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映画批評『ダークナイト』: 本音と建前の脱構築

はじめに

この記事では、2008年公開のクリストファー・ノーラン監督の映画『ダークナイト』に関する哲学的観点からの批評を行う。

『ダークナイト』は極めて人気の映画であるので、批評サイトや映画系ブログ、Podcast や YouTube でも感想や評論系のコンテンツが多く見つかる。

しかし私の批評は、哲学、特に現代思想における中心概念である「脱構築」を使って、他では類を見ないほど深い分析を行っている。読者とともに謎を解決していくかのように、『ダークナイト』の投げかける「問い」を分析し、解決まで至るようなテイストの批評となっている。

そしてその深い分析の結果、『ダークナイト』を見たことがない人、哲学に触れたことがない人、なんなら、映画にも哲学にも興味がない人にまで得られるものがあるような内容となったと自負している。哲学に触れたことが全くない人でもわかるように、恋愛など、誰にとっても身近な具体例を使って説明している。特にタイトルにある「建前」に関する哲学的分析は、現代社会を生きる多くの人にとって重要な気づきが得られるのではないだろうか。

簡単な自己紹介

私は1994年生まれの男性で、普段は本業で理論物理学とか複雑系科学の研究をしています。いわゆるポスドクと呼ばれる研究者です。ポスドクとは、簡単にいうと大学にいる教授や准教授の3, 4段階手前の地位の人間、といった感じです。今回の批評では、私の研究や論文執筆の経験で培った、論理的で分析的なアプローチで『ダークナイト』に迫っています。映画と哲学書を読むことが趣味で、今回はその趣味の創作活動的な位置付けになります。

では以下から批評本編スタートです。

***

『ダークナイト』と脱構築

『ダークナイト』は、有名アメコミシリーズである『バットマン』の実写映画である。バットマンの最大の敵と名高いジョーカーとの闘いがとても印象的な作品だ。日本でもファンは多いだろう。

また監督のクリストファー・ノーランは、世界から約半年遅れで日本でも上映された『オッペンハイマー』で、作品賞を含む7部門で2024年のアカデミー賞を獲得した言わずと知れた現代映画界の巨匠である。

『ダークナイト』を見るとまず強烈に印象に残るのが、本作撮影後に突然の死を遂げたヒース・レジャーの怪演によって映画史に残るような際立った存在となったジョーカーの強烈な悪役像である。クリストファー・ノーランらしいリアリティ抜群のアクションシーンなども印象的だ。

しかし、この伝説的映画はそうした印象的な「意匠」の奥にある「深層」において、どのような理念を持っているのだろうか?観客や社会に、何を問うたのか?その問いの答として何を提示したのか?

この批評ではこうしたテーマを、ある哲学の概念を使って読み解く。それは「脱構築」と呼ばれるものである。

脱構築とは、20世紀後半の哲学界のスターであるジャック・デリダの思想における中心的概念だ。デリダは1930年にアルジェリアで生まれ、2004年に亡くなったユダヤ系フランス人哲学者である。彼が提唱したその「脱構築」は、哲学のみならず法学、また文学などのアート方面にも多大なる影響を与えた。

今回はその「脱構築」を使って『ダークナイト』を分析し、私なりに批評してみたい。また当然それはクリストファー・ノーランという偉大な映画監督の作家性を探ることにもなる。よって、『オッペンハイマー』や『テネット』など他のヒット作を見るときの視点にも大きな影響を与えるだろう。

あ、ネタバレはもちろん含みます!(なお、ヘッダー画像含め本批評で使用している映画中の画像はワーナーのオフィシャルサイト : https://www.warnerbros.com/movies/dark-knight からのものである)


簡単なあらすじとテーマ

あらすじ

マフィアが蔓延る大都市ゴッサム。ゴッサムの大富豪ブルース・ウェインの夜の顔は、そんな街の平和と秩序を守るために、ビルのガラスや壁を突き破ったり、悪党を暴力によって制圧したりという「超法規的自警活動」を行うヒーロー、バットマンである。バットマンの存在自体はゴッサム市民に広く知られている。しかし、そのバットマンの正体がブルースであることは、彼に協力するごく一部の人間しか知らない。

バットスーツを見るブルース・ウェイン

あるとき、道化師の見た目をした謎の犯罪者ジョーカーが現れる。ジョーカーは資金洗浄され銀行に預けられたマフィアの資金を奪ったことを皮切りにマフィアにウイルスのように侵入し、マフィア弱体化の原因であるバットマンの殺害を提案する。そしてそこから、バットマンおよびゴッサム市警のジム・ゴードン、ゴッサムの地方検事ハービー・デントと、ジョーカーとの闘いが始まる。

マフィア交渉するジョーカー

ジョーカーはハービーやゴードンによる大規模な捜査の「粗」につけ入り、警察・検察幹部やゴッサムの一般市民を一人ずつ殺害していく。そしてバットマンが正体を晒すまでそうした殺害をやめないと脅す。それに対してバットマン、つまりブルースは、バットマンの存在意義や、「本当の正義」について苦悩しつつも、周囲の人間の「アシスト」を受けながらジョーカーと闘い続ける。

以上は作品の 2/3 ぐらいの内容を非常に大雑把にまとめたものである。以下の分析では、理解の前提となるストーリー はできる限り逐一紹介する。

この映画のテーマは?

