【漫画】清少納言、慣れない職場での狼狽ぶり ー 平安時代の女房の仕事 ー
大河ドラマ『光る君へ』では、清少納言を演じるファーストサマーウイカさんがイメージにぴったりと話題になってますね。
『枕草子』を読んだことのない方でも、清少納言に対しては「明るく社交的でセンスが良いけど、ちょっと勝気で気が強い人」というイメージを持っているのではないでしょうか。
ところがそんな清少納言も、新人の頃はうまくいかないことだらけだったようで、その様子はまるで別人かと思うほど。
今回はそんな彼女のエピソードを紹介しつつ、平安時代の女房の仕事についてお話したいと思います。
清少納言、初出仕の頃の「涙もこぼれそう」な日々
清少納言は993年、28歳の頃に初めて宮中に女房として出仕しました。出仕先は当時既に中宮となっていた藤原定子のサロン。自分より10歳も年下の主人に仕えることとなったのです。
このときの清少納言は、結婚・出産だけでなく離婚や父の死も経験済み。歌人の娘としての評判をもってのスタートでした。
年齢的にも経験的にも十分大人で賢く教養のある女性。職場でもさぞ…と思いきや、初出仕の頃は「恥ずかしいことは数え切れないほどで涙もこぼれそう」な日々だったのだそうです。
彼女が泣くほど恥ずかしかったこととは何なのでしょう?
それは”顔”を見られることでした。
「それが涙ぐむほどのことなのか」と思うのは現代人の感覚です。
平安時代の貴族の女性は、12〜14歳ほどで成人した後は人前に姿を見せないものでした。いつも御簾の奥で過ごし、男性と話すときは、御簾越しでさらに扇で顔を隠します。屋敷の中を移動するときも几帳を掲げ姿を隠した言われるほどです。
外出することも滅多になく、女性同士でも友だちと顔を合わせて話すような機会は少なかったのではないでしょうか。
ところが宮仕えともなると、昼間明るいうちから大勢の人の前に姿を晒すことになります。
いくら人生経験豊富だとはいっても、それはあくまで一人の女性としてのこと。外で働くのも、集団生活をするのもこのときが初めてだったのです。
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清少納言は自分の容姿、特に髪の毛に自信がなかったようで、宮仕えを始めてからも明るい時刻を避け、夜に出仕し(しかも几帳の後ろに隠れ)明け方には自分の局に帰る、という日々を繰り返していました。
ある日、主人である定子に「雪で曇って見えないから」と促され、まだ昼だけれど参上します。
慣れた様子で働いたりおしゃべりしたりする女房たちを見て「いつになったらあんなふうに仲間に入れるのだろう」と眺めていると、先払いの声がし、定子の兄・伊周がやってきました。
几帳の後ろに隠れる清少納言ですが、彼女に気づいた伊周は、近くに座り色々と話しかけてきます。清少納言が答えられないでいると、今度は扇を取り上げる。
困った清少納言は髪で顔を隠そうとしますが、その髪を見られるのも恥ずかしく…ついには袖を顔に押し当ててその場に突っ伏してしまうのです。
すっかりうろたえて汗をかいてしまったので、着物の袖におしろいがついて顔もまだらになっているだろうと思うのですが、伊周はどいてくれない。
助け舟を出そうと定子が伊周を呼びますが、彼は「(清少納言が)私をつかまえて離さない」ととんでもない冗談を言って、さらに清少納言を困らせます。ハタチそこそこのおぼっちゃまにいじられて、可哀想なくらいの狼狽ぶりを見せる清少納言なのでした。
平安時代の女房の仕事 ー 身分に応じた仕事をこなす
ところでこのエピソードを読んで、「夜のみ出仕って、勤務形態はどうなっているんだ」と(あるいは「平安貴族はいつ寝てるんだ」と)思いませんでしたか?
