(写真は次女の友人のクリスティーナと) 私が当時正式に受けたTOEFLの結果が530でした。500なくてレギュラーに入っている負い目があったので取れてホッとしました。 私のビザ6ヶ月の期限が切れるのでアドバイザーに延長の仕方を尋ねに行きました。学校の在学証明書I-20があれば授業を取り続ける限り滞在できると言われて一安心。ついでに日本の学校での単位もどれだけ認めてくれるか計算(Evaluate)してもらう事にしました。 レジスター(履修登録)をする前にそのクラスがど
10月は久しぶりに長女がアメリカから帰国していて、更新ができませんでした。もう過ぎてしまったのですが、ハロウィンの事を思い出したので今回はその話を。(写真はアメリカに子連れ留学する前、日本で英語教室をしてた時、ハロウィーンで仮装コンテストをした時のもの) 当時アメリカではハロウィン(Halloween)が近くなるとショッピングセンターにお化け屋敷(Haunted House)が出現しました。娘達は大喜び。ハロウィンの当日はアパート中を回ってたくさんのお菓子をもらって写真まで
いよいよ私のコミュニティーカレッジでの授業が始まりました。が、レギュラー(正規の学生)に決まったのが授業始まりのギリギリ前だったせいでほとんどの科目が満員でフルタイムの学生としての最低取らなくてはならない12単位に足りません。仕方なく取ったのが「消費者教育Consumer Education)」というクラスでした。 この担当の先生ミスフィリップは博士号も持っている小柄だけどスタイルのいい黒人の女性でした。内容は興味深いものでしたが、話題は日常生活に関する事がほとんど。日常
私のコミュニティーカレッジの正規のクラスが始まりました。初日でびっくりしたのはキャンパスがアメリカ人(といっても白人だけとは限りませんが)だらけだったことです。当然と言えば当然なのですが、夏の学期はESLの外国人(特に日本人やアジア人)がほとんどだったのです。キャンパスは今までの3倍くらいの学生で活気に溢れていました。 コミュニティカレッジというと誰でも入れる成人学級のようなイメージがありますが、私たちがいた学校は州立のコミュニティカレッジでシアトルの一番優秀で大きな州立大
アメリカの夏休みは6月から8月までと長いですが(習ったことを忘れるに充分な長さだと嘆く親もいました)、毎日の授業時間数が多いので一年間を通すと当時5日制ではなく、6日制だった日本の授業時間より多かったと思います。 長女は中学校(Middle school)に通いました。中学校では小学校と違い市内のELI(英語を母国語としない学生のための教育機関)に通うべき生徒を一つの学校に集めて英語と社会を学びます。そして毎日スクールバスで送り迎えしてくれ、英語の授業が終わると地元の子達と
今日は次女の通ったアメリカのある地方の小学校の様子について書きたいと思います。 アメリカでは小学校6年間と中学校3年間の9年間のみ義務教育の日本と違い、幼稚園の年長にあたる5歳くらいから高校を卒業するまで12年間が義務教育(授業料がいらない)です。そしてアメリカの学校は国ではなく、地域によって管轄されており、区立の小、中、高は日本と同じ6, 3, 3制のところと5, 3, 4制のところがあります(つまり小学校が5年、中学が3年、高校が4年)。私たちのいたワシントン州のシアト
7月、日本でも夏休みになる頃です。娘達もアメリカの生活にだいぶ慣れました。サマーキャンプなどが終わりアメリカの学校は9月から、それまでは日本から持ってきた教科書で日本の勉強をすることにしました。いつ帰ることになるかわからない経済状態でしたから、そのための準備です。やり方は教科書を自分で読んで問題集を解くというものです。私はスケジュールを作るのを手伝うだけでほとんど何も教えませんでした。というより教えることができなかったのです(悲) 今考えると人に習わず自分で理解していくとい
娘達が2泊3日のお泊りキャンプに行きました。次女は姉がいたのでクラスは別でも寂しくなかったようですが、長女は寂しくてたまらなかったようで「生まれて初めて死にたいと思った。この同じ空の下にお父さんとお母さんがいると思ったら眠れた。」と言いました。彼女が死にたいと思ったのは後にも先にもこの時がたったの一回だったと今でも言います。 どちらかというとインドア派の私たちですが、せっかく違う環境に来たのだからと、土曜日に宿題などを済ませて日曜日はいろいろなところに出かけることにしてい