結論からいってしまえば、『ダークナイト』のテーマは「正義とは何か」という問題である。正義とは何かという問題が提起されていることは、実際のところ、そこまで注意深く映画を鑑賞していなくても分かるのではないだろうか。その他のテーマももちろんあるだろう。しかし、正義の問題が最も中心的なテーマであるといっていいと思われる。それは、主人公であるブルース・ウェインがジョーカーをなかなか打ち倒すことができずに、バットマンのやり方や存在意義に関して苦悩する様子に現れてもいる。また映画の最後の場面で、二輪装甲車バットポットに乗るバットマンの後ろ姿を映しながら流れるのジム・ゴードンのセリフは、見る側に正義とは何なのかという問いを明らかに投げかけている。

「本音」と「建前」の二項対立

しかし普通に考えれば、「正義とは何か」という問題はあまりにも大きすぎる。だが、この映画にある見方を導入すると、そのような大きな問題も我々観客の手元に降りてくる。その見方とは、「本音」と「建前」の二項対立である。

どういうことか。端的にいえば、本音サイドはジョーカー、建前サイドはバットマンとその周辺の人々の考え方・理念である。この映画は実は、注意深く見ると、初めから最後まで人間の本来性や本音を強く欲望しそれを暴こうとするジョーカーの策略・行動に対して、バットマンサイドが絶えずうまく建前を使ってギリギリのところで対抗していく、という具合にストーリーが進んでいく。

以下ではジョーカーサイドとバットマンサイドに分けて、そういったことが読み取れるようなシーンやセリフをピックアップしていく。

ジョーカーによる「本音」の論理

ジョーカーは作中で、金や地位に興味のない劇場型犯罪者あるいはサイコパス的快楽殺人者として描かれる。純粋な悪、カオスの体現者として我々の目に映る。これは『ダークナイト』あるいはバットマンシリーズ全体におけるジョーカーの典型的なイメージであろう。

パトカーを奪い逃走するジョーカー

それはジョーカーの人物像のおおよその理解としては正しい。しかし、『ダークナイト』におけるジョーカーのセリフや行動を注意深く追うと、ジョーカーは唯一、あることを強く欲望していることが分かる。

それは人間の「本来の姿」である。

ジョーカーは絶えずバットマン、つまりブルース・ウェインにそのマスクを脱いで素顔を見せることを要求する。

また、終盤において囚人を収容したフェリーと一般市民を収容したフェリーが爆破を免れるシーンがある。ジョーカーは一般市民側が、もう一隻は囚人が乗っているという理由からスイッチを確実に押すと予想したのだろうが、実際はそうならなかった。

この直後のシーンで、ジョーカーは作中で唯一といっていいほど強い悔しさを滲ませる。ここは本作で最もジョーカーの欲望やそれに伴う感情の動きが強く現れるシーンである。

つまりジョーカーは、善良に見える市民でも本当は悪意があることを信じていた、あるいはそうあってほしいと欲していたのだ。

本来性の希求はジョーカーのセリフにも具体的な形で現れている。特に、 "who you really are" "you truly are" など、人間の本当の姿を要求するフレーズがいくつか登場する。私が数えたところ全部で6箇所あったが、以下では主要なものを3つピックアップしてみる。

1つ目:資金集めのためのパーティでのバットマンへのセリフ
作品の中盤、ハービーが次期ゴッサム地方検事に当選するため (アメリカでは地方検事は選挙で選ばれる) にブルースが開催したパーティにジョーカーが侵入する。そこでバットマンとジョーカーは作中で初めて相対する。以下はハービーを出せと要求するジョーカーを制止するバットマンとの会話。

Batman: Drop the gun.
Joker: Oh sure. If you just take off your little mask and show us all who you really are.

