結局のところ、他の生き物の命を奪い、亡骸を食べてまで生きながらえる価値が私にあるのか?
食事とは、空腹という問題の解決を先送りしているだけという気がしてならない。
食事したってどうせ数時間したらまた腹は減るのだ。
SDGsらしい。食品ロスとかエシカルとか耳にする機会も増えた。
私がコンビニでバイトしてて一番つらかったのは、弁当やレジ横のホットスナックを廃棄する作業だった。
中華まんやメリケンドッグ好きだからね。でもうちの店では、夜勤が什器を洗う、あるタイミングで売れ残ってるものは、直接ゴミ箱に放り込んでいたよ。
これが一番心が折れた。アメリカンドッグなんて夢じゃん。夜勤で働いて得た収入で、金を出してでも買いたいものじゃん。
財産だったものが一瞬でごみ(扱い)になるというのは、若かった私の人格形成に少なからぬ影響を与えた気がする。
仕事でアメリカンドッグをゴミ箱に捨てて、それで得たバイト代でアメリカンドッグを買う。
まるで自分で掘った穴を自分で埋めるタイプの苦役の様相だった。
介護施設で働いていたときは、おばあさま方から戦争体験の話を伺うことが多かった。
「戦争のときは涙が出るほどお腹がすいた」と教えてくれたけど、今目の前に配膳された食事は残す。しかも30分後には食事したことも忘れて「ご飯食べてない」と言い出す。
少女の頃、満足に食べられなかった経験の記憶があるから、お年寄りになってもご飯を食べられていないんじゃないかと不安になる。
残菜入れにはいつも山のように残飯が積みあがった。
私自身は農家の孫で、米やら何やらが田舎から送られてくる環境で育った。
米粒1つ残さずに、好き嫌いなく食べるように躾けられてきたお陰で、今もアレルギーはあるが好き嫌いはない。
小学生の頃、不作の年があって、給食でタイ米が出たことがあった。いわゆる平成の米騒動だが、Z世代には信じてもらえなさそうな話である。
その経験からたくわえくんとかの備蓄米が充実していったし、最近のフードロスの潮流からコンビニでコオロギチップスとか売られてるのを見ると時代が変わったなと思う。
食糧危機に備えて昆虫食か。甲殻アレルギー持ちとしてはキチン質を分解できるか自信がない。
子どもの頃に読んだ『ファーブル昆虫記』ではないが、光合成できたらいいのに。
ヴィーガンとか菜食主義とか言うけど、玉ねぎ1つ食べたらその玉ねぎの受け継いだ命は絶たれてしまう。
りんごの木からりんごを1つもいでくるだけだったら、命を分けてもらうように見えるけれど、それも納得はいかない。その1つのりんごの持ってる可能性を絶っていることには変わりがない。
命を食べても、その責任を負う自信がないんだ。
他人に迷惑ばかりかけている私が、他の生き物の命をいただいてまで生きながらえる気になれない。できればもう食べたくない。
『仮面ライダーアマゾンズ』の主題歌ではないが『EAT, KILL ALL』と言われても、そうまでして生きていたいとなかなか思えなかった。
もっと気軽に楽しんで食事ができたらいいのかもしれない。
摂食障害の経験がなかなかそれをさせない。
落ちてるおにぎりでも踏んだらバチがあたる気がする。
食べ物を粗末にできたら変わるかなあ。
粗末にしたくないからって無理して食べるのはよくない。
それは単なる自傷行為としての過食だ。
とりあえず義母からもらった大量の沢庵をもりもり食べる。