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自称東大院卒グルメ女史・パコ崎ミャ子さんは、なぜカント哲学「物自体」を(自信まんまんに)知ったかぶりするの?

MDSの女(?)をご存じですか? いいえ、けっして骨髄異形成症候群にかかった女性のことではありません。ここで言うMDSとは、見栄駄ボラ知ったかぶりでブログを書いてたのしくはしゃいで暮しておられるとある女性(?)のことです。ひとさまのしあわせにとやかくはないけれど、しかし、果たして「彼女」はほんとうに東大院卒40歳女性なのだろうか? とうていぼくには信じられない。いいえ、順を追ってお話しましょう。



ミーガンはグルメになれるか? けっしてなれません。だって、言葉よりも五感でしょ。頭よりも体でしょ。いいえ、頭と体は切り離せない。世界は広くゆたかなもの。しかし俗流AI人間~言葉人間は言葉の世界に閉じ込められて五感のよろこびを失ってしまう。これね、とんでもない精神の危機ですよ。もしもあなたが言葉の牢獄に閉じ込められているならば、すみやかに脱獄しましょう。幸福になるために。



「彼女」のハンドルネームはパコ崎ミャ子さん、小人気食べログレヴュアーのおひとりです。いまのぼくは「彼女」が東大院卒であることも40歳であることも、そもそも女性であることも疑っていますが、ここでは「いかトー女史」(いかさま東大院卒女史)とお呼びしましょう。「彼女」は言葉、言葉、言葉、言葉、ただひらすら言葉の人、死んだ五感をそのままに、地下アイドルふうの媚び媚び語尾を使ったレヴューをお書きになって、食べログで小活躍。「彼女」はどんなな手を使ってでも五感主義者ジュリアス・スージーをボコボコにしようと奮闘しておられます。助演男優として自称東大院卒アホアホチャーハンマンも登場、切ないまでに貧乏で頭も悪くいたいけなチャーハン愛をイキってドヤって歌い上げます。ミーガンはグルメになれるか? グルメを主題に、味覚障害の問題も絡め、でたらめな他者「理解」の暴力性、AI時代の光と影、そして全東大関係者を震撼させた今年一番の衝撃作。どうぞ、ごゆっくり、一字一句お読み逃しなく、ぜひ感動のエピローグまでむさぼるようにお愉しみください。では、開演です。


頭がいいって、なんだろう? 学校のお勉強がよくできて、知識が豊富で、しゃべる言葉の論理がすっきりしていて、口が達者な人をついおもいうかべるけれど。でも、言葉で扱える領域は狭く、きわめて限られている。他方、われわれが生きている世界はとてもゆたかだ。たとえばスポーツ選手やアート系の人たち(ファッション、音楽、デザイン、絵画、工芸、料理、ぞれらの作り手たち)は、ほとんど言葉に頼っていない。五感を使って生きているから。かれら彼女らにとっては、体で感じること(五感)がもっとも大事なんだ。まず感じ、繰り返して試み、技術を身につけ、次に考え、そして表現する。けっしてはじまりが言葉ではない。そもそも言葉はそれほど役に立たない。それどころか世の中に流布している言葉に頼った途端、かれらは自分自身を失ってしまうことさえある。



ところが、いまという時代はヒトがAIみたいになってしまう傾向があるようですね。気の毒なことです。なぜなら日本の場合AI人間と言ったところで、自称AIエキスパートの東京大学の松尾豊大先生を筆頭にたいへん多くの人は最前線のAIの知識にくわしいわけでもなんでもない。ぼくもそうだけれど。そもそもしょせん人間ですから演算能力もささやかなもの、たいていの人はChatGPTのようにただ言葉で示されたある事象を別の言葉で説明するだけ、辞書や百科事典のようなものです。いいえ、最悪なのはChatGPTであれには構造的欠陥があって、ほんらいあらゆる事象には理解の複数のステージがあって、必ずしも和解的とは限らない。しかしChatGPTはそれらをすべて同一平面上に並べてしまう。したがってChatGPTに頼りChatGPTが吐き出す駄文をそのまんま信じて口にしたり書いたりするということは、〈物知りバカの答案をカンニングするボンクラ〉になるということである。そもそも論文や本に書いてあることをただ横流しして得意げにしゃべるなんて愚かなこと。そのうえ、似たようなことをたくさんの人がしゃべる。あまりに多くの人が言葉の世界に幽閉されている。なによりも悪いことは知性がAI的になってゆくとともに、五感がスポイルされて、まるで言葉の世界がリアル世界であるかのような錯覚が生まれてしまうこと。けっしてこの世界は既存のシニフィアンとシニフィエの集合体だけで理解できるわけではないのに。しかし、すでに俗流AI型知性になってしまっているご本人たちは自分がどれだけ大切な能力を失っているかということに気づけない。



