【映画評】『ヴァラエティ』(1983) 暴くものなど何もない社会で、なおも何かを暴こうとすること

『ヴァラエティ』(ベット・ゴードン、1983)

評価:☆☆★★★

 1978年にブライアン・イーノがプロデュースしたコンピレーション・アルバム『ノー・ニューヨーク』に代表される、ニューヨークのアンダーグラウンドな芸術運動ノー・ウェイヴの近辺にいた女性監督、ベット・ゴードンによる1983年公開の長編第1作。
 2024年、2Kリマスター版で本邦初公開。マイナーな監督のマイナーな代表作だが、スタッフは豪華――というか、「いかにも」な面子というべきだろうか。
 脚本は、「女版ウィリアム・バロウズ」とも称される作家キャシー・アッカー。
 音楽は、ノー・ウェイヴ/アヴァンギャルド・ジャズ・バンド、ラウンジ・リザーズのジョン・ルーリー。
 撮影は、ジム・ジャームッシュ作品にも携わるトム・ディチロ。
 当時のアート・シーンの人脈を窺わせる。
 ポルノ映画館で働く女性を主人公に据えた、荒涼とした物語映画である。

 主人公は、ポルノ映画館「ヴァラエティ」のチケット売り場で働く女性クリスティン。映画から流れてくる女の喘ぎ声を毎日頭から浴びせかけられ、客からは「セクハラ」めいたこともされ、プライヴェートでは彼氏のマークにもあまり相手にされず、クリスティンは鬱屈を募らせる――当然、主に性的に、だ。
 ある日、映画館を訪れた裕福そうな中年男ルイに誘われ、クリスティンはなんとなく野球観戦デートに応じる。なんだか良い雰囲気になってきた――と思いきや、ルイは急用で呼び出され、クリスティンを球場に残して去ってしまう。なんだよ、置いてきぼりかよ!とがっかりしないこともなく、クリスティン、素性の分からないこのルイという男に興味を持ち、自分も球場を出てルイの尾行を開始する。するとルイは、なんと、人目につかない怪しい場所に行き、怪しい男と、怪しい取引めいたことをやり出した! なんて怪しいんだろう……この男、もしや裏社会の人間なの!?
 妄想モードに突入したクリスティンは、その日以来、ルイのストーキングを開始。それと並行して、クリスティンにつれない態度を取る恋人マークも、どうやら労働組合とマフィアの関係を調査しているらしく、その話をクリスティンに聞かせたりする。クリスティンはピンときた。それ、絶対ルイに関係あるよ!
 ルイを追って「覗き部屋」に足を踏み入れたり、ルイの部屋に侵入して鞄からポルノ雑誌だけを盗んだり――つまり、一人の男をストーキングしながら、クリスティンは、ポルノ的イメージの氾濫するニューヨークをさまよい歩く。性的イメージの氾濫と、それらのイメージへと結実することのない性的欲望の浮遊。ポルノ・コンテンツを執拗にスクリーンに映し出すことでゴードンが描きたかったことは明白だ。
 性的イメージを異化し、イメージと、それが掻き立てるはずの性的欲望とを切り離す、という手法は、直接的には、ゴードンが影響を受けたというヌーヴェルヴァーグや「構造映画」の延長上にあるのかもしれないが、その淵源の一つとして、1950年代の芸術運動レトリスムにおける「ディスクレパン映画」を挙げることもできるだろう。映像とナレーションを切り離し、映画をその構成要素へと解体し、「映画を観る」という体験そのものを異化するディスクレパン映画の方向性は、レトリスムから分裂・発展したシチュアシオニスト・インターナショナルへも受け継がれることとなる。ノー・ウェイヴの周辺にいたアーティストたちにとって、シチュアシオニストの映画作家ギー・ドゥボールの思想が基礎的な教養のようなものだったことは間違いないだろう。やはりドゥボールから多大な影響を受けたフランスの思想家ジャン・ボードリヤールは、「ポルノの氾濫する社会では、『欲望をそそる秘められたセックス』という幻想はすでに失われている」(要約)と1996年に喝破するが、ゴードンがボードリヤールを知っていた可能性も高い。
