駆け込み鑑賞。圧倒的没入。俺は「どのアメリカ人」でもないからこの作品を語る口を持たない。しかしもしこの映画を現在の政治・社会的文脈から解説しようとする自称批評家がいたらそいつの評は一切信用しない。これは命燃やすほどの知的好奇心に突き動かされる人間のためだけの芸術だ。
きっとまたここから歩き始められる。大人になっていく前の子どもたちの一冬の出会いと別れ、そして再会。 自分は何が得意なんだろう。自分は何が好きなんだろう。自分はどんな風になるんだろう。きっといろんな迷いやいろんな戸惑いが言えない言葉、見せない表情のなかにもたくさんたくさんあって、たぶんそれを言えないし、見せないのは、言ってしまえば、見せてしまえば、終わってしまうから。伸びやかに過ごしていた日々が、ただ憧れるだけでよかった時間が、うまくやれなくてもいい時代が、子どもでいられた季節
誰もが心のどこかで密かに燃え上がる炎を抱えているところに憎しみのガソリンを撒くものは悪だろうか。あるいは偶然の産物たる撃鉄が起こした火花が皆が心の奥で燻らせていた松明に着火したのだとしたらそれは悪だろうか。 他人を焼く炎は自らも焼くのかもしれない。無関心と無責任は対象にすらされないその対象を誰も見ないまま生きながらに焼く火だ。しかしその火は誰にも見えないゆえに(誰も見ないゆえに)、火を放った張本人たちへと帰ってきて、彼らをこそ焼くのだ。 誰もがあらゆる誰かを見ることなど不可能
三谷幸喜の笑いはいつだって甘い優しさに包まれた毒を持っているけれど、これはきっと優しい笑いの衣を内側から食い破るほど辛口の毒を持った致死量の劇物だ。 おそらくは、ちゃんとした「男」を生きてきた人たちにとってそうだし、ちゃんとした「女」を生きようとしてきた人たちにとってそうだ。 見方によっては、いや見方によらなくても、若くて活発で理解不能な少し頭の弱い家庭的な女を求めてきた男たちにとって(逆説的に成熟した活動的でとても優しい理知的で豪放な男らしさで生きてきた男たちにとって)、そ
まるでセラピーだ。ただひたすらに受け入れてくれる。 ジャン・ルノワールとタルコフスキーが出会ったようなありえなさは、ともに過ごす内にいつの間にか心を許してしまうような穏やかな眠気を寄越す静謐な多幸感に満ちている。 得体の知れない安心感に少しだけ不安な時が訪れるのは、見知らぬ闇の中で本当の孤独を知るときなのかも知れない。そのときばかりは自由の高揚感は薄れ、独りの虚無感に呆然としてしまう。 「ピクニック」と「ストーカー」が溶け合うということは、人は人に出会うことができるという幸福
死んだ微笑みで場を取り繕う河合優実がすったもんだの末、彼にだけ最後に見せる生きた笑顔を見逃してはいけない。きっとあらゆる姿をさらけ出してぶつかり合ってそれでも一緒にいられる誰かとのなんでもない時間に感謝する。 圧巻だ。まさしく現代的である。圧倒的な現代の生命感に溢れている。それは死んだように生きている名もなきライブ感。生の躍動のなか常に匂い立つ死の気配は冒頭ファーストシーンの会話から蠢いている。 彼女は何にでも関心を持つが、どれにも興味などない。他人のどうでもいい会話に耳をそ
みんな子供の頃は誰の目も気にせずに踊れていたんだよ。少しずつ成長して、背丈が伸びて、身体が大きくなって、関わる人が増えて、環境が変わって、いろんな気持ちが芽生えて、ちょっとずつちょっとずつ、自分の思ってる自分と、あるいは大切な人たちの想いと、ズレていってしまったと感じてるような人たちに、そんなあなたもあなたの「色」で輝いているんだよって、そっと手を差し伸べるような温もりが作品に溢れている。 いま、子供から大人になろうとしている子供たちへ。むかし、迷える子供だった大人たちへ。ま
