AM2:50
「これ、昨日ブックオフで見つけたんだ。マジでパネェから」
と登校早々、クラスメイトのデッパがアイボリーカラーの前歯を控え目に輝かせながら、僕にとあるCDを差し出してきたのは、高校一年の夏だった。
デッパ――本名を高部と言う。前衛的かつ自己主張の強過ぎる前歯の持ち主である彼とは中学時代からのつき合いで、お互いにバンドキッズだという理由から、よくマイナーバンドのCDを貸し借りしていた仲だった。
そんな彼が今、僕の目の前でいつになく興奮し切っている。キツネ目は血走り、鼻息は荒く、トレードマークの前歯に至っては、ついぞないほどの鋭利さを増し増しで誇示しているのだ。
「貸してやるから、あとで聴いてみろよ。気に入らなかったら、すぐに止めていいから」
出っ歯、もといデッパに言われるがまま、僕はちょいと引き気味でそのCDを受け取った。女子の生脚と思しきイラストが描かれたオシャレなジャケットが、まず第一に目に飛び込んでくる。
「オナニー……マシーン?」
そう、これが僕と、童貞のカリスマの出会いの顛末である。
オナニーマシーン (以下オナマシ) はヴォーカル兼ベーシストのイノマーを中心とした3ピース・パンクロックバンドだ。
超ドストレートな下ネタをこれでもかと楽曲に盛り込み、思春期男子特有の悶々たる想いを代弁するかのようなパンクロックを声高に歌い上げるその姿は、全国のチェリーボーイズのみならず数々のミュージシャンをも虜にし、かく言う僕自身も四畳半の自室にてアルバム「片思ひ…」を再生した一分後にはそのうちの一人となっていた。
「タマしゃぶれ‼」「ヤリマン」「オイラがオナニーしている時に…」などなど……。
異性を意識し過ぎるあまり次第に屈折していった血統書つきの純血ボーイにとってイノマーのツンとスペルマ臭漂う叫びは、あまりに生々しく、またあまりにリアルであった。
「デッパ、おはよう」
オナマシとの邂逅から一夜明けた朝。教室の真ん中でリプトンをチューチューと吸いながら、気だるそうに「週刊プレイボーイ」の巻頭グラビアを読み耽っている野暮ったい生徒を見つけるや否や、僕はすぐさまお礼の言葉を述べた。
「オナマシ、ハンパなかったわ。サンキューな」
「さすがチェリーボーイ」
「お前が言うな!」
生まれて初めての合コンで「恋のABC」を絶唱し女子大生のお姉さま方にドン引かれたり、友人連中と深夜「タマしゃぶれ!!」を合唱しながらチャリンコで爆走しているところをマッポに追いかけ回されたりと、オナマシに関するエピソードトークはまだまだ尽きない。しかし、それでいて僕がオナマシに熱を上げていた期間というのは、実は非常に短かったりする。
それこそ十六歳から十七歳にかけての多感な時期限定であり、その後は徐々に、徐々に、彼らからフェードアウト。理由は自分自身にも上手く説明することができない。
あれだけ夢中になって聴いていたバンドを、僕は心の懐メロフォルダの奥の奥に、あまりにあっさりとしまい込んでしまったのだった。
時は流れ、平成最後の夏。脳ミソがとろけちまうんじゃないかというくらいに暑かった夏。イノマーの口腔底がん発症という突然のニュースを、僕はツイッター上で知ることになる。
思えば、彼の名前を目にするのも十数年ぶりのことだった。今やオナマシを聴く機会もめっきりなくなり、僕は曲がりなりにも社会人になり、そして紆余曲折ありながらも、とっくに童貞を捨てていた。
もっとも、たとえそれが短期間であろうとも、イノマーの音楽が僕の心に住み着いていたことは紛れもない事実であって、ゆえに僕は童貞のカリスマと崇められた中年パンクロッカーの完全復活を独り、静かに祈り続けた。
しかし、しかしだった。
仕事終わり、このツイートを小汚い牛丼屋チェーンの片隅にて目撃した直後、僕は無意識のうちに瞬きを止め、呼吸を止め、食い入るようにただただエクスペリアの画面を見つめていた。
享年五十三。
信じたくはなかったけれど、どうやら誤報ではなさそうだった。
僕は味のしないカルビ焼肉定食をものの数分で平らげると、ほどなく牛丼屋を後にした。
どこからともなくクリスマスソングが聴こえてくる師走の街を急ぎ足で進みながら、周りに倣い、ナチュラルに歩きスマホに興じる。ツイッターを開き、ほとんど無意識のうちに「イノマー」で検索をかける。
言葉が出ない。手垢だらけの液晶の向こうでは、イノマーと親交のあったミュージシャンたちが、次々に追悼ツイートを投稿し始めていたのだ。
「…………」
そんな中、ふと気になるツイートを発見した僕は、スワイプの最中にある人差し指を思わず止めた。
生前、イノマーはとある芸人の大ファンだったそうだ。
この事実を知った瞬間、僕は自分自身の中で一つ、腑に落ちるものがあった。
真っ暗闇の中に、光が、満ちる――。
令和元年十二月十九日、午前二時五十分。約一年半の闘病の末、童貞のカリスマは天国に旅立った。
彼は、あっちでも相変わらず下ネタを言い続けるのだろう。何の恥ずかしげもなくオ◯ンコだとか叫ぶのだろう。でもって大好きなエガちゃんの、江頭2:50のしょーもないネタでガハハと笑うんだ。
図星だろう?
ねえ、イノマー。
この下手っぴな文章が、このイカ臭い文章が、どうか、どうか、あなたの元まで届きますように。