ここではストレートにバットマンのマスクの下の本当の姿を欲求している。

2つ目: 取調室における、ジョーカーからジム・ゴードンへのセリフ
作品の中盤、ハービーがブルースを庇って自分がバットマンだと記者会見したことでジョーカーらはハービーの護送車を強襲。ハービーを守るために駆けつけたバットマンとジョーカーとの一騎打ちになったところを、ゴードンがバットマンを救ってジョーカーを逮捕することに成功する。しかしその直後、ハービーと、ハービーの恋人でブルースの元恋人であるレイチェルのふたりが何者かによって誘拐された。ゴードンは取調室でそのことに関してジョーカーに問いただす。

ジョーカーは、ゴードンの部下が裏切って自分自身らと内通してレイチェルとハービーの誘拐を主導したことを示唆しつつ、次のように言う。

Joker: Does it depress you, commissioner…to know just alone you really are?

Commissioner とはゴードンのことである。ゴードンはジョーカーを逮捕した功績によって直前にゴッサム市長からゴッサム市警本部長=Commissioner に昇進していた。高い地位に就いたゴードンに対して、しかしお前は本当はひとりなのだと諭す。これは、そうあってほしいというジョーカーの願望も反映していると読める。

3つ目: ジョーカーらのアジトであるビルにおいて、バットマンが突き落としたジョーカーを空中で止めて引き上げてから交わされる会話におけるセリフ

物語の最終盤、2隻のフェリーの爆破をバットマンによって阻止されたジョーカーはバットマンと戦闘するが、バットマンのテクノロジーによって建設中のビルから下へと突き落とされる。しかしバットマンは人を殺さない理念であるため、空中のジョーカーをワイヤーのようなもので吊るし、自分のところまで引き上げる。その時のジョーカーからバットマンへのセリフ:

Joker: Oh, you. You just couldn’t let me go could you? (中略) You truly are incorruptible, aren’t you?

ジョーカーは、突き落とした自分自身を引き上げずに殺すことのできないバットマンに対して、「お前は本当に、なんて高潔なんだ」という皮肉として "you truly are" というフレーズを使っている。

以上のように、文脈は違えどジョーカーは「人間の本当の姿」に関わるフレーズを作中の複数の場面で、時に皮肉として異なった意味で反復している。これはジョーカーの心の根底にある、人間の本音を見たいという欲望が表出している様子であると考えられるのではないだろうか。実際、一つの映画で一人の登場人物がこれだけ同じフレーズを違った形で反復する例はおそらく珍しい。

以下、このジョーカー側の思想を「本音の論理」と呼ぶ。本音という方がこれ以後示すバットマンサイドの建前の論理と日常言語としてはより対をなすからである。

バットマンらによる「建前」の論理

左からハービー・デント、ジム・ゴードン、そしてバットマン

他方で、バットマンとバットマン周辺の人々は建前の論理で動く。通常、バットマンのイメージは、悪と対峙してゴッサムの秩序を守るスーパーヒーローといったところだろう。これはもちろん一義的には全く正しい。

しかし『ダークナイト』においては、バットマンらは数々の「建前」をうまく使うことで危機を乗り越えながらジョーカーからの攻撃に対してゴッサムを混乱から守るという「大人な」チームなのである。

以下にそうした様子がわかるシーンを2つだけ挙げてみる。

⭐️以下のシーンの前提となるストーリー⭐️

ジョーカーの策略によって誘拐されたハービーとレイチェルは別々の場所に置かれ、時限爆弾のそばで身動きが取れない状態になっていた。

そしてジョーカーはレイチェルを助けたいバットマン=ブルースを騙し、本当はハービーがいる場所をレイチェルがいる場所と伝え向かわせる (ジョーカーはこの時点でブルース・ウェインがバットマンであることに気づいていたのかもしれない)。

バットマンはハービーのもとに到着し爆発寸前に助け出すことに成功するが、ゴードンらゴッサム市警が向かったレイチェルの現場では爆破に間に合わず、レイチェルは死亡する。そして、そのショックからハービーは傷心状態となり、レイチェル誘拐に関わりそして彼女を助けられなかったゴッサム市警の警察官らへの恨みと、ジョーカーの洗脳によって悪と混沌のサイドに落ちてしまう。

レイチェルとハービー

そしてあろうことか、検事でありゴッサムの光であったハービーはその警察官ら合わせて5人を殺害してしまう。

1つ目: レイチェルが殺害されたあとのバットマンの執事であるアルフレッド・ペニーワースのブルースに対する行動
バットマンの執事であるアルフレッドは、レイチェルの死後、ブルースの自宅でブルースに朝食を供する際、生前にレイチェルからブルースへ書かれた手紙を渡そうとする。しかしブルース自身は、本当はレイチェルは自分を愛しておりハービーではなく自分と結婚するつもりであったと信じて疑わない。この様子を見て、アルフレッドは渡す直前に朝食の乗ったトレーから手紙を取り去る。その手紙には、ブルースとではなくハービーと結婚するつもりであるレイチェルの真の意思が書かれていた。この行動は、傷心したブルースがその後メンタルを立て直し、ジョーカーと再び対峙するために重要なものとなったと推察できる。