たとえば香りと味覚の世界があまりにもこまやかでゆたかであるのに対して、言葉はまったくそのゆたかさに対応できていない。甘い、辛い、苦い、酸っぱい、塩っぱい。いい香り。おいしい。まずい。変なにおい。くさい。おおよそ言葉はこれしかない。言葉は、トロの味と鮭の切り身の味を区別して表現できない。鯵とコハダの味の違いもまた。それどころか砂糖の甘さも加熱したサツマイモの甘さもネギを煮た甘さの違いも表現できない。「からい」という字がどうして「つらい」と同じなの? 悦楽的辛味を知らないの? そしてまた上等なカレーを辛いとしか表現できない。油脂の種類を識別する言葉さえもない。つくづく言葉は役立たずです。しかも、こういう事情は音楽とてファッションとて絵画とてデザインとて同様です。心躍るたのしくゆたかな世界をしかし言葉はごくごくほんのわずかしか拾えない。しかし、AI人間はそのことにまったく気づけない。



本いっぱい読めば音楽演奏は上手になりますか? すばらしい絵が描けるようになりますか? 鑑賞力が身につきますか? かっこいいダンスが踊れるようになりますか? なにかの種目でオリンピックに出場できますか? 無理でしょ。同様に言葉に頼ってグルメ活動をしようたって、うまくゆくはずがない。どこかに書いてあるようなことしか言えず、けっきょく笑い者になるのが関の山です。それでも料理を言語化したいならば五感を使うことを覚え、そして調理を学ぶことですよ。たとえばレシピは調理知のサブジャンルであり、広義の工学知と見なすこともできるでしょう。もちろん有益です。それに対して五感も使えず、調理知抜きの料理についての感想文などなんの役にもたちません。



逆に言えばグルメにとって言葉はほとんど形容詞と副詞で済んでしまう。そもそもおいしい料理に言葉はいらない。あぁ、おいしいねぇ。んまいなぁ。オウムのようにそんな言葉を繰り返しながら、おいしさはさらに増大する。もっとも、もしもその料理にちょっとした疵を感じたならば、「肉に火が入り過ぎ」とか、「ソースの色は綺麗だけど、肉に負けてるよ」とか、「キャベツの鮮度が悪いね」とかそのていどの言葉で感想を述べるまで。音楽でもデザインでも絵画でも事情は同じです。エッセンスをかんたんな言葉で示すほかない。だって、それが言葉の限界なのだから。もっとも、料理の場合はそれぞれ固有の調理手順フローチャートをそなえていますから、それに察しがつくならば、それについて語るのは有用ではありますけどね。



もっとも、世の中には味覚の言語化を徹底的に追及する人もいるもので、たとえばワイン鑑定家のRobert Parker や日本一のソムリエ、田崎真也さんですよ。かれらは神童的天分を授かったうえ、超人的努力を重ねたことでしょう。あんな神業、われわれ凡人にとうていできることではありませんし、そもそもたいていの人にとってはかれらほどに高いレヴェルで味覚の言語化を追求する動機がありません。



他方、俗流AI人間たちは言語の牢獄に閉じ込められた結果、料理もファッションも音楽も美術もデザインも楽しめるわけがない。もちろんかれらは目的もなく街をうろついたり、野山に遊ぶこともしなくなる。かれらはそこに意味を見出だせず、人は意味のないことをしませんからね。(ほんとうは意味なんてものはどんなものからでも見出だせるものなんだけれど。)AI人間たちは生きていてもおもしろくもなんともない。だからかれらはしじゅう批評に明け暮れ、文句ばかり言うようになる。まさに現代の悲劇です。


食べログ界のデビル雅美、登場。



さて、ここからがいよいよ食べログ界のデビル雅美ことパコ崎ミャ子さん、自称もの書きの、いかさまトー大院卒女史、略して いかトー女史についてのお話です。



ぼくは「彼女」のレヴューの数年来の読者であり、ぼくにとって彼女はもっぱらレヴュー上の存在である。誰に学歴を問われたわけでもないのに、「彼女」は東大院卒であることを連呼し、立花隆と三浦瑠璃を先輩と呼び、蓮實重彦を大先生と呼ぶ。(「彼女」の口にのぼる東大関係者がこの3人だけであるところがすでに怪しい。あるいは「彼女」はご自分の学歴がよほど心の傷になっておられるかしらん???)「彼女」はお嬢さんを持つ妙齢のご夫人ながら、なぜか老人くさい文章の運びを、地下アイドルさながらの若作りで媚び媚びの文末処理で隠し、日常生活のあれこれの心象と絡めて、食べログでレストランレヴューをお書きになる。なお、彼女の読者はおやじとじじいだらけで、女の読者はひとりもいない。「彼女」の書く文章はレストランレヴューとしてはまったく役に立たないものの、しかしそのあまりに非標準的な味覚と、いわばスキゾ女の大冒険とでも呼ぶべき不気味な文章にぼくは興味を持った。多年にわたってお互いのレヴューのコメント欄における社交もあった。いまなおぼくは(実在するか否かまったくわからない、ネット上の存在たる)「彼女」をけっして嫌いではない。いいえ、より正確に言えば、いまやぼくは「彼女」のことを大好きなんだか大嫌いなんだかまったく判然としない。喩えるならば「ワニは恐ろしいが、しかしワニの刺身は淡くピンク色がかった白身肉にまったり脂肪分がのっていて意外にもおいしい」というような相反感情かもしれない。いや、違うかも? なお、ワニはものを食べると涙を流す。ただし、この反応はけっしてワニがグルメなわけではない。なにを食べようがワニは涙を流すのだ。




