神はあなたを知っている (マタイ10:16-33, 詩編139:1-24)
◆迫害はあるのか
お開きする聖書箇所が、かなり長くなってしまいました。お詫び致します。聖書のひとつの言葉を、できるだけ周囲の記述の中で見つめたいと思いました。ごく一部だけを取り上げて、そこから自分の想像するままに意味を決めつけていきたくない、と思ったからです。
マタイ伝10章は、イエスが弟子たちを教育している場面のように見受けられます。いわゆる「十二使徒」を選出したことで有名ですが、初期の教会でも、彼らは教会の中心として大きな影響力をもっていたことでしょう。イエスは早速十二人を、イスラエル各地に派遣します。そのため、伝道の心構えを教えているのが、この辺りです。このことは、初期の教会においても、重要な教育資料だったものと思われます。
まずは、何を伝えるのか。それから、話を聞いてもらえなかったときの対応。そして今回見て戴いたのは、「伝道したことで被る暴力や迫害についての心がけ」についてのレクチャーです。実害を受けたとき、どう対処し、どう考えればよいのでしょうか。
これを当面「迫害」と称することにします。迫害は、いまの時代でも、ないわけではありません。他国では、周囲がすべて敵で、伝道でもしようものならしょっ引かれて拷問か死罪が待っている、という場合だってあるのです。
いま日本では迫害といものはあるのでしょうか。田舎だと少し変人と見られたり、特殊な環境で白眼視や村八分の目に遭ったりすることはあるかもしれません。表に出てこない中で、差別扱いを受けることも可能性としてはあります。しかしおおっぴらに差別はできないのが社会の建前ならば、「勝手に信じとれ」と突き放すような程度に留まるでしょうか。仮に伝道しようとしたとしても、こわばった顔をして、暖簾に腕押しとなるのが関の山かも。
しかし、歴史上日本では、命懸けのことがあったわけです。雲仙での拷問については、現地の人の話から少し調べてみたことがありますが、筆舌に尽くしがたいものがありました。ここでも敢えて申しません。島原での出来事は、マサダ砦の出来事に、匹敵するなどと安易なことを言うと、ユダヤ人の歴史を理解していないことになるでしょうか。
酷い歴史はありました。しかし、いま私たちの周辺では、それほどのことはありません。信教の自由を基盤とする社会は、迫害をする自由が認められていないからです。そうすると、あの政治家を操ろうとし、詐欺行為と言ってよいことで金や財産を巻き上げていったあの宗教集団についても、信教の自由だ、と勘違いしている一般人が実際いますから、よく事情を知らないということは怖いことだ、と思います。
しかし、迫害がないのであれば、自分は教会に行っている、ということくらい、もっと気軽にどんどん言えればよいのですが、さて、あなたは如何ですか。新約聖書が書かれた時代、迫害まではなかったかもしれませんが、命懸けで信仰した先人たちの記したものに、私たちはいま向き合おうとしています。
◆神に知られている
新約聖書のマタイ伝に注目する前に、詩編139編を一度噛みしめておきましょう。というのは、あのマタイ伝10章の中の、次の言葉が気になったからです。
30:あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
31:だから、恐れることはない。
神は私を知り尽くしている。だから安心せよ。そういうメッセージです。このとき私は、詩編139編を思い起こしました。そういう方は、他にもいるだろうと思います。
1:指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。/主よ、あなたは私を調べ/私を知っておられる。
2:あなたは座るのも立つのも知り/遠くから私の思いを理解される。
3:旅するのも休むのもあなたは見通し/私の道を知り尽くしておられる。
4:私の舌に言葉が上る前に/主よ、あなたは何もかも知っておられる。
ダビデの詩だといいますが、私が何かをしようにも、神はすべてご存じだ、と言っています。そこで、時には神の目を隠れていたい、と思う気持ちも分かります。ちょっと目を瞑っていてください、と神に言いたくなることは、あなたにはありませんか。
7:どこに行けば、あなたの霊から離れられよう。/どこに逃れれば、御顔を避けられよう。
8:天に登ろうとも、あなたはそこにおられ/陰府に身を横たえようとも/あなたはそこにおられます。
しかしそんな勝手な思いは認められません。なにしろ私はつい何十年か前に生まれた身。神はその遥か以前からいるお方です。私が生まれる前から、私が生まれることをすべて知っていても当然なのです。
15:私が秘められた所で造られ/地の底で織りなされたとき/あなたには私の骨も隠されてはいなかった。
