クリストファー・ノーラン「オッペンハイマー」
人類は神の奇跡を起こせるが、人間は神になることはできない。ノーランはその常なる自明を証明し続けるのかもしれない。
苦しみ、悩み、出会い、人との繋がりが自らを新たなステージへと導き、地道に修練し、偶然が結果をもたらし、人々が集まり、目的に向かって走り、多くの仲間たちの意識の重なりが一人では生み出せない結果へと至る。
全ての符号が揃えば誰もが神になりえるはずだったのだ。その時その場のその位置にいるものならば。それゆえに誰も神にはなれない。神の域に達したものに追いすがり、その座から引きずり下ろし、新たな位置に着こうと合い争うものたちはまた神になろうともがく人間たちなのだ。
些細で尊大なプライドや、ふとしたきっかけの仲違いから別たれた、小さな人間たちなのだ。モンタージュの幻影師、クリストファー・ノーランは世界を変えてしまったと自惚れる尊大なる小さな人間ロバート・オッペンハイマーの記憶をかいつまむ思い出のファンタスマゴリアによって彼の「功績」を切り刻みながら「実像」をスクリーンに照射する。それはすなわち戦争を終わらせた英雄を等身大の人間へと戻し、世界を変えてしまったと苦悩する神を映画という誰もが見ることのできる丘へ磔にする所業である。
まさしくクリストファー・ノーランはこの三時間で何をするかを冒頭のプロメテウス神話の引用によってすべからく暴露している。
わかることは神などいないということだ。いるのは神を騙る人間だけである。そして人間は神に憧れ、神の真似事をし、神に成り代わろうと企み、神の十字架を背負い、神にはなれず、人間として弔われるということだけである。
そうであるからこそオッペンハイマーの指揮する神の領域へと踏み込むマンハッタン計画に直接関わらない人々こそがまるで神に啓示を与える預言者のごとく彼を正すのである。ボーア、トルーマン、そしてアインシュタインが。
それは神になろうとした男の業なのか。もちろん彼らの言葉がオッペンハイマーの心へと届くことはない。
しかし英雄たらんと振る舞ったオッペンハイマーの尊大さを彼と接したエゴイストたちほどよくわかっているのはなんとも皮肉なのだ。
妻はそのエゴをも愛そうとした。愛人ジーンが死んで、私が殺したとうなだれるオッペンハイマーを、罪人に同情しろというの?と叱咤するキティの愛は本物だ。
君の作った王国で私のできることは何もないよとさりげなくオッペンハイマーの奢りを正すボーア。
原爆を作り、無辜の民を虐殺したとうちひしがれるオッペンハイマーに、日本人が憎むのは私の名前だ、お前の名前など彼らは知らないと静かに罵声を投げかけるトルーマンの言葉は重い。
随所のエピソードがオッペンハイマーのエゴイズムを際立たせる。身近な友人を巻き込みたくなかったという独善的なエゴイズム、戦争を終わらせるための手段に集中しなければならないという目先のエゴイズム、自ら作った新兵器がもたらす軍拡競争を憂慮するエゴイズム、そしてなにより自らが世界に平和をもたらしたと背負ってみせる責任のエゴイズム。
オッペンハイマーのエゴこそが世界を変え、それゆえに関わった多くの人たちを傷つけてきたのだ。憧憬はやがて羨望に、そして容易に嫉妬へと変わる。嫉妬はいとも容易く憎悪へと至るだろう。
ストローズの仕組んだ聴聞会はまさしく神になろうとした男のエゴが引き起こした謀略である。
公衆の面前で恥をかかされたストローズ。
組合作りを止めるよう友人としての助言を聞き入れてもらえなかったローレンス。
原爆実験の優先のため水爆理論を却下されたテラー。
水爆開発の推進をオッペンハイマーの一存で却下されたボーデン。
オッペンハイマーの勝手さに意図せず傷つけられてきた人々のまた勝手な羞恥心が彼へ向けられる言葉として牙を向く。その一つ一つの証言こそがオッペンハイマーの記憶を切り刻むナイフとなっていくだろう。
彼の記憶のベールを切り裂いて見えてくるものこそが図らずも神になろうとしてしまった男の魂の所在なのだ。我々はそれを垣間見る。
善意もまたエゴである。彼はたしかに戦争を終わらせたかった。ナチスに虐殺されるユダヤ人たちを救いたかった。しかしそこに名声への欲望や自らの理論を証明するための渇望がなかったと言えるだろうか。あるいは原爆開発後、自らの築いた地位を追われることへの恐れはなかったか。
神としての責任を背負い、神として振る舞うことは、次の権威者である次の神を否定することに他ならない。しかし所詮、人間は人間なのだ。
あるいは神と崇めてきた人々の手によって神はまた人間にいつか戻される。まさしくアインシュタインが釘指すように。
頑なに自らを信じるエゴこそが自らを変え、そして世界さえも変える。エゴがなければ人は世界どころか自らさえも変えてはいけない。誰かのエゴが他の誰かのエゴと一致するとき、それは誰かの夢を他の誰かも見ているときだ。そのとき人々は人智を越えた奇跡を手にする。
しかし人のエゴはやがて誰かのエゴとすれ違う。誰も救われないし、誰も誰かを救わない。ゆえにこの世界には英雄など存在せず、まして神などいない。
ノーランはあくまでもリアリズムの作家だ。その手法はエキセントリックであっても、人間の生きるこの世界への眼差しはあくまでも冷たく、重い。
安易な救いは介在せず、神はサイコロを振らない。物事には因果があり、必ずその結果が作品世界の現実として現れる。
だからこそ人類は神の奇跡を起こせるが、人間は決して神にはなれないのだとノーランは描き続けるのだ。