なお、以下の、ぼくによる「彼女」についての考察とぼくと「彼女」の論争のはじまりは、「彼女」の食べログページのコメント欄で、ぼくが五感の重要性を説いたときだった。そこで彼女はぼくを挑発した。「五感の話題はおバカな話題かとおもいます♡」みたいなやつだった。(そのときぼくは、なぜ「彼女」が五感の話題で怒りはじめたのか、その理由がわからなかった。ぼくがその理由がわかるようになるのは、ずっと後になってからのこと。)そもそも五感は入力であり、知性は演算能力のこと、そして言葉は表現の一方法である。したがって「五感の話題はおバカな話題だとおもいます♡」なるご発言には彼女の混乱があって、喩えるならば「食事の話題はうんこの話題だとおもいます♡」みたいなものである。いやはや。にもかかわらず彼女のこの上から目線の尊大な言い方! もちろんぼくとて売られた喧嘩は買わなければなりません。もっとも、ぼくはこのやりとりをあまねく広い世間に流布するつもりはまったくなく、「彼女」のコメント欄での「会話」で十分だった。にもかかわらずいまこの文章をここにアップロードしている。そこにはちゃんと理由がある。おいおいご説明してゆきましょう。では、順を追って。




いかトー女史は醤油味の料理を中心にしながらも、それなりに手あたり次第にあれこれの料理を召し上がるけれど、とくに麻布十番ふじや食堂の料理と、中華料理だけはいかにも食べ慣れてらして、かつまた格別にお好きなのだろうな、とぼくは感じてきたもの。ところが、今回「彼女」がアップロードした新高円寺の街中華某店のレヴューを読んで、レヴューの一節にぼくは不穏なものを感じた。なるほど、そういうことだったのか。ぼくは長らく「彼女」のレヴューを楽しく読みながらも、同時にやもやした謎を感じもしてきた。しかし、このレヴューによってその謎が(たぶん)解けた。念のためぼくは「彼女」の過去のレヴューもいくつも読み直し、深い溜息をついた。



「彼女」いわく「自分の味覚に絶対の自信がアルと言う人♡ 先入観なく味だけの判断で評価できると言う人♡ 自分は、感覚が鋭く感性が素晴らしいと思っている人♡ それから、とにかく美味しい街中華を食べたい人~♡ そんな人達に、食べて欲しい~♡」と冒頭から「彼女」はいつものように地下アイドルふうの若作りトークで煽りまくる。ご本人としては「場末の街中華に、あたしという名のマリア降臨☆」というようなシーンが想定されているのでしょう。



しかし今回はレヴューのなかにこんな一節さえあるのだ。「街中華を語っていての味覇味だの化調風月味とか言うのは野暮な話だ。」(なお、原文は一部伏字。)これを読んでぼくは椅子から転げ落ちた。えッ? なにをとんちんかんなことを囀っておられるの!?? (なお、平成~令和育ちの人は化学調味料なる言葉をご存じなく、うまみ調味料と呼ぶもの。こういうところで、自称40歳の「彼女」の年齢詐称疑惑が生れます。いいえ、本題に戻りましょう。)




味の素と味覇はまったく違う風味ですよ。味の素はグルタミン酸(昆布や発酵食品系)のうまみです。他方味覇のうまみは鶏エキス、豚エキス、野菜エキスであって(グルタミン酸も入っているとはいえ)まったく違う系統である。しかし彼女は両者の違いも感受できず、化学調味料(=うまみ調味料)という言葉で同じものにしてしまう。なんでもかんでも抽象化すればいいってものじゃない。そもそもふつうの人はあたりまえに両者の違いを感じている。だから両者をひとつのカテゴリーに容れる必要がない。しかし、「彼女」にはこの違いがおわかりにならない。さらにひどいことに、「彼女」は街中華は例外なくうまみ調味料を使うものと決めてかかっている。つまり、「彼女」は味覇味と多くの街中華が用いる本物のチキンスープ味の違いを識別できないのだ。とんでもない舌ですわ。驚き桃の木イチョウの木、三四郎池のほとりのミズキの木です!




