Y.N.
小説など。
映画批評。
このnoteの作者について 詩、小説(シュルレアリスム的ナンセンス文学)、映画評、書評などを執筆。 「芸術至上主義としての反アート」そして「(アウトサイダー・アートならぬ)アウトサイダー政治」を標榜。 かつて、ダダ・シュルレアリスムを批判的に継承する新しい芸術運動の創始を試みるも、当然のごとく賛同者を得られず挫折。 以後、(いろいろな意味で)ドロップアウト。映画を観、読書し、眠り、誰に見せるあてもなく文章を書き綴る日々を送る。 2022年、noteにアカウントを開設
2017年に書いた、特殊なスタイルの短編小説。 「模様」という概念を主人公とした小説(あるいは詩)です。 我ながら、傑作! ただし、私がこれまでに書いた小説の中で、おそらく最も読みづらいであろう作品です。私の作品を初めて読まれる方には、他の短編小説をおすすめします。 他の短編小説: これまでに投稿した小説一覧 以下、本文。 し文字聴く音目、高かるかま、見、みそこらうく星もうら。ケし国死程かがほこどしに、らにせけけら、ら。 角し程聞にかかにらせにけら、しほ
2022年に書いた掌編小説。 蛆虫たちは、皮膚にまとわりつくことで、私の知覚を鈍らせて、まさか自分のいる場所が「王座」だなどと、私が気づかないよう仕向けていたわけである。皮膚のあらゆる場所で粘度のある蛆虫がうごめくのは、さながら舌で舐められるかのようで、そこにいる最中は、とても「王座」らしさなど感じられなかった。しかし考えてもみれば、自分の快さのために、舌で全身を舐めさせるだなんていかにも「王」らしい。 「さて、エレヴェーターに乗りましょう」と蛆虫の一匹が言うと、王座
2020年に書いた掌編小説。 刻まれる時に合わせて歌えよ踊れよ、俺達は皿に盛られている。ごちそうを眺めるときの目つきで、ジロジロ眺められるのが俺達に与えられた仕事なのだと、俺達の骨身に染み付いた考えは、時が刻まれれば刻まれるほど、真実のように思われる機会を増やしていくのである。俺は逃げようと皿の縁へとにじり寄ったことが何度かある。そのたびに、縁へ縁へと動いていても、いつの間にか目の前に、皿の内側に盛られたごちそうが迫ってきていることに気づいて惨めな気分になるのがオチであ
2017年に書いた短編「小説」。 いわゆる普通の意味での「小説」とはスタイルの異なる作品です。 弱くてみじめったらしい存在たちをそばに置いて眠りにつくのは心地の良い体験であるから、私は、気が向いた時にはいつも、こうした体験を楽しむために、存在たちをとっかえひっかえしている。このため私の住む大きい家には、弱くてみじめったらしい存在たちが、あちこちに存在している。 さらわれて私の大きい家に来た存在たちは、おそらく当初は、私の大きい家に来ることを快く思っていなかったはずで
2021年に書いた短編小説。 あらすじ: 車道に飛び出してきた猫を避けようとして、誤って少女を轢き殺してしまった男が、猫の街に招待され、虫でもてなされる。 うんざりするような寝苦しい夜にはいつもそうしているように、俺はその夜も、それまで走ったことのない道を時速42キロで飛ばしていた。 突然、道の右から黒いものが飛び出してきたので、俺は慌ててハンドルを右に切った。猫らしい。都合の悪いことに歩道を10歳位の少女が歩いており、気づいた時にはすでに、歩道に乗り上げた車は
2020年に書いた短編小説。 蓋を閉める時にこぼれ落ちた掃除用の薬品は、地面に叩きつけられるや、くるくる回転しながら、自分がただこぼれ落ちたに過ぎないのだとは夢にも思わず、何かをきれいにする気まんまんで、一歩ずつ前に進みだした。水滴のようにも見えるが粘度は高く、一度絡め取った汚れは自らのうちで溶かすまでけして離そうとしない執念深さを持ち、目に見えない汚れを根こそぎ奪っていく便利な機能を与えられた地面の上の液体は、確かに然るべき場面でそれなりの量を用いれば、役に立つことこ