私も疑問に思い、女房の仕事について調べてみました。
平安時代における「女房」とは朝廷や身分の高い貴族に仕えた女性のことです。専用の部屋・局をあてがわれたことからその名がつきました。
彼女たちの主な職場は、天皇の生活の場である清涼殿や后たちの住まう後宮です。
公的な女房の場合「後宮十二司」という官職がありました。そこは職務内容の異なる12の部署によって構成されており、それぞれに長官・次官…と取り仕切る者がおりました。
中宮に仕える女房にも宣旨(女房たちの筆頭で第一秘書的な役割をする者)など官職がありましたが、同時に中宮が個人で雇っている私的な女房も多くおりました。清少納言や紫式部も私的に雇われた女房だったと言われています。
公私混じってたくさんの女性たちが後宮で働いていたわけですが、彼女たちが皆平等な立場だったわけではありません。女房には上臈・中臈・下臈と身分の別があり、それぞれに与えられる役割が異なっていたのです。
主人に直接触れたり、話たりできるのは基本的に上臈女房のみですが、上臈になれるのは三位以上の娘だけ。現代でいえば大臣の娘という感じでしょうか。中臈は四位・五位の殿上人(現代で言えば国会議員や都道府県知事)の娘、下臈は神社や摂関家の家司の娘がなったそうです。
清少納言や紫式部は中臈女房ですが、歌人や学者の娘ということで特別な扱いを受けていました。
清少納言は、定子の父・道隆が催した積善寺供養の折、定子に上臈女房たちと同じ席での見学を許されますが、そのとき他の女房に嫌味を言われています。それは、彼女が本来は主人と話すのもはばかられる身分にも関わらず、特別に気に入られたこと対するやっかみのようなものだったのでしょう。
(『枕草子』「関白殿、二月二十一日に…」より)
先ほど紹介した後宮十二司の間にも位置付けの高い・低いがあったようで、例えば天皇の秘書的な役を務める内侍司は教養のある優秀な者が選ばれた憧れの部署である一方、行事の準備や掃除をする掃司や発酵させた飲料や粥などを提供する水司は最下級の扱いでした。
また、内侍司の中にも女儒という雑用係のような者がおり、氏女や采女と呼ばれる身分の低い女性がこの仕事につきました。
子どもから年寄りまで様々な女性に、身分相応の仕事が割り当てられていたのです。
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身分によってできる仕事・できない仕事があるため、後宮の仕事は分業制で成り立っていたと思われます。
具体的に想像してみると、御簾の一番奥に中宮がいて、そのすぐ近くに侍っているのが上臈女房たち。御簾近くにいて、格子をあげたり灯台に火を点したりするのが中臈女房、下臈はそもそも御簾の中に入らず、御簾の手前で食事や水を持ってきたり何かの使いに走ったりする…という感じ。食事や水を用意するのは、物語には登場しない、もっと位の低い女性たちでしょうか。
高貴な人が何かをするときは、伝言ゲームのように、あるいはバケツリレーのように身分の上から下、下から上へと伝えられてようやく事が成し遂げられるのです。
女房たちの勤務形態 ー 昼夜を問わず、呼ばれればゆく
清少納言の話に戻りましょう。
彼女は宮仕えを始めたばかりの頃、昼は自分の局に下がり、夜のみ出仕していました。私たちの感覚だと「局に下がる=退勤する」ことだと感じ、まるでフレックス制で働いてるように思われますが、これも現代的な捉え方でしょう。実際は「局に下がる」というのは、完全なオフではなく、呼ばれればいつでも参上できる臨戦態勢だったと思われます。
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どうも平安貴族というのは、生活リズムがかなり不規則だったもようです。
電気がないため、夜明けとともに活動し日が暮れれば休むというのが基本なのですが、夜更かしや徹夜は日常茶飯事でした。
恋しい殿方を待ち侘びて…というわけでもなく、ただ同僚とおしゃべりをしているうちに夜が明けてしまったり、なんとなく寝そびれてしまったり…大した理由もなく夜明かしするのです。
睡眠をとるときも、必ずしも自室のベッドでというわけではなく、几帳の後ろで休んだり、廂の間で友達と一緒に寝たり…。寝る時間も寝る場所も、隙を見て適宜取るのです。
そもそも平安時代には、現代のような固い壁で区切られた部屋というものはなく、広い空間を必要に応じて几帳や屏風で間仕切りしていました。
プライバシーの感覚が非常に薄い、なんとも開放的なありようですが、女房の仕事もこうした生活の延長線上にあったのでしょう。
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しかしこれは新参者には中々難しいシステムだと思われます。
空気を読んで必要なときには出仕し、大丈夫そうなタイミングを見計らって寝るなんて…最初の頃は様子が分からず緊張しっぱなしで休むどころではありません。
自分の家では一家の主としてそれなりに奥ゆかしく育った者が、突然人前に出て大勢の中で空気を読まなければならない。しかもそこはやんごとなき人々の集う煌びやかな世界…!
28歳の清少納言が涙ぐむのもわかる気がします。
しかし最初は戸惑うばかりだった彼女も次第に宮中の生活に慣れ、自在に振る舞えるようになってゆきます。
『枕草子』の「宮にはじめて参りたる頃」という章段に書かれている「皆はじめはこんなふうだったのだ」という言葉はきっと、1000年後の私たちにも響く、彼女の素直な気持ちなのでしょう。
【参考】
京都・宇治 式部卿 源氏物語の里 源氏物語【23】はたらく女たち〈前〉
https://www.shikibunosato.com/f/monogatari23
角川書店編(2001)『ビギナーズクラシックス 日本の古典 枕草子』角川ソフィア文庫
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