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#マタイによる福音書
神はあなたを知っている (マタイ10:16-33, 詩編139:1-24)
◆迫害はあるのか
お開きする聖書箇所が、かなり長くなってしまいました。お詫び致します。聖書のひとつの言葉を、できるだけ周囲の記述の中で見つめたいと思いました。ごく一部だけを取り上げて、そこから自分の想像するままに意味を決めつけていきたくない、と思ったからです。
マタイ伝10章は、イエスが弟子たちを教育している場面のように見受けられます。いわゆる「十二使徒」を選出したことで有名ですが、初期の教
そのドキドキをそのままに (マタイ28:1-10, ヨハネ20:1-10)
◆復活祭から一番遠い時期に
今日は、二つの福音書から、復活の場面を通じて、命を与えられたいと願っています。この時期に復活というのは、何か違うのではないか、とお感じになる方もいらっしゃることでしょう。確かに復活というのは、春と相場が決まっています。春の祭りである過越祭のときに、イエスは十字架につけられ、復活しました。福音書の記述からするならば、それは間違いありません。いまの暦では3月から4月にかけ
我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ (マタイ6:12, ルカ11:4)
◆さばきとゆるし
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。(マタイ6:12)
「さあ、主の祈りです」と礼拝のプログラムで司会者に促され、皆一斉に同じ祈りの言葉を口にします。もう言い慣れてしまって、何の感動も、何の思い入れもなく、唱えているだけかもしれません。
私もその「スタイル」は分かります。でも、やっぱり、引っかかってほしいと思います。と
みこころの天に成るごとく地にも成させたまえ (マタイ6:10)
◆マタイ伝を基準に
御心が行われますように
天におけるように地の上にも。(マタイ6:10)
祈りの内容としては三つ目となります。ここで初めて、マタイ独自の祈りが現れます。ルカには、該当する言葉が全くないのです。
福音書は、時間差を置いて書かれた、と研究者は見ています。主の祈りは、ルカよりもマタイのほうが明らかに長くなっています。普通、最初にルカの福音書ができて、その後にマタイができた
天にましますわれらの父よ (マタイ6:9, ルカ11:2)
◆呼びかけ
「主の祈り」を、少しずつ受け止めてゆくことにしています。今日はその初めで、最初の行だけに注目します。
天におられる私たちの父よ(マタイ6:9)
父よ (ルカ11:2)
ルカ伝はとてもシンプルです。この一言に、マタイ伝の言いたかったことも凝縮されているのでしょうか。いまはマタイ伝のほうを検討することにします。
日本語だとこうなっていますが、原語は語の並ぶ順序が異なります
主「の」祈り (マタイ6:5-9, ルカ11:1)
◆主の祈り
イエスが直々に「祈り」について教えてくれたことがあります。これを教会では「主の祈り」と呼んでいます。来週から、その祈りの言葉の一つひとつを、ゆっくりと噛みしめて聴きたいと願います。今日は、「主の祈り」全般について、それを受け取るスタンスを確認してみようと考えています。
「主の祈り」は、マタイ伝6章とルカ伝11章にあります。イエスが教えた祈りであり、同じもののようにも見えますが、や
祈りの道へ (マタイ6:5-8, 列王記上8:22-53)
◆無駄な祈りなのか
(これは架空の話です)旅客機が消息を絶った。どうやらあの人が、その便に乗っている。ああ、大変だ。そのとき、きっとひとは祈るでしょう。「どうか無事でありますように。」
続報が入る。飛行機は墜落したらしい。ああ、もう胸が引き裂かれそうだ。それでも、ひとは祈るでしょう。「どうか無事でありますように。」
1985年8月12日の日航機事故は、一機としては世界最大の航空機事故とな