2022年に書いた掌編小説。 妙な音を発しながら、道に転がる石が、分もわきまえず、俺に睨みをきかせてきた。俺は腹が立った。たかが道端で幼児に蹴られるくらいしか役に立ちそうもない鉱石のかけらごときが、この俺に、チンピラか何かを眺めるような侮蔑的な目つきをぶつけてこようとは……「夢にも思わないこと」は数あれど、こいつは少し度が過ぎている。数ある「夢にも思わないこと」の中で、起こったのがたまたまそうしたことだったことに、何か深い意味があるのではないか、と、不吉な考えが頭をよぎ
『シド・バレット 独りぼっちの狂気』(ロディ・ボグワナ&ストーム・トーガソン、2023)評価:☆☆☆★★ 近況報告―― 最近は、すっかり映画館に行く習慣から遠ざかってしまった。それどころか家から出ることもほとんどせず、「引きこもり」然として隠遁&思索の日々を送っている。 先月(5月)は、2本だけ映画を観に行った。『ボブ・マーリー:ONE LOVE』と『シド・バレット 独りぼっちの狂気』だ。同じ日に、映画館をはしごして2本立て続けに鑑賞した。かたや黒人解放を訴えたラスタ
そもそも民主政が破綻しているからつばさの党の様な人々が出てくるのであって、同党のせいで民主政が破壊されるわけではない(順序が逆)。「選挙演説を聞く権利」などいくら行使しても社会は絶対に変わらない。現状に不満のある層にとっては、演説より「選挙妨害」の方が「リアル」な政治だろう。
「言論の自由は大切だが、つばさの党は悪質だから例外的に逮捕して良い」などという言い訳は通用しない。「あんな奴ら弾圧されて当然」と誰もが思う人々の言論から、真っ先に制限されていく。同党の主張の当否にかかわらず、警察力が言論に介入しやすくなる先例が作られることを許すべきではない。
2023年に書いた詩群。 音楽ジャンルで言えばグラインドコアか? 「入会」 「公園」 「人格排除センター長はずるい」 「足の裏に」 「愛妻家」 「橋が落ちた」 「時計」 「応じても仕方のないピンポン芸を許すのは一心同体」 入会 ハイエナに食わせる虫たちを両手いっぱいかき集めている若い女の腕を洗っているのは 蛇口の横でいつも水筒に口をつけている 囚人かつ夫人である友人 受け答えだけはわずかにはっきりしているので 最初の方だけ聞き漏らしておけばそれで済むと思いこんで
あらゆる非実在犯罪は非実在革命的である。非実在青少年よ、体を鍛えておけ!
菅沼正久[1969]『連続革命と毛沢東思想』三一書房.評価:☆★★★★ いきなり冒頭から、 という文章で始まる、1969年7月15日発行の文化大革命礼賛本である。新左翼系の理論書を取り揃えていた三一新書(三一書房)の一冊だ。 著者の菅沼正久の当時の肩書は、奥付によれば、本州大学助教授、協同組合経営研究所研究員、中国研究所所員。親中派の御用学者によるプロパガンダ本と言ってしまえばそれまでだし、実際、それ以上の広がりがあるような内容の本でもない。「当時の日本で、文化大革命
2024年1月1日、能登半島地震が発生。翌2日以降、私は1ヶ月ほど、むちゃくちゃに引っ掻き回された金沢市の自宅の片付け作業にあたった。 どこにも需要はないと思うが、その間に書いた作業日誌風の手書きメモを起こし、ここに載せる。 地震に関係ない記述も多い。細々した個人的な記述は省略。最低限、文章として「読める」部分だけ残したつもりだ。 なお、これらのメモはいずれも、各日付の翌日に書いたものである。起床し、前日の作業日誌を書くことが、この間の私の日課だった。 1月2日
2022年に書いた詩群。 「子らしき音」 「出発」 「月」 「口裏」 「残響炎」 「田舎」 「時間短縮」 「洞穴」 「人魚」 「俺の分身が隣でむごく殺されるのを見せつけられるだけの人生を面白がって生きているだけの分身であるところの俺の隣でむごく殺されていくのを見せつけてくる分身の退屈そうな人生」 「農舎」 「事故詩」 「恋」 子らしき音 音 子の声を聞きつける どすの効かせ方を聞き分け 音 この声こそ子の声と 聞き分けることが上手な方々の