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人の世に熱あれ、人間に光りあれ。
実は京都へ行ってきた。
「水平社創立100周年記集会」に参加するためだ。
色々と考えさせられた。
それはおいおい、様々な投稿や言動で発信していきたいと思っている。
人間には差別心がかならず誰しもある。
それを言動で表すということは、誰であろうが、老若男女時処諸縁関わらず恥ずべきことであり、慚愧すべきことであり、悲嘆すべきことだ。
だから、人間として生活していく以上、恥じ・慚愧し・悲嘆す
だから声をあげるのさ。
改憲だ!憲法九条を改正だ!
と、ここぞとばかりに叫びだした議員が出てきているようだ。
知っているところだと、隣の区の自民の議員とか。
そんなに武器を持てるのが、戦争に参加できるのが嬉しいのか?
だったらテメェが傭兵にでもなって、勝手に戦地に行ってこい!なんて、どうしてもこんな乱暴な言葉が頭に浮かんでしまう。
「戦争反対!」とか口にしても意味がない!とか言う文化人だか、知識人だか、有識者だか、オピ
対岸の火事ではないよね。
「もし」の話だけど、米軍がウクライナに救助活動で行くとなって、
「うちら、戦争じゃなくて救助活動で行くからさ、武器は持たないで手ぶらで。でもさ、万が一ってことがあっから、日本から武器持って後方支援できてね。でさでさ、もし、うちらが攻められそうになったら、おたくらが武器使ってうちらを守ってね。あ、あと、これまた万が一の上の万が一なんだけどさ、使うことがあるかもしれないから核ミサイル、うっとこの武器
どうだい?結局、自分ってサイコーなんだろ?
結果、「わからないということがわかっているわたし」「無知の知なわたし」ってのをわかっちゃている、誇っちゃっている。
誰よりもわかってしまっている自分がいる。
「しょせんわたしは」とか、「凡夫ですから」とか、他人にあからさまにこれみよがしに「自己否定」を開陳する人間は、だれよりも自意識が高く、傲慢で、自尊心バリバリだったりする。
そうした人間に、「そうですね、たしかにあなたは、しょせん〇〇です