この大誤解。味の素はともかく、もしも(!)この店がチキンスープもしくは肉骨水煮スープもとらず、味覇でうまみを演出しているならば、いったいどこにこの店を大絶讃するべき理由があるかしらん? この店はラーメンも出していてそれなりに人気がある。まさかこの店が味覇と味の素でラーメンスープを作っているとはひじょうに考えにくい。ふつうは時間をかけて強火で煮立ててあとは弱火でじっくり肉骨の水煮ダシをとるんですよ。そしてもちろんそのダシは各種炒め物にも活用するもの。




まさか味覇味と本物のチキンスープもしくは肉骨水煮スープ味の違いがわからない人がいるなんて! おそらく「彼女」は中華料理にはほぼすべての炒め物におたま一杯ぶんの秘伝のチキンスープもしくは肉骨水煮スープを入れて炒めることさえもご存じないでしょう。まともな料理人ならば味覇にうまみを依存させたりなどしない。ちゃんと時間をかけてチキンスープをとるのだ。だからこそ街中華のその店の実力はサーヴィスで出して来る掻き卵入りチキンスープの味でわかるもの。



もっとも、なるほどたしかに味の素を使う店はそれなりにあるでしょう、あのギラッとしたうまみのアクセントはたとえばキューリの和え物に絶妙だ。本題から逸れるけれど、焼肉屋がサーヴィスで出して来る長ネギの小口切りとワカメ入りのコンソメもあきらかに味の素味ですね。かんたんにおいしくなるのだからいいじゃないですか。しかし昭和の学食やスキー場のゲレンデ食堂ならばいざ知らず、はたまた東京大学中央食堂、あるいは日高屋やガストの調理事情は知らないけれど、しかし街中華の個人店でズボラにもスープもとらずに、調理に味覇およびその類似商品を使う店はほとんどない。それで商売が成り立つほど世の中は甘くありません。




たとえ味覇を使うにせよ、50リットル越えの寸胴鍋で、秘伝の鶏ガラスープや丸鶏スープを時間をかけてとった上で、ごくわずか少量だけ、味の安定のために使うていどだ。(そもそも味覇は家庭用調味料です。家庭ではなかなか時間をかけてチキンスープをとるわけにもゆかないゆえ、味覇は便利です。もっともしょせん味覇のうまみであることはバレちゃいますけどね。近所の街中華が恋しくなるのはそんな時です。)




ひとことで言えば「街中華を舐めんじゃねー!」ということですよ。なんなんですか、あなたのこの上から目線の大誤解とセットになったとんちんかんな街中華讃美は!?? ご本人は(欺瞞的にも!)街中華に寄り添っているかのようにご自分を演出しながら、しかし内心彼女は街中華をえらく下に見てバカにしている。(学歴差別主義者を輩出する東大魂、全開ですね! いかさまとはいえ。)ご本人だけは当該中華料理屋を大絶賛しているおつもりながら、しかし彼女によるレヴューは、前述のくだりに着目するならば、事実上誹謗中傷と変わりない。そのことにお気づきでないのはご本人だけ。(それでいてそんなあなたは、アピシウスやキャンティのブイヤベースには惜しみなくそのダシのうまみに讃美を捧げる。いったいどんな舌をお持ちなんでしょう???)



後日ぼくは知った。「彼女」は南麻布 あら喜のレヴューのなかで、塩鮭を頬張り、塩のおいしさを寿ぎながら、ご自分の舌についてこう述べておられます。「味だけで言ったら1000円もする無化調ラーメンの何倍も美味しい百何十円かのインスタントラーメンを何個もソラで言えるもん~♡ 」そうでしょうねぇ、あなたにとっては。たいへん正直なご発言ですが、しかしパコ崎ミャ子さん、もうレストランレヴューをお書きになるのは辞めてもらっていいですか? 乱暴狼藉キャラもほどほどにしてくださいな。もっとも、ぼくが「彼女」のこの発言を知るのはずっと後のこと。この時点ではぼくはただただ、「彼女」の街中華観に呆れ、驚き、怒りさえ感じています。ぼくは「彼女」に言うーー。




どうぞ、言葉を食べるのではなく、目の前のその料理そのものを召しあがってくださいな。
ところがこの〈言葉で食べるな、舌で喰え!〉を言葉で説明することはとっても難しい。そもそも彼女の五感はとっくに死んでいます。次に、ほんらいこれは認知科学が扱う問題です。実際には誰もが日常的におこなっていることながら、しかし科学的説明は(見かけ上)ひじょうにややこしくなる。たとえば、ある種の脳科学者が提唱するクオリア。認知心理学のアフォーダンス。哲学者 Stevan Harnad 言うところの「記号接地問題」。それらを使って説明すべきことでしょう。しかし、無駄に話をややこしくしたところで、会話は成り立たない。そこでぼくは一般教養的な説明として、カントの〈物自体〉を使って解説を試みた。なお、〈物自体〉が示唆していることは、言葉に先だって物は存在すること。言葉に先だって人は五感を働かせ、物を認識すること。



