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休むヒント (エレミヤ17:19-27, マタイ11:28-30)

◆休むヒント

『群像』という文芸誌を講談社が出しています。その編集部が、雑誌に連載したシリーズをまとめた、ある本が今年の4月に発行されました。『休むヒント。』といいます。「休む」ということをテーマに、依頼された作家や著名人が綴ったエッセイがまとめられています。
 
一人ひとり、自由に「休む」という言葉から思うことを書いています。さすが文筆家とあって、その体験談が生き生きと語られ、読み応えがあります。
 
「眠ることは死ぬことと似ている。休むこともまた、そうなのだろう」というように、少し重い空気から始まりますが、「生命力を維持するために、わたしたちにも脱走が必要だと思う」と、キリリとした視線を感じるものを見ると、元気が与えられるような気がします。
 
「休むためには『なにかしないと』から逃れないといけない」と自らに戒めるような人もいれば、「休みがないことが精神の平安をもたらしている」と、威勢のいい人もいます。中には、「生活と地続きの職業」だという人がいて、「休みと仕事と分けることが難しい」立場の人もいました。
 
また、「資本主義に飼い馴らされた私たちは、休みに対して罪悪感を抱いて当然なのだ」と、社会的背景を自分の意識に結びつける人もいました。「自分はいま忙しくしているというただそれだけの理由で、何かをしているものと思いこんでしまう」のも人間の性だというのでしょうか。でも、休みは「人間らしさを取り戻すこと」だとの理解はとてもまともですし、さあ「体から力を抜いて、心から気を抜く」ようにしましょう、と「心」の休息を提言するのも、魅力的でした。
 
しかし、私も同意見なのですが、「休む」というのは、「遊ぶ」と同じ意味なのか、と疑問を発する人もいました。さらに、その「遊ぶ」の対義語が「働く」なのか、という問いも呈していました。そう、「休む」のはいわゆる「仕事」の反対だ、と私たちは安易に思いこんでいなかったでしょうか。
 

◆仕事の反対

「仕事」をしていないのが「休み」だ。暗黙の前提になっていないか、振り返ってみましょう。だとすると、その「仕事」とは何なのでしょうか。子どもですら労働力のひとつでしかない社会もあったし、いまのように労働というものが時間に制約されていなかった時代もありました。時間給などという概念は、至って近代的なものなのだそうです。
 
「仕事」から解放されたときが「休み」というよいものであるならば、「仕事」とは、自分を束縛するものであり、自分の好まないものであるように聞こえます。他方、楽しんで仕事をしている人もいるでしょう。時間規定とは関係なく、自分の生き甲斐として仕事をやり抜く人もいるわけです。あるいは、「自己実現」として「仕事」にあたる人もいるでしょう。仕事こそ人生だ、と。
 
企業は、本音としては、そういう人間を求めているのでしょう。入社試験でよく書かせる作文の題として、「仕事と自分」をテーマとするものが多いのも、そういうことではないでしょうか。実は私もそれを書かされました。
 
「仕事」についてはもう少しまた検討することとして、いま私たちは「休み」という考えに向き合っています。「休み」という言葉を聞いて自然に思い浮かぶのは、多くの人にとって、「仕事」をしていないときのことだと思われる、そのように私たちは考えたのでした。
 
それは、何かしら「拘束」から解放されることを想定しているようにも見えます。「解放される」ということは、西洋の言葉では「自由」ということにもなります。自由に自分の好きなことができる。それを私たちは、「休み」と理解することが多いのです。自分の好きなように時間を使う。趣味に使う。ただ寝る。家族とどこかに行く。様々なスタイルがあります。
 
その意味では、「仕事」には「家事」も当然含まれるべきです。毎日毎日、食事の支度、掃除、洗濯、といったことを繰り返している人、それはしばしば女性に偏っているわけですが、それから解放されたら、やはり「休む」と呼んで然るべきなのでしょう。すると、「仕事」は何かしら報酬を得る手段、というように限定されないことになるわけです。
 