16:胎児の私をあなたの目は見ていた。/すべてはあなたの書に記されている/形づくられた日々の/まだその一日も始まらないうちから。
もちろん、ダビデはただそうしたことを歌いたかったわけではありません。ダビデは悩んでいるのです。敵にやられそうで、怖いのです。だから、苦しみ悩んでいるこの私のことをも、神はきっと知っていてくださる、ということで、安心したいのです。神に知られている、ということを信じて、平安が与えられたいのです。
23:神よ、私を調べ、私の心を知ってください。/私を試し、悩みを知ってください。
24:御覧ください/私の内に偶像崇拝の道があるかどうかを。/とこしえの道に私を導いてください。
イエスが与えようとした平安も、この路線につながるのではないか、という気がしてなりません。もちろん、ダビデは神に願い、あるいは神を信じます、という次元で歌っているのですが、イエスは、その逆の立場から、つまり神の側から、これを告げていることになります。
◆雀のように
30:あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
31:だから、恐れることはない。
マタイ伝10章のこの力強い言葉は、どこから零れてきたのでしょう。この直前には、雀の話が出てきます。
28:体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
29:二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
30:あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
弟子たちを迫害の最中に送り出すための教育的配慮がこの場面だ、と最初に確認しました。当然、恐怖心が伴います。営業に走る人も、嫌われている顧客のところに出向くのは、相当勇気が必要なのではないでしょうか。
神と違って、霊的なところまで殺すような権威も力もない者たちを恐れる必要はない。神を恐れよ。――このメッセージは、理解できます。しかし、次に出てきた「雀」とは何でしょうか。ここに、私たちは今日、しばらく留まってみたいと考えています。
でも、この「雀」は、信徒にはけっこう有名で、人気があります。賛美の歌もあります。そして、この弱い雀の中に、自分自身を見るような思いをもつ、とも言われます。
雀は、当地では安い肉の代表のように見られていたと思われます。いま日本は物価高に喘いでいますが、たとえば鶏肉は、牛や豚に比べると手に入りやすいと言えるでしょう。もちろんブランド品などを挙げればキリがありませんが、私の学生時代は、極めて安かった鶏皮をよく買ってきて、醤油とみりんで煮込んでいました。数日はそれで暮らしてゆけます。
私たちは、動物たちの命を戴いて生きています。あの肉が美味しい、拙い、などと平気で口にする場合がありますが、それぞれ元は生きていた命です。感情を注げばペットとして人の相手をしていた可能性すらある動物を殺して、食べているのです。命を戴いている感謝をすら忘れていると、いつかしっぺ返しを食らうかもしれない、と危惧しています。
雀は、そんな蔑ろにされる命の代表例なのでしょう。それでも、その一羽でさえ、神の許しがなければ、地に落ちることはないのだ、とイエスは言いました。地に落とすのが目的ではないと思われます。神は一人ひとり、小さな命に至るまで、見て知っている、ということを教えているのだ、と理解できます。
小さな、無視されがちな命であっても、神とのつながりがある。神と結びつくものがある仲で、この世での命を全うする。だから、神を信じる人間もまた、神との絆がある――ということを、聞く者は感じ取ったのではないでしょうか。雀の命がこの世で尽きるときにも、神との関係がある、そういうところが問われている気がしてなりません。
◆聖書解釈
29:二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
ところが、ここの日本語訳は誤訳である、と指摘する声があります。「許し」という語は原文にはない、というのです。確かに、ギリシア語本文にはありません。これは「神なしに」としか言っていないのだから、訳はおかしく、違う意味になってしまっている、と指摘して言うのです。
けれども、原文にない語句を補ったからと言って、直ちに誤訳だ、という公式はないでしょう。その文化では言わずもがな、と思われて略されている言葉は、別の文化からすれば、補わないと、理解されなかったり、誤解されたりすることがあるからです。
日本人は、拝む動作を「手を合わせる」と表現します。しかし、それをそのまま英語に訳すと、「幸せなら手を叩こう」のようなイメージになってしまうかもしれません。物に向かって拝むことは、基本的に考えないのではないでしょうか。「祈りのために」ような語句を補うことで、誤解を防ぐことができると思われます。