誰にだって覚えがあるでしょう。あ、あそこに色の綺麗な花が咲いてるな。近づいてみるとその花の名前を知らない。あるいは、なにかの音楽を聴いて魅了されたとき、「この音楽のジャンルって何? どこの国の音楽? グループの名前は?」なんてこともあるでしょう。はたまたレストランで鮭料理を食べて、「うめえなこの鮭! 白鮭(秋鮭)? カラフトマス? 紅鮭・紅鱒? ますのすけ(キングサーモン)? 鱒(さくらマス)? 銀鮭? はたまた虹鱒??? そんな経験は誰にだってあるでしょ。まず最初に五感が動く。けっして言葉が認識に先だっているわけではない。



ところが「彼女」は〈物自体〉という言葉を聞くやいなや、ぼくに対してマウントを取るべく、待ってましたとばかりに自信まんまんにカント解釈学の講義をはじめるのだった。これがまた凄いんですよ、「彼女」はさらりと言い放つ、「カントの言う物自体とは、〈物がそれ自体において考察されるーDinge an sich selbst betrachtet〉を意味し、ここから出発しているので、かれが語る解釈の問題点も、まさにこの点から生じているとおもいます。物自体は、〈主観の企投〉の客観的側面を言ったもので、その側面は当然〈先験的客観(対象)〉となると考えます。経験の理論を経験的なもの(事物) とするのは、やっぱり飛躍する「二段階の理論」と考えます。かんたんに言うと、時間、現象、客観的実在性から対象を対象化する「場」を最初から設定し、その「場」に置かれたモノのみが「本当の対象」として具現化されているという、関数のXのような使い方と私も考えます。」



さすがいかトー女史、You're a pretty smart bitch、おそれいりました! しかし、ぼくは言いたい、なーーーにが「私も考えます」だ、それってただのカント解釈学者プラウスの引き写しじゃん! セコいな~、この女! 他人の考え~言葉を引用するときはそれが引用であることを明示し、引用元も明記しましょうね。駒場で習ったでしょ。しかも、あなた、ご自分がなにをしゃべっているか、なーーーんにもおわかりになっていないでしょ。ChatGPTの猿知恵をちょっと拝借なさっただけでしょ。知ったかぶりもほどほどにしてくださいな。偉そうに講釈垂れるならばカントくらい素手で読みましょうね。自力で。



まず最初に、カントについて「経験の理論を経験的なもの(事物) とする」とおっしゃるのは、いったいどういうことでしょう? おそらくあなたは「カント 物自体 批判」と検索なさって、プラウスを引き当て引用なさっておられるだけのことでしょうが、しかしあえてプラウスの側に立てば、カントは自我が経験することを、非我の枠組で考察していて、その議論の持ってゆき方を詐欺的であるとして糾弾なさっておられるでしょう。しかし、少なくとも『純粋理性批判』
におけるカントは(経験を主題にしているのではなく)、あくまでも経験を越ええ出る理性のはたらき、すなわち形而上学を考察の対象にしています。議論のポイントがずれています。したがって、プラウスの批判はとんちんかんと言わざるを得ません。



2番目に、あなたは、Dinge an sich selbst betrachtet.とわざわざ原語のドイツ語を引いてスノビズムを演出なさっておられますけど、しかし、英訳すればたんに Looking at things in themselves.でしょ。この言葉は〈人は言語に先だって五感で物を-現象として-認識する〉ことを含意しています。ただし、物自体は概念ではないので、人は物自体をそのまま認識することはできない。別の言い方をするならば、カントは〈主観はいかにして客観的世界を獲得できるのか〉を問うた(西研)。



3番目に、プラウスの〈物自体〉理解のその前提は一見間違っていないかのように見えはする。〈先験的客観(対象)〉とは、経験に先だって概念は存在するということですからね。しかし、物自体は概念ではない。ゆえに、人は物自体をダイレクトに認識することはできない。おそらくプラウスはこれについて意図的に無視しています。また、たしかにカントは人間の直観を時間/空間の座標の上でとらえ、それを理性的思考(概念的思考)で考察の対象としています。この態度は数学~物理学の基礎に通じていますね。しかし、〈その時間/空間の「場」に置かれたモノのみが「本当の対象」として具現化されている〉とはいったいなんでしょう? 本当の対象? なんですか、それ? では、他方で嘘の対象もあって、ほんとと嘘の2種の物自体が存在するとでもおっしゃりたいかしらん??? まさに知の欺瞞です。カントが言っていることはたんじゅんなこと。カントの〈物自体〉という用語を理解するために、哲学業界ヤクザのプライスなんて要らないの。むしろ邪魔くさい。