2つ目: 最終盤での、バットマンがハービーが犯した殺人の罪を被る行動
バットマンは、ジョーカー陣営と内通しレイチェル誘拐に関わったゴッサム市警の警察官らを、ハービーが殺害したことを知る。そして、ゴッサムの「光」であるハービーが殺人を犯していたことが市民に知れ渡ると混乱が生じると判断したバットマン=ブルースは、バットマンがその殺人を犯したことにしてそう市民に広めるようゴードンに伝える。こうしていなければ、ゴードンの懸念の通りゴッサム市民の不安は最高潮に達し、混沌が訪れていただろう。

これ以外にもたくさん挙げられる。例えばハービーが記者会見で自分がバットマンだと偽ることでブルースを庇ったこと、ゴードンが自身がパレードでの襲撃事件で凶弾に倒れ死んだことにしておいてバットマンとジョーカーの一騎打ちのときに近くに潜みジョーカーを逮捕すること。あるいは囚人を収容したフェリーと一般市民を収容したフェリー間において、互いにジョーカーの脅し、つまりどちらかが先に他方のフェリーの起爆装置のスイッチを入れなければ両方のフェリーとも爆破するというに屈せず、爆破を免れたシーンも、広い意味での建前の判断だったといえるかもしれない。

そしてそもそも、バットマンの存在自体が法や警察権力を建前化しているという事実がある。

ゴッサムは警察や検察の権力のみでは秩序が維持でcきない。バットマンのようなテクノロジーを駆使しつつ建物を破壊したり悪党を殴る、「超法規的な自警市民」の存在によってゴッサムはギリギリの平和を維持している。そして市民はそんなバットマンの存在を認識している。したがって、市民にとってはどうしても、警察や検察の存在は建前的に映ってしまうのである。

脱構築とは何か

以上が『ダークナイト』で描かれている本音と建前の二項対立である。

ではこの二項対立から、どのようにこの映画のテーマである「正義とは何か」という問題をを明らかにしていけばいいのか。それは、20世紀を代表する哲学者ジャック・デリダによるあまりにも有名な哲学概念である「脱構築」を経ることでなされる。

デリダ

私は哲学、あるいはフランス現代思想の専門家ではない。しかし私なりに脱構築を一言で表現してみる。

脱構築とは、ある言説の内部に潜む一見すると元の言説と矛盾する「かのような」箇所を見つけることで、その言説が構成する階層秩序的二項対立を解体する試みである。階層秩序的二項対立とは、どちらか一方の概念が優位でもう一方の概念が劣位とみなされるような二項対立のことをいう。

脱構築の説明では、西洋哲学で古来から存在する音声中心主義と呼ばれる考え方、つまりパロール=音声言語とエクリチュール=文字言語の階層秩序的二項対立を脱構築することで脱構築の論理自体を形式的かつ理論的に解説することが多い。しかしそうした説明を始めてしまうと、本作の批評を目的にした場合には相応しくない些か難解な議論を含んでしまい得る。

よって、ここではそうした形式的理論的記述を、普段は理論物理の研究をしている私なりに頑張って読み解いた上で、以下のより日常的な具体例を使ってより直感的な脱構築の説明をしてみる。

例:計画性の脱構築
例えば、「計画することが重要であり、無計画に生きるのではいけない」という言説があるとする。先ほど脱構築の端的な説明の中で、「階層秩序的な対立関係を解体する試み」と書いたが、この例においては「計画すること」が優位で「無計画でいること」が劣位という階層秩序的二項対立が読み取れる。

ここで、「計画することが大事だ」あるいは「計画する」という概念自体を細かく分析してみる。計画とは、大なり小なり何かあるプロジェクトを期限までに確実に完了させるための方法・考え方である。つまりその本質は、「何々をいついつまでに終わらせる」という時間に関するルールである。ここまではいいだろう。しかしそのルールを正しく課すためには、つまり一つ一つの作業の予定を適切に立てるためには、当たり前であるが、自分やチームのメンバーがそれらの作業にどれくらい時間がかかるかを正確に知っている必要がある。

では、どうやったら個々の作業にかかる時間を正確に知ることができるのか?それは、実験的に作業を何回かこなしてみて実際にかかった時間を計測することしかないだろう。

そして、これを実行するには、事前にスケジュールに大幅な余白を設けておかなければならないだろう。なぜならそうでないと、その作業がほとんど終わらず作業にかかる時間が全く正確に計測できない可能性があるし、ある作業にかかる時間はその作業を複数回こなさないと正確に推定できないが、そうした時間を確保できないからだ。

これは客観的に見たら無計画に生きているような状態に見えるのではないだろうか?
そう、「作業時間を正確に見積もる」という計画性の本質部分を可能にする条件として、ある種の無計画性が必要となってしまうのだ。