◆曖昧な境界

「仕事」と聞くと、「金銭を得る方法」という捉え方に直結するのが常識のようになっていたかもしれません。しかし家事のように、金を得るわけではない作業のために労苦をしなければならず、時間を奪われ、自分の好きなことができないように縛られるときも、ひとつの「仕事」と捉えることが自然であるように思われます。時折、家事は給与にするといくらだろうか、と計算する報告がありますが、私はそんな数字に置き換えないでよいのではないか、という気持ちです。
 
報酬という代価を受けるわけでもないのに、ずいぶんな労苦を捧げ、時間を費やす。しかもそれは、自分の趣味であるとまではいえず、自分が自由に選んだものではない、というようなことがあるかもしれません。果たしていまこうして文章を綴っている私は、もちろん報酬のためではありませんが、のんびり自由に過ごしている感覚はありません。趣味かもしれません。自己実現のひとつなのかもしれません。が、拘束感がない、と言えば嘘になりそうな気もします。使命感は、あるのでしょうけれども。
 
文章が人目に触れるような形で誰でも公開できる時代になっています。その文章の公開を有料かして、報酬を得ている人もいます。YouTuberにしても、無料で見てもらっているとしても、そこで広告料を得ているならば、それは報酬的な「仕事」になるのでしょうか。TwitterがXなるものに変わったとき、報酬制度が強く現れ、そのためにそれを稼ごうとしてデマを拡散する動きが目立ってきたような気がします。いわゆる「闇バイト」の問題も、それと比較できるかもしれません。
 
事の善悪を考えない、あるいは考えないようになった人は、果たして特殊なのか。かつてのナチスのメンバーが、極悪人ではなく「凡庸」であったことを暴いたハンナ・アーレントは、最初は世界から袋叩きに遭いました。そんなはずはない、と。しかし、ドイツだけではありませんが、国民がこぞって、「敵を殺せ」の精神で染まってゆくのを、私たちは歴史で見ています。いえ、私の目から見れば、いまもなお、その精神が社会の空気となっているように思えて仕方がありません。
 
ところで、いまの私の文章を書くという作業は、「休み」の中で書いていると言えるのでしょうか。それとも、その文章を書くのを止めたときが、「休み」であるのでしょうか。あなたが自由に「休み」の中でやっていることは、間違いなく「休み」なのでしょうか。それとも、そのやっていることを止めたときこそが、「休み」なのでしょうか。
 
「休み」の概念をどう規定するかによって、同じことをしていても、それが「仕事」と見なされることもあるし、「休み」にもカウントされることがあり得るような気がします。ある意味でそれは矛盾です。そこまで言わなくても、「仕事」と「休み」の境界線は、いくらかぼやけています。区別が曖昧になる可能性があるように思えるのです。
 

◆仕事とは何か

ずばり『仕事』というタイトルの本があります。今村仁司氏の本で、1988年の出版なのですが、最近手に取りやすい文庫の形で世に出ています。学ぶところの多い本でした。先ほど触れました、労働観の違いが古代や中世にはあった、ということも、ここから知りました。「仕事」を「労働」という観点から捉えていますが、やはりそれを考えるとき、ウェーバーが指摘した、プロテスタンティズムの影響は、近代において非常に大きなものだったようです。近代の労働観の考察は、私たちが思いこんでいる「常識」への反省を促すものでした。
 
『休むヒント。』に登場した作家の中には、非常に忙しい執筆時間があることを述べた後、実際に執筆していない自由な時間のときにも、実は執筆の内容を考えていたり、そのヒントを得たりすることがあるため、それも「仕事」の一部のように思う、と漏らしている人がいました。もちろん、取材しているというのでもなしに、多分に「休み」のときにも、その時間は「仕事」に含まれるとしか考えられないことがある、というわけです。
 
