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『批評の正しき読み方』観念のリズムで観念を鍛えること

 福田はこの論文で、文芸批評とはなにかを問う。「文芸批評と然らざるものとの識別法」を語る。それにしても福田の論は、いつでも導入が難解だ。結論のようだが、抽象度が高く捉えきれないもの言いで始まる。

「公と私、客観と主観、真と偽 ー あらゆる詩歌小説の類と同様、文芸批評の位置もまたここにきはまるのではないでせうか。」

『批評の正しき読み方』福田恆存全集第一巻

よく意味がわからないな、と感じていると、次の文が続く。

「だが、ぼくはこれで十分理解していただけたとはおもへません。」

『批評の正しき読み方』福田恆存全集第一巻

もちろんです、福田さん。それで理解できる人などいる訳がありません。

このように、福田の文章はつねに読者の心理的論理、心理的必然に沿って進む。沿うように構成されている。これが福田のリズムであろう。そこに私は心地よく騙されながらも乗ってしまう。

とにかく福田は、批評の発生論的な議論はともかくも、「いつたいどういふ批評がいまなほ興味深く読まれるか、それを考えてみればよいのであります」と言いながら、話を進める。

「多くの読者が犯している過ち ー それは、批評によつて創作を読む案内にしようといふ態度であります。木によつて魚を求むるたぐひのはなはだしいものと申さねばなりません。」

『批評の正しき読み方』福田恆存全集第一巻

批評の読者が犯しやす二つの過ちがある、と福田は言う。一つは、端から自分の思惟によって批評を批評してやろうとして読むこと。もう一つは、批評を絶対的なものとして聴従すること。どちらも間違いである。なぜならば、批評はそんなにたいそうなものではないからだ。

「すでに明らかなるごとく、文芸批評は、所詮、ひとつの事実ないしは真理の啓示伝達とはなりえないといふこと、ぼくはこれがいひたかつたのであります。」

『批評の正しき読み方』福田恆存全集第一巻

批評はけっして真理、真実の類いの伝達を目的とはしていない。いや、書き言葉は総じてそうである。

「批評に限らず、あらゆる文章は伝達ではなく定著を目的とするものであります。(中略)甲から乙にひとつの真理が伝達されうるなどと考へることに、すべての禍根が横たはつてをります。(中略)それは文章による観念の彫刻であります。観念の像を空間に厳存せしめようとする造型意思であります。」

『批評の正しき読み方』福田恆存全集第一巻

 「(前略)大事なことは、批評の文章に観念のリズムがあるかどうか、観念の立像があるかどうか ー すべてはこの一事に尽きます。」

『批評の正しき読み方』福田恆存全集第一巻

「この観念のリズムで諸君の観念を鍛へること、それが第一の問題です。」

『批評の正しき読み方』福田恆存全集第一巻

観念のリズムで観念を鍛えることこそ、批評の正しき読み方である。重要なのは、結論ではなく、そこに至るリズムであり、歩き方だ。

批評というものも、詩歌小説の類と同様に、言葉の綾であり、フィクションだと福田は言う。それゆえに、文芸批評を批評して、現実や真実ということを持ち出す人間は、大方、文芸批評における真実たるや何かを理解していないのではないか。福田は述べる。

「文芸批評における真実とは、対象たる作品と批評家との結びつきにしか求めえぬものではありますまいか。(中略)これは創作の真実が、その作家と現実との結びつきに求められるのと同様であります。」

『批評の正しき読み方』福田恆存全集第一巻

「かうなると、多くの批評家がこのんで口にするいはゆる現実とか、社会とかいふことばは、少々極端に申しあげると、どうでもよいことになりはしませんか。作品の価値をさうした意味の社会的現実と一々検証して適否の認印を押してゐるやうなひとたちはよろしく文学などと絶縁して、もつともつと組織的な社会科学でも研究して、文学よりはもつともつと現実を反映したレポートに判を押すお役人にでもなつたはうがよろしいのです。」

『批評の正しき読み方』福田恆存全集第一巻

批評家は社会科学者ではない、専門家ではない。創作家である。かれは、私(わたくし)が公(おおやけ)と重なる地点、主観が客観と重なる地点、真実と偽り(フィクション)が重なる地点に、居場所を見出す創作家だ。

福田のリズムは、振り出しに戻ってまた進む。

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