とにかく、このように脱構築とは、ある言説を突き詰めて考えていったときに明らかになるその言説とあたかも矛盾するような地点 (私ははこれをメタファーとして「特異点」と以後呼ぶことにする。) を発見することで、一面的だった視点を揺らがせる行為である。

なお、脱構築に関して幾つかの書籍を読んだが、最も参考にした本は東浩紀の『存在論的、郵便的』(の特に第1章) である。非常に論理的な記述であるため理系出身の人が脱構築あるいはデリダに入門したい場合に向くと思われる。

「本音」と「建前」の脱構築

脱構築について簡単に理解したところで、『ダークナイト』自体の批評に戻ろう。

本作で現れている二項対立は、本音が優位で建前が劣位にあるという階層秩序的二項対立であるといえる。つまりここで脱構築すべきは、「人間は本当の姿を見せることで、本音や本性を明らかにすべきだ」とも表現可能な、ジョーカーの思想である。

本音が本音として伝わるための条件

しかしその「本音の論理」が成立するためには、当然ながら、「ある人物の語ったことが、本音であると対話者に確実に伝わる」という条件が必要である。

ではこの条件はどうしたら満たされるのだろうか?この条件は、ある人によるある発言が「本当」なのか「偽り」なのかの判定可能性とも言い換えられる。

この問題を考えるために、本作における次のような架空の状況を想定してみる。それは、ブルースがジョーカーの要求に応え、ジョーカーの目の前でマスクを脱いで正体を現し、「私がバットマンだ」と言ってしまうという架空のストーリー展開である。

実際、記者会見でハービーがブルースに先んじて「私がバットマンだ」と前に出なかったら、こうした展開はあり得たわけである。

ではジョーカーは、ブルースによるこの発言が真実=本音であるとどうしたら分かるのだろうか?

これは具体的に考えれば考えるほど、実は難しい問題であることが分かる。

例えばブルースが証拠としてマスクとバットスーツを提示するとする。しかし当然ながら、それは本当は模造品である可能性もある。

あるいはブルースがウェイン産業応用科学部の研究所をジョーカーに見せたとする。この場合でも、たとえバットマンのさまざまなガジェットをそこで研究・開発していることが確かであると分かっても、そのこと自体はブルース・ウェインという人物が本当にバットマンであることの確たる証拠にはならない。研究所の所在を知っている別の人物がバットマンかもしれないからだ。

これらの情報を総合して、ブルースの発言を真実あるいは本心であるとみなすにはどのような思考が必要となるのだろうか?

そもそも、建前とは何か

それを考えるために、ここでそもそも建前とは何なのかを考えてみよう。こはこの批評の核心となる部分である。

我々は建前という概念について何となく理解しているような気がするし、日々の仕事や生活の中で、誰しも建前的振る舞いを意識的にも無意識的にもしていると思われる。しかし、建前とは本当のところ何なのか?建前の重要性あるいは効果とは何なのか?単に嘘をつくことと何が本質的に異なるのか?など、実はよく分かっていないではないだろうか。

まず端的に答を与えてしまおう。建前とは実は、「本音や真実を隠していること、あるいはその背景にある親切心や配慮が、その後もしかすると相手に知られるかもしれない可能性が織り込まれた偽り」というものである。

あるいは、偽りだったことがその後相手に知られるかもしれない可能性が「存在すべき」偽り、というものだ。

すなわち建前の本質を端的に表現すれば、それは「真偽の逆転可能性」のことなのだ。

矢継ぎ早に説明してしまった。しかし以下の具体例を読めば直感的にも理解できるはずである。

例えばあるとき、職場の先輩などから「あなたのことが好きだ。付き合ってほしい」と告白されたとする。

あなたは相手にその告白を受け入れるか否かをその場で伝えなければならない。しかし、あなたはその告白してくれた職場の先輩のことを、実は嫌いであるとする。なので交際の申し出は断ろうと考える。

このとき多くの人は、同じ職場であることなどを考慮して、嫌いであるという本心は伝えないのではないだろうか。あなたもその例外ではなく、「あなたのことは嫌いではない。しかし申し訳ないが好きというわけでもないので付き合うことはできない」といった感じのことを言ってやんわりと断るとする 。つまり建前を使うわけである。

このとき、この「嫌いではないが好きでもない」という「嫌い」に対する建前の意図は実のところ、次のような二重の意味を持つのではないだろうか?