作家として作品を出していながらも、普通に会社勤めをしている人もいました。仕事に出る前の朝方に執筆し、会社の休日である土日は一日中執筆している、といいます。この人には、「休み」というものがないかのようにも見えます。
 
中には「仕事」をしていても、本人は休んでいるような感覚でいることがあるかもしれません。逆に、世間的には「休んでいる」と見られていても、当人は「仕事」だという意識で何かしている、ということがあるかもしれません。その人の意識が、外見と異なるということも、あろうかと思います。
 
私たちは、どうにもこの「休む」ということの対立概念として、「仕事」を置かなければ発想できないようです。それらが本当に対立するにせよ、または人によっては融合して混ざり合っている場合があるにせよ、やはり「休む」ことは「仕事」と対比してこそ、捉えることができるのだ、と誰もが前提しているように見えます。
 

◆安息日

十戒を連続して共にお読みしていったとき、その4番目に、「安息日を覚えて、これを聖別しなさい」(出エジプト20:9,申命記5:12参照)というものがありました。2月18日に、これについてメッセージをお届けしました。教会にとり安息日とは何かを問うものでありました。特に、平日にへとへとに疲れている信徒が、やっとの「休み」である日曜日に、教会の「奉仕」のために一日働くことが奴隷のように強いられることでよいのかどうか、考えてみようと思いました。中には、それを若い人に強いて、事情を説明してもそれは逃れられないと迫り、教会から去らせてしまうようなことをした教会もありました。
 
今回は、それとは違った形で、この「休み」というものにアプローチしています。当然、聖書から神が呼びかけてくるのは、この「安息日」という呼び方です。この安息日について神が告げることで、実に厳しいものがあると思うのです。エレミヤ書17:21です。まず、比較的新しい3つの訳でお読みします。
 
主はこう言われる。あなたがたは決して、安息日に荷物を運ばないように気をつけなさい。また、それをエルサレムの門の内に持ち込まないようにしなさい。(聖書協会共同訳)
 
主はこう言われる。あなたたちは、慎んで、安息日に荷を運ばないようにしなさい。エルサレムのどの門からも持ち込んではならない。(新共同訳)
 
主はこう言われる。あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門の内に持ち込むな。(新改訳2017)
 
なるほど、エルサレムの町は、安息日に荷物を運ぶことがよろしくないのか。その程度のことのように聞こえます。ところがそのひとつ前の、「口語訳聖書」ではこうなっているのです。
 
主はこう言われる、命が惜しいならば気をつけるがよい。安息日に荷をたずさえ、またはそれを持ってエルサレムの門にはいってはならない。(口語訳)
 
「命が惜しいならば気をつけるがよい」という訳は独特です。どこからこのような訳語になったのか、私はよく知りません。ただ、少し調べてみると、英語の一部の訳(Revised Standard Version)に、「自分の命のために気をつけよ」という表現が使われていました。口語訳はかなり英語訳を参考にしていたと言われていますから、当時の権威ある英訳をうまく使った可能性はあろうかと思います。この英語の訳は、最近の新しい英訳にも受け継がれていますから、英語の聖書を使う人も、「あなたの命のために」という感覚で読んでいる人が、少なからずいると思われます。
 

◆キリスト者と安息日

安息日の根拠は、十戒にあります。出エジプト記の十戒では、天地創造の神の休みを根拠として、申命記の十戒では、エジプトを脱出したことを思い起こすように促すものとなっています。しかしいずれにしても、「仕事」をしてはならない日だといいます。
 
ところが神自身は、何が仕事であり、何が仕事でないか、を必ずしも明確にしているようには見えません。生活の上での細かな規定は、聖書とは別に編纂されている、ミシュナというような口伝律法の中で決められており、生活規範としてそのまま用いることができるようになっています。イエスの時代のファリサイ派の人などは、この規定に従って生活することを旨とし、それを守ることがステイタスであり、信仰生活だと考えていたと思われます。
 