 「隠される」ことで欲望を掻き立てるはずの性的なタブーなどどこにも存在しない、という事実そのものを隠蔽するかのように性的イメージが氾濫する世界で、クリスティンは、なおも、欲望に突き動かされるかのように男をストーキングし、隠された「何か」を知ろうとする。これはまるで、陰謀などどこにもないという真実を隠蔽するためにこそ陰謀論が氾濫する社会で、なおも、「何か」を暴こうとする陰謀論者のような行動だ。作中に登場する恋人マークの、組合とマフィアの関係を暴こうとする、狂気すら思わせる情熱は、そのようなものと見ることもできるだろう。セックスを介して直接つながることのない恋人たちは、隠された「何か」を知ろうとする交換可能な欲望のあり方を通じて、間接的なつながりを得るかのようである。いわば、クリスティンとマークは、ともに、すでにどこにもない「故郷」を取り戻そうとしながら都市を浮遊する「故郷喪失者」だ。
 「故郷」を取り戻そうとする故郷喪失者のパラノイアックな行動様式は、クリスティンのようによく知らない他人を無意味にストーキングする犯罪として発現することもあれば、「陰謀」を暴こうとする探偵のような行動としても、あるいは別の形の暴力や犯罪としても、あるいは社会変革のための政治的行動としても、発現することのあるものである。個人の犯罪であれ、陰謀論者の滑稽な探偵ごっこであれ、無意味な政治テロであれ、ある意味、革命によって社会を根底から変えうるものだったはずの「暴力」の頽落形態ということもできるだろう。社会を変えるために「何か」を行ったところで絶対に社会は変わらない、と分かってしまった社会の中で、なおも、暴力は、もしかすると社会を変えることができるかもしれない「何か」として、「故郷喪失者」を不断に惹きつける。暴力的な犯罪は、それがどれほど愚劣で悪質で無意味なものだったとしても、社会変革への夢をわずかばかりでも宿しているものだ。無論、その「夢」が犯罪者の意識に単純に還元し得ないものだったとしても、である。
 そして、そのような暴力は、ここまでの議論に即せば、「暴く力」と読み替えることもできるわけである。ネット社会において、「真実」を暴こうとする陰謀論や、あるいは嫌がらせのような個人情報暴露が、驚くほど「過激」かつシニカルな暴力へと直結するのはおなじみの光景だが、こうした暴力もまた、失われた革命的暴力の代用品として不断に求められるコンテンツ、ということになるだろう。そして、集団的な暴力として顕在化しない個人的な犯罪のレヴェルでは、「暴く力」は、他人へのストーキングとして発現することがある。情報を収集し、まだ知られていなかった「真実」を知ろうとするストーキング行為は、「犯罪捜査」によく似た犯罪だ。
 『ヴァラエティ』は、一応、そのような「暴く力」を描いた映画である、と言うことができるだろう。この"Variety"という題名をVerity(真実)と読み替えれば、示唆的とも言える。「故郷喪失者」は、常に、ヴァラエティに富んだコンテンツの中から、その一つをVerityの代わりに掴み取るものだからだ。