一つは、業務に支障をきたさないよう職場での関係性が悪化することを避けたい、あるいはその場で逆上されるなどのリスクを避けたいという意味。

そしてもう一つは逆に、長いスパンでは「嫌いでも好きでもない」=「実は嫌い」と少しずつ伝わっていくことで、再度告白されるリスクが軽減され、その先輩が職場で適度な距離を取ってくれるように物事が運んで欲しいという意味である。

長期的にはこのように物事が運ぶことが、「嫌いでも好きでもない」という建前の「あるべき効果」なのではないだろうか。

他にも例は挙げられるだろう。例えば、辛そうにしている職場の後輩に仕事の相談を受けたとする。仮にその後輩に何か仕事の出来に関して問題があるとしても、その場ではその問題を少なくとも直接的には言わないのではないだろうか。

しかしそれは後々になって、「先輩は親切心からあのとき気を使って言わなかっただけなんだな、自分は本当はここがダメだから直していこう」と後輩が思ってくれるようになることが、その建前の効果として「あるべき姿」なのである。

そして、このように考えると、建前と嘘との差異がはっきりする。なぜなら、嘘をつくときには人は、相手にそれが嘘であると後で決して分かられないように、そして分かられないことを前提として偽るからである。すなわちある人が嘘をつく場面では、時間が経つにつれて次第に意味が逆転するということは「あるべきでない効果」なのだ。

本音の論理の脱構築

我々はとうとう、建前性の本質を理解するところまで来た。では先ほどの問題である、ある人物の語ったことが、本音であることの判定可能性を、先ほどのブルースによる「私がバットマンだ」発言が真実あるいは本心であるかをどうやったらジョーカーは分かるのか、という具体例から明らかにしよう。

取調室でのジョーカーとバットマン

例によって答から言ってしまおう。それは、「もしもブルースが実はバットマンではないとしたら」と仮定して、その後の言動を反証しようとすることである。つまり、発言内容が虚偽のものであると仮定したときに、バットスーツの提示やウェイン産業の秘密の研究所の存在を明かすということが起きる確率がいかに低いかを考えることである(すなわち論理学的には元の命題の対偶命題を証明することである)。

実際ジョーカーはバットマンやその他の人物を死の淵まで追い込んだ上でさまざまなことを問い詰める。これは、死を免れたいという状況ならば人は嘘を吐く確率が低いということを利用している。ジョーカーは、相手の発言の真実性を高めるために究極の状況を作り出すわけだ。もちろんこれは、映画における犯罪者やマフィアの常套手段でもある。

本当にそうであるか、つまり誰かの発言が本音あるいは真実であるかを判定する際に「真実ではないとしたらどうだろうか」と考えるものかと、疑いも持つ人もいるかもしれない。しかし、こういった思考を、実は我々は日々無意識にたくさん行っているのではないだろうか。

またもや恋愛の例で考えてみよう。恋愛では「脈あり行動」というものがある。異性のある行動が脈ありかどうか、つまりその裏に好意があるかどうかを悩んでいるとする。例えばバレンタインに男性が女性からチョコをもらう、目がよく合う、毎日笑顔で挨拶されるなどだ。

この時そういった行為をされた人は実は、「相手がもし自分に好意がないとしてもその行動をしたかどうか」を無意識に考え、その可能性が低いことを持って「脈あり」と判断しウキウキするのではないだろうか。

実際、脈ありであることを否定する女性恋愛系インフルエンサーなどの言説は常に、「好きじゃない人にもその程度の言動はする」という形をとる。

このように我々は、無意識に、他人の言動が本心や真実に基づくかどうかを、こうやって「もし嘘だったら」つまり真偽 (意味) が逆転・転倒していたとしたらと仮定することで判断している

そう、これはまさに先ほど建前の本質として提示した「真偽の逆転可能性」を考えることそのものである。本音が本音と伝わることを可能にする条件は、逆説的に、本音の対立概念である建前性にあるのである。

これこそが、「本音」と「建前」の脱構築である。

ここで少々注意しておきたい。もちろん、信頼している人の発言、というか普通人は、他人の発言をまず偽りだと仮定するなんてことは、少なくとも意識的にはほとんどしていない。それは、我々が自我を形成する過程で、そういった論理的な推論を毎回やらずに済むよう直感によってそれを補完できるように成長するからではないだろうか。あるいは人間はまず相手のことを信頼し、成長過程でときに裏切られることなどを経験しながら、そういった信頼の観念を獲得していくのかもしれない。このままでは全く科学的言明ではないが、「厳密には相手の言うことが本心かわからない」と「しかし我々は相手の言うことを基本的に本心からのものだと思って行動している」という二つの事実を仮定すると、こういった推論を導かざるを得ないため、その辺はご容赦いただきたい。

またこのあたりの議論にはジョーカーの思想が形成されたヒントが隠れている可能性がある。2019年公開の映画『ジョーカー』を注意深く観れば、その辺りのことが分かるかもしれない。

ここまで来た我々は、ジョーカーがバットマンあるいは観客に絶えず突きつけてくる「本当の姿、真実を見せろ」というメッセージに対して、非常に強いカウンターパンチを喰らわせることができる。