そもそもちょっとしたしめばけっして哲学は難しくない。(もっとも、例外的にフランス現代思想のドゥルーズ&ガタリや、デリダ、ラカンあたりは難解きわまりないけれど、あくまでも例外です。)門外漢に哲学がやたら難しく感じるのは哲学用語とおもに明治時代になされたその衒学的な翻訳によるものに過ぎない。哲学者自身は誰もが感じる疑問をひとつひとつ解き明かしているに過ぎない。なるほど、むかしから哲学業界ではカントの物自体の解釈をめぐって議論百出ではある。しかし、むかしからぼくは不思議におもってきた、「物自体ってそんなに難しがることか?」。カントの言っていることはたんじゅんなこと、諸物は概念ではなく、したがって諸物をそのまま認識するのは不可能である。ただそれだけのあたりまえのことを言っているに過ぎない。



ぼくの表現で言えば、われわれが生きているこの世界は諸物自体の世界(パンケーキに喩えましょう)と諸概念の世界(もう一枚のパンケーキ)の二枚重ね構造になっています。なお、諸概念の世界は、諸物自体の世界を概念で再構成したもうひとつの世界です。しかし、どれだけ概念世界を精緻に構成しようと、しかしけっして諸物の世界(リアル・ワールド)を理解し尽くすことは原理的に不可能です。カントはそれを指摘しているに過ぎません。もっとも、カント自身「物自体」に託す意味が、時期ごとに変遷しているゆえ、厳密な哲学研究においては、いつまで経っても考察が終わらないことにもなるのだけれど。これによってカントはその研究者としての生涯のみならず没後二百年以上にわたってたくさんの哲学研究者たちを養っています。



言葉を外して現実を感受すること。
まずこれができてからでないと、科学だろうが医学だろうが、絵画、音楽、料理、スポーツ、まったくお話にならない。ダーウィンがただひたすらミミズを見ていたことをおもいだしてくださいな。また、ルネサンス期の画家たちはデッサンを最重要事項としたでしょ。レオナルド・ダ・ヴィンチに至っては人体を正確に描くために、何度となく死体解剖までおこなった。観察することとは、まずは言葉の外へ出ること。同様に、指揮者たちやミュージシャンたちが音楽をどう聴いているか、とうてい言葉で説明しきれるものではありません。料理だって同じでしょ。料理の作り手はみんな自分の目と手と耳と鼻と舌でおいしさについて考えるんですよ。いったん言葉を括弧にくくって、五感を使って対象を観察する。つまり物自体とは実践的方法を(逆説的に)示唆しているんですよ。



もっとも、べつにわざわざカントを読まなくたって、科学者も医者も画家もミュージシャンも料理人も実はみんな物自体が(逆説的に)言わんとする態度を身につけているんですよ。しかし、あなたはこのいちばん大事なことをまったく理解できない。なぜならあなたは徹底的な言葉人間、神羅万象すべての認知があらかじめ言葉に絡めとられているがゆえ、そもそも物自体について観察するプロセスがネグレクトされている。そこで意味もわからず念仏のように詐欺師のプラウスのハッタリが召喚される。いやはや、ぼくはお釈迦さまの言葉をおもいだします、「人が月を指さすとき、指を見るバカ。



なお、その後「彼女」はご自分の食べログ日記欄で、哲学案内を(髪振り乱して?)殴り書きした。



出た出た出た出た出ましたね、山盛りで。これが世に言う「ニュートン、まぬけの法則」、ニュートンって林檎が落ちるの見て万有引力発見した人でしょ、っていう知ったかぶりの法則ですね。なんでまたわざわ恥の上塗りを!?? どーせぜんぶChatGPTの猿知恵とウィキペディアのコピペでしょ。 


はいはいはい、カントばかりが哲学じゃないよ、と彼女はおっしゃりたいわけでしょう。たしかにそれはそのとおりではあって。そこで「彼女」は有史以前の諸民族の神話にはじまり、中国、インド、南米、エジプトを視野に収めつつ、老荘思想、近代哲学ではミル、スペンサー、ベルクソンを外側から概観し、「彼女」は返す刀でカントを相対化してみせる。




しかし、スター哲学者を並べて紹介し、かつまた西洋哲学の枠組をも外し、哲学一般を外側から紹介したところでなんの意味もありません。なぜなら、哲学者はひとりひとり自分で問いを立て、考え、答えを出しているに過ぎません。哲学はいわば複数系、はやいはなしが哲学って〈いろんな人がそれぞれ問題を見つけ、先人の業績を参照しながら、自分の頭で考え、自分の言葉で答えを出した〉なんですよ。したがって、カント読みにとってはプラトンに遡りはしても、またベルクソンを覗くことはあっても、しかしニーチェを読む必要はなく、プラトン読みにとってはドゥルーズも、デリダも要りません。また、哲学書を読むことは読者もその本の世界に入り込んで、著者の側に立って、自分もまた考えてみること。その経験抜きには哲学は語りえないものなんですよ。



