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【思い出】

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2020年2月の記事一覧

【思い出】私は喋らなくなったらしい

亡くなった母に言わせると、私は小さい頃元気でおしゃべりな子だったらしい。しかしある時期から突然喋らなくなってしまったと。
その頃母がやたらと私に話しかけてきてとても疎ましかった記憶がある。
しかし、ずっとのちに晩年の母と話をしたところ、母はその頃から私が全く喋らなくなってしまったので心配していたのだそうだ。
当時の私は全く自覚症状がなかったのだが、どうも周りの人たちもみんなそう思っていたらしい。

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【思い出】初恋の思い出 その2

初恋にその2もその3もないと思うんですけど。

私の初恋の女性の一人は『うる星やつら』のラムちゃんかな。とっても好きだった。

小学校の四年生の頃に高橋留美子先生の『うる星やつら』のアニメが始まった。

当時、私はコロコロコミックしか読んでなかったから、『少年サンデー』の漫画は大人っぽく見えた。あ、でも、『週刊少年チャンピオン』は読んでたな。『週刊少年ジャンプ』も読んでたな。

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【思い出】中学の国語の先生と中国残留孤児

私は1971年生まれですが、中学の頃(1980年代初頭)よく国語の先生が休んでました。

何故かというと、その先生は夜間学校を開いて中国から引き揚げてきた残留孤児(日本人)やベトナム人に日本語を教えていたからです。当時、1975年の日中国交回復以来、中国残留孤児のニュースが増えて、養父母の中国人や日本で判明した実の両親との対面などが感動的に伝えられていましたね。
おそらくこの先生の活動はボラン

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【思い出】ソウルオリンピックの思い出

なんとなくYouTubeも観ていて、ソウルオリンピックの動画にたどり着いた。

懐かしいね。‘88年だから今から31年前か。私は高校生だった。母は今の私よりも若かった。

小さい頃、母が在日韓国人二世だと知らなかった。小学生の終わり頃にたまたまおばたちの雑談を聞いていて知ったのだけど。母は、自分は日本人と同じく育ったので、韓国語はさっぱりわからないと言っていた。

しかし、母はソウル・

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【思い出】母親の自慢話

私の母は自慢話が好きな人だった。差別の劣等感の裏返しかもしれない。

生前の母はよく3つの自慢話をしていた。
1. 借金をしたことがないこと。
2. 子どもたちによその子の古着を着せたことがないこと。
3. 子どもに残り物や冷や飯を食わせたことがないこと。

確かにそうだった。私が十代だったバブルの頃、私は母の話を真剣に聞いてなかったが、今の格差社会であらためて思えば、なるほどなと思う。

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【思い出】中学時代の在日の同級生

以前にも書いたが、私の小学校はありふれた日本の小学校だった。しかし、地元の中学に進学すると、在日の多い部落を含むその隣とさらに隣の小学校の出身者と同じ中学区で同級生になった。今から35年ぐらい前の話だ。

その新しい同級生の中に在日の男子がいた。彼はおそらく朝鮮籍だったのではないかと思う。ある日先生が彼を教室の壇上に呼んで、彼がしばらく祖国に帰るとわざわざ紹介していたから。

で、この彼な

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【思い出】スーパー銭湯の思い出(その1)

私はよくスーパー銭湯に行く。
温泉も好きなのだけど、なんでもない家族の人間的な交流を眺めているのが好きだ。

いくつか記憶していることを書きたい。

ある夏の時期、私は休日に霞ヶ浦を歩いていた。土浦駅から帰ろうとしていたとき、駅からしばらく歩いたところにスーパー銭湯があることに気がついた。汗を流して帰ろうと思い立ち寄った。

入浴後、会計を済ませて下駄箱に向かっていると、2歳にもならな

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【思い出】小さなドライブレコーダー

(全体の冒頭部分として書く)

私は小さい頃から母に連れられて、そのあとをトコトコとついて歩いていていた。
当時、特に意識していたわけではなかったが、今考えると私は母の小さなドライブレコーダーだった。

私はずっと母の行動と発言を記録し続けていた。それは私が物心ついてから母が亡くなるまで半世紀近くにわたって続けられた。

以下、その記録について書き出してみようと思う。

(以下、あ

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【思い出】私の夢(その4)

その後、私は社会心理学の理論を用いたSNS上のヘイトスピーチを含む人間関係の風評被害を分析する手法をいくつか考案して、社内の知的財産部に持ち込んだ。しかし他の技術評価者も含めて、多くの人からこういった題材は民間企業において扱いにくいのではないかというアドバイスをもらった。
そこで私は分析対象を一般的な商品やスーパー銭湯の評判や好感度などに置き換えて再度話を伺った。
すると今度はその分析でどういった

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【思い出】私の夢(その3)

私は最低限の夢を成し遂げることは出来たが、それで人生が終わるわけではない。
最初の夢は叶うまでは天空にあるが、叶ってしまえばただの足場に過ぎなくなる。これからが本番だ。

私は自分の夢をさらに引き上げることにした。次の夢は自分がメイン発明者となって特許をとることにした。
そしてさらに夢が膨らんできた。できれば最初の2つの夢を融合させられないだろうか。
その頃1つの社会問題が見えてきた。いわゆる

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【思い出】私の夢(その2)

最初の特許申請がなされ、その賞金で両親に贈り物をすることが出来た。これでようやく最低限の夢が実現出来た。
しかし、これはまだ不完全だった。まず、特許申請はなされたが、それが特許として成立していなかった。もしかすれば前例が見つかり、特許としては成立しないで終わる可能性があった。しかも今は受験生が合格発表を待っているような状態で自分で出来ることは何もなかった
また、この最初の特許は先輩の特許に協力させ

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【思い出】私の夢 (その1)

私の夢について以前にも何度か書いたのだが、数年前で話が止まっていたのでアップデートも兼ねて書き直そうと思う。

私には夢が2つあった。
1つは世の中の役に立つ発明をして、特許を取得することだった。
私の父は工業高校の出身で、祖父は戦前に呉の工廠で働いた。戦艦大和などを作っていたようだ。
で、私が10歳ぐらいだったか、父とお風呂に入っていると父が若い頃に特許申請をした話をしてくれた。石油タンカー

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【思い出】経済格差による貧困層の受験教育の難しさについて

今になって思えば、私の家は貧しかった。私は2, 3枚のシャツと一足の白い運動靴しか持っていなかった。中学に近くには屠殺場があり毎日血生臭かった。

私は塾には行ったことがなく、市販の参考書などもなかった。自宅で教科書だけで自習していた。そのうち、このままでは中途半端に終わってしまうと覚悟して、私は数学一本で勉強し始めた。数学は原理さえわかれば、その応用でいくらでも問題が考えられたから、私には有

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【思い出】彼女のこと

書き出せなくて悩んでいた。
仕方がないので書く。

私には昔一緒に暮らしていた彼女がいた。
彼女とは、20年以上前の私が20代の頃に知り合った。5歳年下の彼女は美大を卒業して美術系の会社に就職したばかりだったが、その会社がいわゆる御局様に取り仕切られていて、彼女はよく泣いていた。

私が一緒に暮らさないかというと、彼女は会社を辞めて私と一緒に暮らしてくれた。彼女は有名企業のデザインのパート

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