我々は、ジョーカーのやっていることは非人道的で重大な犯罪行為であり、ゴッサムにカオスをもたらす悪であるという、ある種非常に素朴な主張に加えて、このような理念上の非常に強力な「武器」を手にした。

そして、正義とは何か

我々はここまでの分析で、本音と建前の二項対立を脱構築するというところまで山を登ってきた。しかしそもそもこの二項対立で『ダークナイト』を見ることは、あくまでこの映画のテーマである「正義とは何か」を考えるための切り口であった。

では、本音と建前の脱構築を経た上で、正義とは何なのか。頂上はもう目の前である。

結論

例によって、いきなり結論からいく。
私は、こうした本音と建前の脱構築こそが、正義であると結論したい。

より具体的にいえば、バットマンらが建前によってゴッサムの秩序をなんとか維持する、あの一つ一つの行為そのものこそが正義なのである。バットマンは、その行為一つ一つで正義を実践していたのである。

(デリダの思想に詳しい方は、ここで脱構築と正義に関して二つを同一視する議論を思い出され私が自分のオリジナルであると虚偽を行っていると思われたかもしれないが、その議論を持ち出してみたところあまりに学問的になりすぎたのでここでは省略しているだけである。これはあくまで映画ファンに向けた映画批評であるのでそのあたりはご容赦ください。あとでその辺りの問題に関する記事を書きます。結論から言うと、私はデリダによるそのテーゼを大いに参考にしましたが、直接に「デリダがこう言っているのだからこういう結論になる」という論法は取らなかった、ということです。)

特にそれが最も顕著に現れているシーンがある。そう、すでに挙げているが、最終盤、ハービーからジム・ゴードンの息子ジミーを救ったバットマンがハービーの殺人の罪を被ることを決断するシーン、およびそこでのセリフである。

ゴッサムの正義の象徴であるハービーがジョーカーによって悪に堕ちたことが知れたら、ゴッサム市民は絶望だというゴードン。したがって、バットマンは "true hero" であるハービーが殺人を犯したという真実を隠すために、自分がハービーの殺人の罪を被ると伝える。そしてゴードンの「警察が追うぞ」という警告に対して次のように語る(こちらは日本語訳の方が我々の議論してきた建前と正義の関係がわかりやすいので日本語字幕をそのまま引用する。ボールドによる強調は私による)。

バットマン:「手を抜くな。追い詰めろ。犬も放て。それぐらい必要だ。真実だけでは人は満足しない。幻想を満たさねば。ヒーローへの信頼が報われねば。」

これは真実=本音、幻想=建前と読めば、まさに本音と建前の脱構築的な言説を表現している。

そして、なぜバットマンは悪いことをしていないのに逃げるのかと尋ねる息子ジミーに対して、ゴードンは次のように語る (先ほどと同じく強調は私による)。

ゴードン:「彼は街に必要な人だ。ただし今は"時"が違う。

これはまさに、私が先ほどの建前の本質を分析した際に強調した、建前の時間性の本質を捉えたセリフである。すなわち、バットマンが5人の人間を殺害したというのが建前=幻想なのが "今" であるというのは、その後意味が転倒する、すなわちバットマンがいずれ「バットマンとして」ゴッサムに戻ってくるということを示唆している。

また、以上のシーンでは、ハービーこそが「本当の」正義であり、バットマンはそうではなく沈黙の守護者=ダークナイトであるということが語られる。私はこれは映画の真の意図をすぐには明示しないための、それこそ建前的なトリックであると考える。実際、ハービーのようなまっすぐな正義だけでは結果的にゴッサムを守れなかった。バットマンのような、時に建前=幻想を使う行為こそが正義なのだというのが、『ダークナイト』の真の意図なのではないだろうか。

またここでバットマンはハービーのことを "true" hero と表現する。これは、ジョーカーが連発するフレーズである "Who you truly are" における truly (あるいは他のセリフにおける really) と対応するものであると私は推察する。そう、目的への真っ直ぐさという点において、実はジョーカーの本音の論理とハービー的なストレートな正義は繋がっているのである。

さらなる批評ポイント: 今後の記事の予告として

(さて、ここまで一つの映画の批評にしては異常に長い文章をお読みいただきありがとうございます&お疲れ様です。本論は以上まででおしまいです。)

ここでは、以上の脱構築を経た上で、さらに批評あるいは議論すべき重要ポイントを次回以降の記事の予告として提示してみる。それらは次の6つだ。

  1. 脱構築と正義の問題

  2. ハービー的正義とバットマン=ブルース的正義の対立とその脱構築

  3. 両表のコインというモチーフの意味

  4. バットマン=ブルースはいつから建前の重要性を理解しダークナイトとなったか

  5. ジム・ゴードンとは誰か

  6. ジョーカーの精神分析

1. は実はデリダの著作の中でその関係が議論されている。端的にいうとデリダは「脱構築とは正義なのである」と述べているのだ。この辺りの理論的な考察を次回以降の記事で行なって、本批評の結論と関係づける。