「神なしに」というような表現は、いったいどう認識されていたのでしょうか。「神が存在しなくても」の意味かもしれません。「偶々そのとき神がそばにいなかったら」というニュアンスで使われることもあるでしょうか。
「あなたなしには生きてゆけない」というような歌詞がありますが、「あなたが死んだら」と思いこむのは、オーバーでしょう。普通の恋愛の歌であれば、あなたが死ぬことを意味はしません。また、友だちとして、会社の同僚として、そばで姿が見える情況も想定可能です。あなたがたとえそぱにいても、あなたが自分の恋人でなければ、というのが通常の意味です。これは、「あなたとの関係がなくなってしまったら」の感覚で受け取れる表現ではないかと思うのです。
それは言葉の上での素直な意味だと思います。雀の場合は、雀の命が尽きるときも、「神とは無関係ではない」のニュアンスで受け取れるような気がします。それは、雀が死んだのは自然法則で生き物の定めだ、生物学的に寿命がきたのだ、という片付け方をするものではない、という意味です。神との関係がそこにあるのだ。神の目に留る中で、神の力の内で、この世での命が全うされた出来事なのだ、と受け止めることが、信仰者ならばできるのではないでしょうか。
このことを伝えるために、もしかするとやや勇み足であったかもしれませんが、「許し」という語を入れて、「お許しがなければ」と訳されたのであれば、気持ちは分かる気がします。やや意味合いが限定的になるかもしれませんが、神との結びつきへの眼差しを伝える補足としての役割は、果たせているように見えます。
聖書を文献として見て、語学的に解釈するというのは、聖書研究家の大切な仕事です。ただ、聖書のギリシア語はやや複雑な事情があります。ユダヤ文化は、当時支配していた文化の言語であるギリシア語により、ユダヤの聖書も読んでいたし、このように新約聖書はギリシア語を用いて遺されました。明治期から知的な文書の一部が、外国語で著されたことがあった例を、私は思い浮かべます。内村鑑三、新渡戸稲造、鈴木大拙といった面々は、英語やドイツ語を駆使していました。しかし、日本語の文化や考え方を、感情や心情においてそれで完全に伝えられているかどうか、疑問に思わないでしょうか。完全には難しいのではないでしょうか。
聖書のギリシア語を、いま分かっている限りの文法的知識だけで解釈することが絶対とは言えないでしょう。実際、ギリシア語を用いながら、イスラエル文化の表現をとっていると思しき事例は、聖書の中にも多々あるそうです。日本人が英語を学んで英語で文章を書くと、日本人らしい間違いや癖が恐らく現れるのと同様です。ギリシア語を調べて教えてくれる学者の方々には十分敬意を表しますが、そのギリシア語からの解釈がすべてだというわけでもないことは確かでしょう。
◆神を殺す
「あなたがたの父のお許しがなければ」というところが、「あなたがたの父がなければ」という言い回しであることは、本当です。しかしここから、ある人はユニークな想像をもたらします。「雀は神なしには落ちない」という意味合いを、亡くなった人と共に神も落ちている、というふうに思い描くのです。
たとえば、東日本大震災で、私たちは、津波で流された家や人を見ました。その人は、「神なしには落ちない」というこのところから、神もまた、あの津波で共に流されたのだ、と説教の中で説明するわけです。まるで、それが慰めというものであるかのように……。それは、たとえいまも被災者と共に神はいる、と付け加えたにしても、そこにはその人の限定的な理解しかないと言わざるを得ないでしょう。
その人が個人的にそう感じていることについては、口を挟むつもりはありません。しかし、私はそんなメッセージは決して発しません。聖書に書いてもいないのに、瓦礫と共に流されるような神の姿を、わざわざひとに語ろうとは思いません。私から見れば、それは「神を殺す」ようなことに思えて仕方がないからです。
確かに人間は、神を殺した。イエスを十字架につけた。否、この私が殺した。私が、「十字架につけろ」と叫ぶ怒号の中の一人だったことは間違いありません。私の信仰は、そこからスタートしたのです。信仰の中で私は確かにイエスを殺しました。十字架につけろと叫んだ自分が分かったから、私は罪を知り、神の救いを知ったのでした。
ただ、こうして死んだイエスは、蘇りました。復活がありました。人には、そこから命がもたらされました。私がイエスを十字架につけた、という歴とした「関係」があったからこそ、イエスの復活は、私に関係づけられるものとなったのです。
被災者と神は共に流されたのですよ。そう伝えるところには、語る人と神との関係はありません。傍観しているだけです。そして、その人の口からは、復活のキリストの栄光ということは、出てくることがないのです。
