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福田恆存を読む

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『福田恆存全集』全八巻(文藝春秋社)を熟読して、私注を記録していきます。
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#批評

【閑話】空間芸術としての批評

【閑話】空間芸術としての批評

 福田は空間的な文学の創造を目指していた。何かの座談会でそのようなことを言っていたのを読んだ記憶があるし、初期の福田の文章には「造型」という言葉がしばしば出てくる。

実際に福田の文章を読んでいると、文章構成の巧みさに感心する。福田は原稿用紙に手書きで書いていたに違いないが、一つの文章を書き上げていく過程が一体どのようなものであったのか、願わくば私は、その様子を覗いてみたい。

一気呵成に書き上げ

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『批評精神について』批評とは極北の精神にほかならない

『批評精神について』批評とは極北の精神にほかならない

 この論文は昭和二十四年に発表された。

このように前置きして、福田は、平面上に置かれた物体について語り始める。平面はつねに動いている。少しの傾斜でもすべり始める物体もあれば、多少の傾斜では微動だにしない物体もある。ここでの平面と物体は、それぞれ現実と精神の比喩である。

他の精神の眼には傾斜とは見えないような微細な傾斜を—— またその予兆すらを—— 真っ先に鋭敏に感知する眼こそが、すぐれた批評精

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『職業としての批評家』他人の書いたものを読むといふのは、なみなみならぬ奉仕ではないか

『職業としての批評家』他人の書いたものを読むといふのは、なみなみならぬ奉仕ではないか

 この論文は昭和二十三年に発表された。冒頭の引用から始める。

福田が『職業としての作家』において提出した「近代人の宿命」とはなにか。一言で言うならば、人間的完成と職業との分離である。個人的自我と集団的自我との分離と言い換えてもよいだろう。要するに、近代以降、作家を職業とするためには、①専門化された技術を持つ職人になるか、②副業を持つか、このいずれかの道しかないということである。

ひとは他人の人

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『批評の非運』あへてしらふで酔つてみせる

『批評の非運』あへてしらふで酔つてみせる

 この論文が発表されたのは昭和二十二年である。

ここに批評家に対するひとつの批判がある。
批評家とは自らの手を汚さずに大言壮語ばかりする人間のことであり、彼らには生活がない、というものだ。

福田は答えて曰く。
仰る通り、私には自信が欠けている。「これぞわが生活といふほどの生活もなく、このひとを見よといふほどの自己もなく、汚すにたるほどの手ももたぬ」。だが「そのふがひなさだけは身にしみて承知して

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『小説の運命 Ⅱ』すなわち批評の運命

『小説の運命 Ⅱ』すなわち批評の運命

 『小説の運命 Ⅱ』は昭和二十三年に発表された。まず冒頭の引用から始めたい。

明治以来、近代日本の作家たちがそれぞれの方法でもって一途に探求してきたのもこの「精神が明確にみづからの存在を確証しうる様式」であったといえよう。

二葉亭四迷をはじめ、近代日本文学の発想と系譜は、大方、十九世紀ヨーロッパ文学の文学概念にその様式の模範を求めてきた。

しかしその後に誕生した日本的私小説という文学形式はつ

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『素材について』ひたすら素材に忠実たらんとすること

『素材について』ひたすら素材に忠実たらんとすること

 この論文において福田は、文学における素材の価値について問う。

まず一方に、通俗文学というものがある。これらの作品には、素材を寄るべき大樹として利用することで、自らの価値を実際以上に高くみせかけようとするものがある。このような作品に対しては、あえて素材の価値を過小評価する必要もあると福田は述べる。

次に、他方、(こちらがこの論文の中心となるが)純文学というものがある。これらは反対に、素材を軽侮

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『批評の正しき読み方』観念のリズムで観念を鍛えること

『批評の正しき読み方』観念のリズムで観念を鍛えること

 福田はこの論文で、文芸批評とはなにかを問う。「文芸批評と然らざるものとの識別法」を語る。それにしても福田の論は、いつでも導入が難解だ。結論のようだが、抽象度が高く捉えきれないもの言いで始まる。

よく意味がわからないな、と感じていると、次の文が続く。

もちろんです、福田さん。それで理解できる人などいる訳がありません。

このように、福田の文章はつねに読者の心理的論理、心理的必然に沿って進む。沿

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『批評家と作家との乖離について』散文・この不安なるもの

『批評家と作家との乖離について』散文・この不安なるもの

 『批評家と作家との乖離について』(福田恆存全集第一巻収録)は、端的に言えば、福田恆存の作家・批評家としての態度表明として読むことができる。福田は、この論文で、「精神が精神とさしむかひに対決しえぬ現代の文壇的風潮に対して、日ごろいだいてゐる不満」を述べた。

散文というものは切ないものだ。絵画や彫刻に代表される造形美術とは異なる。散文はどうしても、作家の精神と切り離しては存在し得ない。その理由は、

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