2. は、本作を貫く、実はジョーカーの思想との二項対立よりも重要といえるハービー的正義v.s.バットマン=ダークナイト的正義の対立である。ハービーの正義は純粋でまっすぐで、多くの人が思い浮かべる正義像に近いと思われる。それに対してバットマン=ダークナイトの正義は今回私が明らかにした建前、あるいは脱構築としての「ダークな」正義である。おそらく、『ダークナイト』が本当に提起したい二項対立はむしろこっちである。こちらの方がおそらく正義の問題により強いメッセージ性を持ってアプローチできるだろう。

3. はハービーが作中で重要な決断を委ねるコインに関する議論だ。実はこのコインは両表であり、ハービーはコインをトスする前から決断を済ませているのに、まるで運に任せるかのように見せるのである。

コイン投げをしようとするハービー

私は正直に言って、このコインを使うモチーフ自体は素晴らしいが、ハービーが悪に落ちる前からそれが両方表であるという設定は、少なくとも脱構築的観点からすると制作サイドの端的な失敗なのではないかと考えている。なぜなら、すでに決断を下しているというのは、ブルースとの対比にあまりなっていないからだ。

ハービーはコインは公平性の象徴であると考えている。しかし公平性への過度なこだわりはストレートな正義の典型ともいえる。その公平性あるいは運への過度なこだわり=「特異点」をジョーカーに突かれ悪に堕ちたと考えれば、むしろ悪に落ちる前から裏表の区別がついているコインを使い方が論理としてはスッキリする。それに対して、バットマン=ブルースは、常に困難な状況をテクノロジーによって解決しようとする。ときに市民の携帯電話の電波を傍受してまでである。ここに、建前性だけでは汲み尽くせない、二人の決定的な差異がある。

ウェイン産業応用科学部にてルーシャスと新たなテクノロジーを開発するブルース

4.と5.は人物にフォーカスするという点でより普通の映画批評に近いかもしれない。特に4. は非常に重要な問題であるが、本作ではそれが描かれていると思われるシーンが一見全く見当たらない。ノーランは一般に人物や、人物の感情を撮るのがあまりうまくないといわれる。私もこの点に関してはその意見に同意する。この映画は実は主人公であるブルースの心情をうまく描けていない。

6.は途中の分析でも触れたが、ジョーカーがなぜ人間の本音をあそこまで欲望する人間になったのかという問題に関する精神分析的な議論である。これはおそらく2019年公開のホアキン・フェニックスが演じた『ジョーカー』に描かれていることを使えばうまく批評できると思われる。私は実際公開当初に映画館で見た。一般に『ジョーカー』でのジョーカーと『ダークナイト』でのジョーカーの人物像は異なるとされる。果たして本当にそうだろうか?

以上の6つの論点をまとめて今後noteにアップするので楽しみにお待ちください!

***

終わりに

バットマン、つまりダークナイトおよびその仲間たちは、我々にその行為一つひとつでもって正義とはなんたるかを示してくれる。映画を一見すると、ジョーカーの思想には共感できる部分もなくはない。また、おそらく多くの人が考える「正義」はハービー・デントが描くような ”本当の” 正義なのではないだろうか?しかし『ダークナイト』はまた違った正義の姿、本音と建前の脱構築としての正義を描いている。

コロナ対策のあり方、ウクライナおよびイスラエル・ガザにおける戦争、台湾海峡を巡る状況に対し日本が取るべき行動、あるいは危機が叫ばれる民主主義の問題など、現代を生きる我々には実は「正義とは何か」という問いが過去にないほどに突きつけられてはいないだろうか。この、すでにヒーロー映画のベンチマーク、あるいは「古典」にすらなりつつある大傑作を今一度観てみることが、我々が正義について深く理解するための大きな助けになるかもしれない。

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参考にした本
東浩紀『存在論的、郵便的』
:論理的形式的で理系書に慣れてる人ならとっつきやすいとは思う。

高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』:こちらもアカデミックな書き振りだが、『存在論的、郵便的』よりは直感的。デリダの評伝が充実している。

千葉雅也『現代思想入門』:哲学を全く知らなくても、また普段あまり本を読まない人でも読める非常に稀有な現代思想の入門書。脱構築や哲学自体に全く触れたことがない人はまずはこれを読むといいと思われる。

以下はデリダ自身の著書。中期以降のものとは違い脱構築に関する理論的説明をとして読めるとされる初期の三部作 (私は読んではいない)。


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