人間が神を殺した、そしてそのままでいるだけ。私は、そのように受け取られるようなメッセージは、決して語りません。
◆神は死んだのか
19世紀の最後の年に死んだ哲学者ニーチェは、「神は死んだ」と言ったことでよく知られています。奇しくもそれは、ヨーロッパのその後の精神史を予言するような形で遺ります。ニーチェ自身はそこに留まることなく、むしろそこから始まった自身の思想を打ち立ててゆくのですが、不幸にして精神に異常を来して亡くなります。
このニーチェは、牧師の息子でした。聖書や神学を実に優れた才能によって研究した天才でした。大学で古典文献学にのめりこんでいく中で、信仰を放棄するようになってゆきます。ニヒリズムの宣言とも理解できる、この「神は死んだ」という言葉ですが、私は先ほど、自分が神を殺したのだ、という意識を強くもったことをお伝えしました。それはニーチェとは全く違う形で自分の問題としたのでした。
つまりは、信仰の出来事であったわけです。自分と神との関係の中での出来事だったのです。このとき私には、「神なしに」という出来事がありえなくなりました。「私と神との関係なしに」私に出来事が起こることが、なくなってしまったのです。
不慮の災害により、命が奪われる。悲しいことです。想像するだけでたまらない気持ちになります。でも当人やその家族にとっては、厳しい現実です。その家族に対して、「神が一緒に流されたのですから」というような言葉を、私はかけることができません。慰めに思う人がいないとも限りませんが、やはりできません。それは傍観者にとっての福音ではあっても、当事者には辛い宣言になるのではないか、と推測するからです。
少なくとも、そこに「希望」があるのかどうかは疑問です。死者と一緒に神がつきあってくれた、というメッセージのどこにも、私は「希望」を見出せません。まるで、「イエスは十字架で死にました。終わり」と聖書を結ぶようなものに私には聞こえます。聖書からの説教は、「希望」をもたらすものでありたいと私は願います。
「神は死んだ」、そう、確かに神は死んだのです。人間が殺しました。私が殺しました。でも、それで終わりはしませんでした。復活させられました。神はいまも生きています。復活した、生ける神が、あなたを生かす言葉を以て、いまここに来てくださいます。
命をもたらす希望を信じる光を、それは投げかけます。そうでなくて、「福音」はありえない、と私は伝えたいのです。
◆生ける神を証しする
一羽のすずめに 目を注ぎ給う
主はわれさえも 支え給うなり、
多くの人が愛唱する賛美歌「心くじけて」は、この一羽の雀のことを歌っています。自分を守ってくださる神を歌うことで、慰めに満ちたよい賛美歌です。このとき、歌う信徒は、雀の中に自分を見ていることと思います。
その雀にとって、自分が地に落ちたとき、自分の横に一緒に落ちてイエスが死んでいる様子を見るようなことがあったとしたら、うれしいでしょうか。私はそれだけならありがたくないような気がするのですが。それよりも、自分の死が、イエスに見られていて、イエスの掌の上の出来事であり、イエスの愛に自分が包まれているほうが安心です。そして、それが復活のイエスであり、永遠の命の約束が共にあることのほうが、ずっと「恵み」であり、「救い」であるように思えてなりません。
私たちが死してもなお、神が共にいる。それは死が最終段階ではなく、命が続いているからである――そうした確信は、自分が罪に死に、だが神に赦され、そして復活のイエスと共に復活させられる、という出来事の中に置かれる場面にこそ、与えられるものです。
ところで、私たちは初めに、「迫害」というものが現実にないような環境のことを思いました。もうあまり追及はしませんが、もしかするといまの時代は、教会や牧師といったものが、信徒を迫害しているような話を見聞きすることがあります。信徒の側の誤解もあるかもしれませんが、そう思わせただけでも、そこには愛がなかった、ということになるかもしれません。
せっかく素直な信仰を与えられた信徒が、教会に来た中で、「聖書など信じてはならない」とか「復活はない」とか聞くことが、現にあります。教会にまで来てそんなことを告げられるのは、現代における「迫害」と呼んで差し支えないように思えます。
そうやって傷ついた方々に、このメッセージの言葉が届けば、と願っています。あなたは神に知られています。雀は、神に包まれていたのです。私たちも雀のように、いつか落ちることになることが推察できます。けれども、神は共にいます。共に死んでくださる、というのではなく、起き上がらせてくださる、生ける神です。イエス・キリストは復活されたのです。聖書は私たちに、希望を与えてくれる、神の言葉なのです。
だから、この神を証ししましょう。そのための励ましを、私はこうして担いたいと願っているのです。