 ここまで見てきたように、『ヴァラエティ』は読み解きづらい映画というわけではないのだが――残念なことに、「良い映画」というわけでもない。
 物語映画として見れば、脚本の粗さは覆うべくもない。クリスティンがルイを追って遊園地に入ったり、モーテルに入ったり、と行動をエスカレートさせる過程はそれなりにスリリングで、それなりに面白くもあるのだが、いよいよ物語が盛り上がってきた、と思わせるところで、毎回、イメージ映像のごときクリスティンの心象風景やら、ポエトリーリーディングのごときポルノ小説の朗読やらが挟まれ、物語としての緩急を損ねているのである。
 そして、映画のラストでは、絶対にやってはいけないことをやっている。気づかれることなくストーキングを行ってきたクリスティンが意を決して、ルイに電話をかけ、「私はこれまであなたを尾行してきた」と告白し、実際に会う約束を取り付け、さあ、物語が動き出した、クライマックスだ――と観客誰もが思うであろうタイミングで……なんと、映画は終わってしまうのだ!
 尻切れトンボにも程がある。映画館の客席から転げ落ちるかと思った!
 まあ、このような作劇を行ったゴードンやアッカーの意図も理解できないわけではない。男性向けの性的コンテンツに囲まれながら、自分自身の性的欲望を満たすことができないクリスティンの「女性ならでは」の内面をトレースするかのように、物語は決して直線的に心地よく進展することはないし、ドラマティックなラストシーンという「オーガズム」に達することもない。物語を受動的に、つまりポルノ的に鑑賞する観客のあり方を、ゴードンは、クリスティンというキャラクターの抑圧された「女性性」に準拠することで、批判してみせようとしたのだろう。いわば、『ヴァラエティ』は、物語映画によって物語映画を批判する映画であり、スペクタクルによって「反スペクタクル」を実現しようとするわけだ。
 ここで、芸術表現における反スペクタクル、ということについて、少し詳しく見てみよう。
 メディアの発達によってあらゆる個人間の関係が「イメージ」を媒介としたものへと変質した大量消費社会を、ギー・ドゥボールが「スペクタクルの社会」と呼んだのは周知の通り。ドゥボールらシチュアシオニストは1968年パリ5月革命に積極的にコミットするものの、革命は敗北し、この時期以後、暴力的蜂起による革命のリアリティは西側社会から徐々に消失していく。スペクタクルへの反抗が、それ自体で一つのスペクタクル商品と化さざるを得ないこと――例えば、資本主義を批判するためにスキャンダラスなパフォーマンスを行ったところで、メディアに面白おかしく紹介されることで商品価値を得てしまい、商品の消費そのものを批判する契機を失ってしまうこと――は、資本主義社会を批判しようとする芸術家が絶対に逃れることのできないジレンマだ。
 レトリスムにおいて、「ディスクレパン映画」のような手法は、独特の歴史観に基づき、歴史の「切り彫り」段階(=解体期)を極限まで推し進めることを目論むものだった。シチュアシオニストにとって、「芸術」は、スペクタクル社会の総体的な破壊によって解体されるべきものだった。これらの運動は、単なる消費財としての「芸術」表現を拒絶し、「芸術」的手法に歴史性を持たせようとするものだったと言える。こうした運動の手法を、歴史性、あるいは革命への志向から切り離し、単なる「表現技法」として反復することは、さしづめ、暴力革命のリアリティが失われた社会で、その代替として発現する、無意味な暴力犯罪のような「芸術」活動だ。シニシズムの蔓延する社会において、芸術家も犯罪者も、「意義ある表現」を喪失する点で同類というわけだ。
 無論、彼/彼女らの主観では、それらは本当に意義ある表現のつもりなのかもしれないし、実際、それらが本当に意義あるもののように見えることだって多々あるだろう。「社会にインパクトを与える芸術」や「社会を震撼させる犯罪(あるいはテロ)」といったものは、社会を変えうる現象であるかのような外見によって、不断に、芸術家や犯罪者や「観客」を惹きつけるフィクションだ。
 そして、いうなれば、「女性ならではの視点」なるものもまた、そのような、「発揮されることで社会を良い方向に変えるかもしれない」と人々に思わせる1つのフィクションに他ならない。「女性」を、少数民族、黒人、ゲイ、障害者などに置き換えてもよい。「1968年」に革命的蜂起を担うことができなかった西側の白人男性(マジョリティ)に代わり、次なる革命をもしかしたら担うことができるかもしれない主体として、あらゆる領域で浮上したマイノリティの運動が、今日、スペクタクル社会へと取り込まれ、「ポリティカル・コレクトネス」(PC)へと変質して猛威をふるっていることは、誰もが知るところだろう。「マイノリティによる反体制的な変革運動」であるかのような外見のもと、あらゆる領域でコンプライアンスを徹底させ、資本主義体制をどこまでも強固にするPCは、最悪のシニシズムの発現にして、今日、最も成功している「芸術運動」だ。
 「女性ならではの視点で、アヴァンギャルド映画の技法を駆使してポルノ的イメージを異化する映画」は、今日、「性的コンテンツのせいで女性が不快にならないよう、コンプライアンスを徹底しましょう」という結論以外のものを導きようがないだろう。ゴードンやアッカーの主観的意図がどうあれ、だ。

