施などに取り組んでいます。地元の部落解放同盟や人権団体も、差別事象の監視や若い世代への歴史教育に力を入れています。例えば京都市では、地域の小中学校で崇仁地区の歴史を学ぶフィールドワークを行ったり、柳原銀行資料館で一般市民向けの展示説明会を開催したりしています。また、被差別部落の出身者と在日コリアン住民が多く暮らす東九条地区では、1993年から「東九条マダン」**という交流イベントが開かれ、部落と在日の垣根を超えた地域融和の努力も続けられています​

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。こうした草の根の活動は、歴史的な対立や偏見を乗り越え、多文化・多様性を尊重する社会づくりに寄与しています。


総じて、京都における差別の歴史的背景は非常に根深く、時代の変化に応じて形を変えながら持続してきました。しかし同時に、それを克服するための努力もまた連綿と積み重ねられています。中世から近世に形成された被差別部落は、近代以降も社会の底辺に置かれ差別を受けましたが、現代に至る解放運動と施策の展開によって、少しずつではあるものの変革を遂げつつあります。その歴史を客観的に振り返ることは、未だ残る偏見を無くし真の人権平等な社会を実現するうえで不可欠であると言えるでしょう。​

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参考文献・出典(京都の差別の歴史に関する主な研究・資料):京都部落史研究所編『京都の部落史』、灘本昌久「新しい部落史とこれからの同和問題」​

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、京都市公式サイト人権啓発ページ、部落解放・人権研究所「部落の歴史」解説​

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など。各所に引用した通り、史料や研究によって京都の差別の歴史的実態が明らかにされています。


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