全てをなぎ倒す映像圧をもって緩慢なく広がる欲望と暴力の淀み 深い泥沼にゆっくり足を浸けながら必死で足掻くような映画だ その沼では保身に走る愚か者とことなかれ主義者が義を尽くす者の足を引っ張る ファン・ジョンミンの暗いにたつきと怒りに震えるチョン・ウソン 制圧された夜に朝は来ない
走り出すことは生き始めること 描き始めることは溢れ出ること 誰のためでもない誰にも止められない衝動 藤野がいたから京本は走り始め 京本のおかげで藤野は走り出す 藤野が描かずとも京本は描き続けたし 京本が描かなくても藤野はまた描き始める アニメーションとは躍動し続ける生の讃歌なんだ
誰でもあるんじゃないかな?自分が自分じゃない自分に呑み込まれて変貌してしているとき。それに自分こそ気づけない日常という狂気。どこかで狂ったんじゃなくて常にどこか狂ってて、ふとした拍子に噴出することもあればかすかに移行しながら平静を保ってるだけかもしれない。チャイムとは合図だから。
途中からひたすら泣いてた気がする…悲しいんじゃなくて、傷つきながら生きてる人たちの慰みや強がり、絆に。あらゆる人のための良作にはなれないのかもしれないけど、優しさや誠実さゆえに人生をかけ違えてしまったような、少しだけねじれてしまった人たちには、心を解きほぐしてくれるような時間だ。
空想はもうひとつの現実。現実の意識は常に物語へと導かれていて、空想の扉は開かれるべき者に開かれている。 誘われるもの、挑むもの、逃げ込むもの、迷い込むもの、居座るもの、抗うもの、住まうもの、司るもの。世界から離れた先にも世界はあり、現実を越えた場所にも現実はある。そこに生きる人々がいる。生まれてしまったものたちがいる。 ある世界で人々は誰が始めたかもわからぬ戦禍に包まれ、簡単に命が、そこにある生活が奪われる。 ある現実は幼き少年から理不尽に母親を奪い、恵まれた都会生活を奪い、
人類は神の奇跡を起こせるが、人間は神になることはできない。ノーランはその常なる自明を証明し続けるのかもしれない。 苦しみ、悩み、出会い、人との繋がりが自らを新たなステージへと導き、地道に修練し、偶然が結果をもたらし、人々が集まり、目的に向かって走り、多くの仲間たちの意識の重なりが一人では生み出せない結果へと至る。 全ての符号が揃えば誰もが神になりえるはずだったのだ。その時その場のその位置にいるものならば。それゆえに誰も神にはなれない。神の域に達したものに追いすがり、その座から
カウリスマキの呼吸はタンゴの音感なんだなあ…それは日常からの脱出、今いる現実から抜け出して違う現実を生きる時間、しかしそれは生きていた現実が変わることを意味しない。楽しさの裏腹には悲しさがあり、逆もまた然り。誰かと過ごした時間が特別であるほど一人の時間はより増して孤独であるのだ…
大きく開かれた澄んだ黒い瞳の柴咲コウ。深淵を覗く目差し。虚無を称える眼。悲しみも憎しみもとうに過ぎた無情の相貌。パリの街中、アパルトマンの狭間の通りに漠然と立つ彼女から始まる物語。 行くでもなく、来るでもない。感情も人生もどこかなげうたれ途絶えた、そのどこにも行けない幽霊のような佇まいが、パソコンの画面越しに終わらない悪夢の終わりを見つけた彼女の放つ鋭い蛇の瞳に繋がる。 悲哀。憤怒。憎悪。絶望。そして虚無。そこにはもはや何もなく。何も生まれず。もしあったのだとしたら、それは画
舞う女たち。口説く男たち。彼らを尻目に憂いを帯びるドニ・ラヴァン。 計略の末に横たわる男。片手には銃。脈打つ血管。それは死の暗喩。 まるでそれまでの荒涼とした風景と打って変わり、誰もいないフロアで孤独な男が踊り出すとき、それは解放のリズム。そして死の舞踏だ。ありのまま一人で踊るダンスは報われない魂の悲痛なる叫びである。 叶わぬ現実に抑圧された心はピンポン玉のように悪意を弾き出す。その悪意は無垢なるものに降りかかる。人は愛に狂い、悪魔はささやく。そして悪には罰が訪れる。 だが、