その安息日規定に従っていないことは、違犯であり、神の命令に背くことと考えられます。ところが庶民は、必ずしもその通り守り生活することはできないことがあります。それを、エリートたちは、律法を守れない哀れな者たちだと蔑むような空気が、福音書から感じられます。
 
イエスは、人がつくった規定よりも、神の思いというものを大切にした、と考えられます。人間が、「仕事」か「休み」か、という形で区別したにしても、掟としてあれやこれやの行為が決められるものではない、としたのです。病を癒やしたことが「仕事」になり、安息日にしてはならない、ということで攻撃されたのがイエスでした。もちろん、これにはイエスは徹底抗戦の構えを見せます。イエスは、神の意に反する「仕事」だと、そうした癒やしを見てはいなかったわけです。
 
たとえ「仕事」と見られても仕方のないようなことをしていても、本人は「休み」のように感じることがある。あの『休むヒント。』には、そうした受け止め方をする人もいました。イエスがそれと同じかどうかは決めつけませんが、そもそも神の愛というものは、どんな「仕事」も安らぎの中にあることを知らせることができたのではないか、とも思えます。
 
ここでふと気づかされます。あの『休むヒント。』の本に文章を寄せていた、多くの作家や著名人たちのうち、誰ひとりとして、「安息日」という考え方に触れた人はいませんでした。キリスト者が少ないという事情を加味しても、世界を枠として「休むヒント」について考えてもらったとしたら、誰かがきっと「安息日」を話題にしただろう、と私は予想するのですが、日本の雑誌で「休む」をテーマに文章を募ったとき、「安息日」を頭に思い浮かべた人が、全くいなかったわけです。
 
安息日に、キリスト者は礼拝をします。よく「礼拝を守る」という言い方も聞かせます。ある意味で奇妙な言い方です。ただそれは、世間での「仕事」に背を向ける考え方を思い起こさせるような気もします。「仕事」の束縛や支配から、キリスト者の信仰は、守られるわけです。
 
その礼拝とは、何をする場なのでしょうか。「礼拝」という言葉そのものは「奉仕」のような意味を含みますから、なんだか人から神への奉仕のような方向だけがそこにある、と考えてしまう人がいるかもしれません。でも、元々神が人のために御子を送り、救いの道を拓いたのです。実際、礼拝のプログラムは、神と人との間の豊かな交わりが演出されるように組んであります。神の言葉が語られ、人が神に祈り、また賛美します。こうしたことが交互になされる、というのが伝統的な礼拝のプログラムとなっています。
 
それは「仕事」ではありません。報酬の問題ではないし、束縛されてするものでもありません。人は自由に神を礼拝します。救われた感謝を心に、神を見上げます。言葉を通して、神と交わります。それは「休み」の中でこそ、なされることであるのでしょう。勤務のない休日、という意味ではありません。人が自由に自分の魂で選び果たす、礼拝行為がそこにあります。神との交わりが、そこにあるのです。
 
つまり、「神と交わること」が「休む」ということなのです。電車の中でも、何かしら業務にあたっていても、もしいま自分が神と交わっているのだ、という信仰の内に魂があるのならば、それは安息日を成立させている、と言ってもよいことがあるのではないか。そう私は思っています。
 

◆神との交わり

この時間、仕事をしていたら金が得られるのに。そんな気持ちで礼拝の場にいたら、どうでしょうか。それは全く、安息日に値しないことになるでしょう。神と共にいない魂には、安息が与えられません。
 
「汚れた霊は、人から出て行くと、休む場所を求めて水のない所をうろつくが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。帰ってみると、掃除をして、飾り付けがしてあった。そこで、出かけて行き、自分より悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」(ルカ11:24-26)
 