ある日、文法のクラスの初日に日本人のYさんに声を掛けられました。彼女は日本の有名大学を卒業して来ていました。彼女は友達は自分から選ぶポリシーで私に声をかけてくれたのです。年がだいぶ上だったので私を過大評価していたのかもしれませんが、それはハズレ。英語も私より数段うまく、情報をたくさん持っていて色々な面で私の方がお世話になりました。今でもお付き合いをさせてもらっています。 今もお付き合いが続いている友人のもう一人は夏の講座の後半から入ってきたMさんです。彼女はお父さんが外資系
Fさんと私の語学学校(ESL)が始まりました。その地域の公立のコミュニティーカレッジに付属している語学学校です。夏の講座なので午後から4時間、リーディング(講読)、ライティング(作文)、スピーキング(会話)、グラマー(文法)の週4日の授業です。なぜそんなに短いのかと言えば、それ以外の時間はその地域の生活に慣れ、毎日を楽んでほしいということらしいです。要するに言葉は道具だという考え。クラスはほとんどが外国人、特に日本人が多かったです。 先ずPlacement test(クラス
ここでちょっとアメリカでの生活にかかった費用の概要を書いて見たいと思います。 1988年当時アパートは2ベッドルームで525USドルでした。(現在アメリカ在住の長女に言わせると2024年の今だとその3,4倍はするだろうと言います。)これには共益費や水道代も含まれていました。スーパーやショッピングモールから徒歩7,8分ぐらい離れた閑静な住宅街にあるアパートで管理人常駐、プール、オートロック付きのアパートでした。 家具はレンタルしました。ベッドを3つ。(Fさんもいましたが娘達
6月1週目にY子さんが娘達の学校入学の手続きのために近くの小学校に連れて行ってくれました。新学年の時期が日本と違うので最初の年は12歳の長女も9歳の次女も秋から同じ小学校に入るつもりでした(アメリカの新学期は秋から始まります)。ところがこの地区では小学校が5年まで、その後ミドルスクール(Middle school)つまり日本の6年生に当たる年から3年間が中学校、その後高校というシステムになっていました。つまり秋から長女はMiddle school、次女は小学校(Element
Fさんは2度目のペーパーテストに合格して、1週間後に路上試験を受けることになりました。彼女は日本の車の免許を持っていないので自動車教習を受けるのですが予約が4時間分しか取れませんでした。そのくらいで路上試験に合格するとはとても思えません。そこで私が助手席に乗って学校の駐車場で練習しました。 本当はアメリカの免許を持って2年以上の人しか助手席に乗って教える事はできないと言われていたのですが、背に腹は代えられない。ちょっと男勝りのFさんはスピードを出しすぎる傾向があり、急ハン
アメリカの車の免許を取る為に、1週間交通法規の勉強をしました。一緒に試験を受ける予定のFさんも自分で勉強していました。グーグル翻訳などない時代です。高校で英語が特に得意でもなかった彼女にしては一人でよく頑張って勉強していたと思います。(現在は日本語でも受けられるようですが、当時は英語で受けるしかありませんでした) 法規自体は世界共通のことが多いのでそれほど苦労しませんでしたが、教則本の中で意味のわからないルールがありました。アメリカでは州によって違ったルールがあるのです。例
娘達は4月からアメリカの学校に入る予定だったのに1ヶ月半遅れて5月の半ばに渡米することになり、着いてみたらアメリカの学年末にあと3週間しかなく、9月の新学期まで待てと言われ、学校に入るのが3ヵ月半遅れることになりました。 アメリカは州によってシステムが違うので一概には言えませんが、西海岸の小中高の学年末は6月の第2週までで、新学期は9月からでした。つまり、夏休みが3か月以上あったのです。渡米してアパートに落ち着くのに1週間ほどかかり夫が日本に帰ったのが5月の最終週でした。
ようやく入国審査を通過して手荷物受取所(Baggage claim)でスーツケースを引き取って外に出ると、留学センターの現地世話人のY子さんが私達の名前を書いた紙を持って迎えに来てくれていました。それからY子さんの車で私達がこれから住むアパートに直行。5月の空は澄み渡りなぜか解放された気分の30分のドライブでした。 アパートで先ず目に入ったのは真っ青な水を張ったプール。プールは複数の2階建てのアパートの建物に囲まれた中庭のマネージャー室のまん前にありました。柔和な初老のマ