次に、あなたねぇ、偉そうなことを言うのならカントくらい読みゃいいじゃん、哲学は文系の数学なのだから。哲学は文系の大事な一般教養ですよ。しかし、どうやら彼女は意地でもカントを読みたくないらしい。それでいて、なぜかカントを知ったかぶりすることには熱心だ。そこで「彼女」は(どうせ一冊たりともページをめくったことさえないでしょうが、chatGPTの猿知恵とWikipedeaを駆使して)カントを回避し、カントを相対化してみせる。なるほど、それぞれの社会にそれぞれの哲学がありえることもあたりまえのこと。ただし、それはあくまでもハイデガー~九鬼周三のように〈その社会の固有の文化を普遍的な文脈に置いて理解する〉という方法に過ぎない。けっしてかれらが普遍 universality を否定しているわけではない。もしも普遍の次元を失ってしまえば、哲学は学として成り立たない。物理学が地域ごとに複数あるなんてバカな話はないことと同じことです。あなたは一度でも普遍についてお考えになったことがありますか? 普遍とは、その人がどこの国の人であろうとその人の考えがあらゆる国で妥当性を持つということなんですよ。なるほど哲学は、宗教学~神話学と重なるところもあるとはいえ、しかし両者は峻別すべきもの。インド哲学にせよ、東洋哲学にせよ、普遍性の次元に耐えうるか否かが思想家‐読者‐研究者のウデの見せどころです。けっして非西洋哲学は民藝趣味ではありません。



また、おもいだすべきは明治以降の日本語は西洋語の翻訳によってなりたっていること。西洋近代哲学をあるていど使えないことには、日本語で論理を組み立てることはできません。



そもそも哲学はあくまでも思考のための道具であって、目的に合わせて使えば時間の節約になる。しかし、自分が道具にできないものを並べてひけらかしたところで、いかトー(いかさな東大院卒)のテキ屋商売はけっして巧くゆかないでしょう。



付言するならば、カントを批判するならばまずは召喚すべきはヘーゲルでしょう。しかし、あなたはなぜか突拍子もなくヴィルヘルム・フォン・フンボルトを引用して「(カント哲学は)経験を始まりから無視する理論が、全ての考察の楔となっている(ゆえに)カントの三批判書は未完である」などととんちんかんなことを主張しておられます。なるほどカントの思考~論証の仕方は数学~物理学の基礎にも通じているゆえ、その指摘が当たっている部分もある。しかし、カントは、数学法則、有限/無限、神、不滅の生をも思考の対象としていて、それら形而上学が経験に先だっていることは自明のこと。つまり、「カントは経験を無視してる」なんて批判はまぬけきわまりない。カントはただ形而上学を考察の対象とするゆえ、そのために形而上学と経験知を切り分けただけのこと。



カントは理性的思考に、経験則を越え出るーハイデガー~サルトル流に言えば投企=企投するー概念世界を見ているとともに、信仰、形而上学、数学の概念は(!)個々人の経験に先だっているということを指摘したまでのこと。そんなことは駒場の学生だって知っている程度の初歩的なカント理解ですよ。しかし、それさえもあなたはできない。



そもそもなにが哀しゅうてカント哲学批判に外交官あがりの殖民地主義者の言語論を盾に取る? なるほどヴィルヘルム・フォン・フンボルト先生のおっしゃるとおり、世界にはさまざまな言語があり、使用言語の違いは思考の枠組に異なりをもたらす。しかし、だからと言って、それをもってカント哲学を批判するのはおかど違いというもの。パコ崎ミャ子さんがカントのみならず、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトもまたまったく読めていないことがよくわかります。あなたに欠けているものは、普遍についての理解なんですよ。



ついでに言えば、あなたが(知ったかぶりで)熱く語ってみせるベルクソンにしても、なるほどベルクソンは時間を空間から分離したものとして導入することによって、抜本的なカント批判をおこなった。そこにはいかにもフランスらしい、経験と形而上学の「結び直し」(高橋克也)があります。なるほど、ベルクソンは20世紀における最大のカント批判者ではある。ただし、カントとベルクソンではそれこそ生きた時代がまったく違う。また、もしもベルクソンを〈笑い〉の哲学者としか了解できないならば、それは哲学読みとしてはどしろーとと言わざるを得ません。(その後、あなたはあわてて「時間と自由」「物質と記憶」についても加筆なさいましたけれど。しかし、もしもあなたがベルクソンをちゃんとお読みになったならば、ベルクソンの心身問題がカントの物自体とどう関係しているか考えるもの。しかし、哀しいかなあなたにはそれができない。)また、もしもベルクソンを語るならば、その人あたりのいい文体にうっとりするのみならず、ドイツ観念論の系譜との関係を考察し、さらにはベルクソンとアインシュタインとの論争のような同時代的なトピックをも見なければ、ただの太平楽なペダンティシズムに過ぎません。あなたはプライスがだめなら今度はヴィルヘルム・フォン・フンボルトで攻めてやる、両方だめならベルクソンでどうだ、とヘボ将棋の王様さながらの後退戦を必死で闘っておられます。しかし、「物自体」の議論はどこへ行ってしまったの??? 東大って、議論の仕方もご存じない跳ね上がったどしろーとを野放しにする場所ですか???