 無論、現代アートとPCをめぐる問題は、『ヴァラエティ』だけにことさら責任を負わせるべきことではない。
 『ヴァラエティ』という映画は、表現そのものは、露骨にPCを推進するものというわけではない。今日、もしもゴードンと同じ方向性で映画を撮れば、より「効率の良い」表現で女性の生きづらさについて啓蒙する、より定型的な作品が仕上がることだろう。現代アートとPCがそもそも論として否定されるべきものだったとしても、PCに構造的に加担するアート作品にだって優劣があることは否定できない事実である。何をどう表現するのが「正解」なのか、まだ完全には分かっていなかった時代に作られた映画ということで、『ヴァラエティ』は、確かに、やりようによってはもう少し面白くなっていたはずの映画とは言える。
 どうすればよかったのか。
 細かく見ればきりがないが、最大の問題はやはり、ラストが描かれなかったこと、これに尽きる。
 結末を描かないことによって、物語の力点は、映画が終わる直前の、ルイに電話をかけるクリスティンの行動に置かれることとなった。荒涼とした日常から一歩抜け出そうとする行動、というわけだ。この行動のせいでクリスティンの身には危険が降りかかるかもしれないが、ともかく、非日常的な「何か」が、一歩踏み出したクリスティンを待っているかもしれない――と、映画は予感させる。閉塞した日常から脱出させてくれるかもしれない「何か」を見失った現代人にとっては、「何か」に向けてともかくも脱出しようとするポーズそのものが、「何か」の代理として機能する――ということになるだろうか。映画は、そのようなポーズへの共感を観客に促そうとする。
 しかし、映画は、「何か」がクリスティンを待っているなどと期待させてはいけなかった。「日常から一歩踏み出したところで、そこには何も待っていない」という冷厳な事実を、ありのままに描くべきだった。
 「何か」がそこにあり、「何か」へと脱出することは可能だとすること――それはすなわち、日常生活を引き裂く暴力を肯定するということだが、ここで肯定される暴力とは、要するに、社会を変革しうると人々に信じさせることでむしろ資本主義体制を強固にする、暴力の頽落形態のことに他ならないだろう。
 そのような暴力が、現実的にはPCであったり「アート」であったりすることは、ここまで論じてきたとおりである。PCや「アート」とこの映画とを完全に切り離すことが不可能だとしても、物語において、僅かな亀裂を入れることができたかもしれない局面は、あったのだ。
 あるいは、「狂気」についても同じことが言える。ストーカーとしてエスカレートするクリスティンの行動は、一応、「狂気」を感じさせるものということになるが、この映画は、そのような「狂気」への共感を観客に促すべきではなかった。共感しうるということは、この場合、PCへの取り込みが可能ということに他ならないからである。
 『ヴァラエティ』は、エスカレートするクリスティンの行動を、どこまでも突き放して描くべきだっただろう。共感不能な、つまり既成秩序と和解不能な「狂気」を抱えた都市生活者が、「何か」を掴み取ろうとした挙句、日常の只中へと連れ込まれる――そんな物語であれば、『ヴァラエティ』は、今日においても、資本主義のPC的改良の破綻を垣間見せる映画であり得たかもしれない。――まあ、これは、40年を経た後知恵から『ヴァラエティ』に提案できる「改良」の、ほんの一例だ。
 中途半端なシニシズムは、徹底したシニシズムよりもむしろ害悪である。脱出する先などどこにもない世界で、なおもどこかに脱出しようとするクリスティンは、「脱出」が徹底して不可能だからこそシニカルに肯定されるのでなければ、むしろ、安易にどこかに「脱出」することができてしまうからこそ、全否定されるべきだっただろう。

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