不思議なたとえ話なのですが、汚れた霊は「休む」場所が見つからず、元の場所に戻ります。そこはきれいに片付けられていました。これで喜んで、他の悪い霊たちまでも誘い入れた、という話です。不気味な話です。神を信じて心が清くなった、と喜ぶ信徒への警告になる場合もあります。悪魔はそこを狙うのです。自分は信じている、と信じていても、そこに罠が待ち構えているかもしれないのです。ファリサイ派の人々などは、そうした類いなのだ、とイエスは考えていたのかもしれません。
 
汚れた霊と私たちとを一緒にする、ということはイエスはなさらないだろうと思います。しかし、悪霊でさえ、「休む場所」を探すのだ、ということは少し面白い気がします。私たちも、「休む場所」がほしいことがあります。「休む場所」を、私たちは見だしているでしょうか。安易に、気持ちの良い場所を見つけて喜んでいると、痛い目に遭うことは、私たちは人生経験の内で、知っているのではないでしょうか。
 
私たちが究極的に「休む場所」は、神のほかにはありません。神と共にいるという安心感ほど、「休む場所」に相応しいところはないはずです。
 
教会が、その「休む場所」であったらよい、と願います。しかし、不幸なことに、教会に来ても休めない人が、少なくありません。平日の勤務の上に、日曜日に朝から晩まで奉仕で疲れ切っている信徒もいます。教会の中で、人間関係の悩みを抱えている人もいます。牧師の話が聞くに堪えないレベルのものであるけれども、それを聞かないと聖書の言葉が聞けない、と苦しんでいる人もいます。その中には、新しい教会へと導かれ、喜んでいる人もいます。目がご不自由な中で、少し遠方へ出かけなければならないので、時間も費用もかかり、そして危険も伴うものであるのですが。
 
日曜日に勤務に出なければならないキリスト者がいます。礼拝に参加できなかったら、自分はキリスト者ではない、と負い目を覚えている人がいます。けれども、神と共にいることの確信があったならば、それは強いられた「仕事」ではなく、神の内にいる「安らぎ」である、と信じることはできないでしょうか。つまり、「休む」ことができている、と信じてはもよいのではないでしょうか。
 
逆に、自分は神と共にいないのではないか、と感じる人がいたとします。いくら教会に来ていても、その不安が拭えないのです。この人は、「休み」をレジャーや娯楽に使っていても、実のところは「休む」ことが、できないでいるのかもしれません。空しさを覚え、家の中で自分の居場所さえないように感じ、こんなことなら仕事をしている方がましだ、と呟くような生活だと、いったい何が「休み」であるのか分かりません。
 
「休む」ことの本質は、少なくともキリスト者にとっては、神と共にいることです。神でないものがいつも気になって、そこに目的がある意識でいますと、どうにもそれは「休み」であるとは考えられないのです。「安息日」を神が人間に問うたのは、形だけの「休み」ではなくて、そういうところにあるのではないか。私は最近、よくそう考えるようになりました。
 
神との交わりをこそ、「休み」だと受け取る。そこにこそ、キリスト者の真髄があるのではないか。そう考えるのです。それを見出した今、本日お開きした、あの口語訳の言葉をもう一度聞きましょう。
 
主はこう言われる、命が惜しいならば気をつけるがよい。
安息日に荷をたずさえ、またはそれを持って
エルサレムの門にはいってはならない。(エレミヤ17:21;口語訳)
 
神と共にいるならば、そしてキリストが共にいてくださるならば、私たちは、安息日に荷を携えて運ぶ必要はありません。重荷があったら、イエスが負ってくださいます。安息日にでも人々を癒やしたイエスは、神が共にいる救いを与えてきたはずです。そのイエスが、安息日だろうといつだろうと、あなたが重荷を背負っていたら、代わりに負ってくださらないはずがありません。私たちは、あの有名な聖書の箇所を、いまこそ真実の言葉として、受け止めたいと願います。
 
すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

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