いやはや、あなたったら抗弁すればするほどおけつ掘っちゃっておられますね。あ、まちがえた、墓穴ですね。



そもそも、もしもあなたが多少なりともなにかの哲学を身につけておられたならば、けっしてあなたがお書きになるような上っ調子で論理の背骨のないぐにゃぐにゃした文章なんて書けなくなるものなんですよ。そもそもあなたは考える方法をなにひとつお持ちではない。あなたの東大院卒学歴も嘘でしょ。




もう一度振り出しに戻りましょう。ぼくはべつにあなたに哲学概論~公認哲学史議論をふっかけたつもりもなく、ぼくはただヒトは言葉に先だって五感で世界を知覚することを指摘しただけのこと。べつにカントを用いずとも、クオリアだろうがアフォーダンスであろうが同じこと、それはただの説明手段に過ぎないのだから。ぼくが発したメッセージに対するあなたの受容と反撃はあなたによるかんぜんな勘違いであり、ミスコミュニケーションが起こっていることを、どうぞお気づきになってください。



困りましたねぇ、パコ崎ミャ子さんは五感を使うこともできず、しかも、ことあるごとに東大院卒を吹聴なさるにもかかわらず、あなたは概念を扱うこともできない。とうてい信じがたいことながら、もしもあなたの学歴がほんとうだとしたら、東大院卒の学力崩壊をぼくは嘆く。あなたはこれ以上西洋哲学で論争するのはあきらめて、どうぞ「静養テツガク」でも学んでくださいな。いいかげんに田舎の中学生みたいな幼稚な議論をふっかけるのは辞めていただきたい。



てか、あなた、おもってるでしょ、「ちかごろはChatGDPちゅうありがたいもんがあるでよ、わしの書く文章で東大院卒を偽装できるがや。世の中チョロいもんだがね。」いえいえ、そんなあどけないこと囀っている場合じゃありませんよ。それどころかあなたの学歴詐称がChatGPTさまのお陰でバレてるじゃないですか。いやはや。



そもそもあなたはせりふ選びを間違えてますよ、あなたがおっしゃるべきせりふはこうでしょ。「え、カントですかぁ? エッチィ♡ 嘘。てつがくしゃのカントでしょ。ミャ子も読んだことあるけど、でも、言葉が難しくって、ミャ子ぜんぜんわかんなーーーーい♡ だって、毛のメゾンとか にゅうめん丼 とか プペル肉腫的癲癇とか ぽんぽん悪 とか 物痴態とか アプリプリ とか ポステリヤキとか 超エッチ論的 とか 純粋異性の起立パイパン とか ベーコンエッグの持続性とか、そんな言葉、誰がわかるの??? わかんないミャ子の方があたりまえでしょ。気取るんじゃねー、糞インテリのボケッ!」これがパコ崎ミャ子さんのキャラではないかしら。イケるでしょ? あのね、ミャ子さん、悪いことは言いません、知性派キャラはあなたには無理、バカキャラの方がゼッタイお得です。「え、カントですかぁ? エッチィ♡」これですよ、これ! 



哲学はにわか勉強でやりくりできるものではありません。哲学好きは青年期からずっと哲学を読み続けているもの。にわかはすぐにバレる。知ったかぶりって恥ずかしいでしょ。知性派キャラはあなたには無理。他方、もしもあなたがバカキャラで当たればたちまちあなたはみんなの人気者、大金持ちになれるかもしれません。どうぞ、ミャ子さん、天下一品のバカキャラ芸を身に着けてくださいな。大丈夫、あなたなら必ずできます!






五感の愉しみの世界では自分の五感を根拠にする他、味わう術も風味を表現する方法もありません。つまり、この世界を楽しむことができるのは、自分の五感を根拠にできる人だけなんですよ。しかし、それはあなたにはまったくできないこと。なぜなら、あなたの認知のすべては(五感を経由することなく)あらかじめ言葉に絡みとられているから。したがって、あなたの経験はけっして経験にならない。おのずとあなたの言葉は蘊蓄をかき集めたハッタリになる。そりゃああなたがホラ吹きにもなろうというもの。さらに踏み込んで言えば、あなたはホラしか吹けない。口になさる言葉はすべて駄ボラ、すなわちあなたは逆説的意味で、きわめて正直者です。2014年の流行語に「嘘つきはオボカタのはじまり」というのがありました。いまや食べログ界では「嘘つきはパコ崎のはじまり」ですね。




なお、この時点ではぼくは「彼女」を(なにもかもがすべて怪しいな、と訝りつつもなお)実在の40歳女性であると信じていた。そしてまた「彼女」が五感を使えない理由は、「彼女」が言葉人間~chatGPT人間であるからだろう、と推理していた。ところがどうやらそうではなさそうなのだった。真実は、後半で明らかになる。



後半は、こちら(↓)。

こちら(↓)は、パコ崎ミャ子さん、フランス料理を食べに行く巻


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