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#16ことばの躍動感_古事記(下)
(#16ことばの躍動感_古事記(上)の続き)
『古事記』を読み返してみて、まず感じ入ったのは「音」の豊かさでした。例えば、伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)の国産みにおいて、最初に沼矛をかき回すときの「こをろこをろ(こほろこほろ)」というオノマトペを伴った描写ですが、実はこの場面、『日本書紀』では次のように、たいそう簡潔に記されています(※)。
矛を以(も)ちて、指し下ろして探りたまひ、是(ここ)にあおうなばらを獲(え)き。其の矛のさきよりしただる潮(しほ)、凝りて一島(ひとつのしま)に成れり。
『日本書紀』は純粋な漢文体で書かれていますので、オノマトペの使用は難しかったと考えられます。現代語においてもオノマトペの豊かさは日本語の特徴の一つです。それが既に『古事記』の語りに見出すことができるのです。
「いさちる」悲しみ、「とどろかす」踊り
『古事記』の描写はオノマトペ以外にも生き生きとした動詞が目を引きます。有名な天照大神(アマテラスオオミカミ)の岩戸神話、それに関連する須佐之男(スサノヲ)の描かれ方もその一つです。傍若無人な弟、須佐之男を見かねた天照大神は岩戸に隠れてしまい、世界が闇に包まれたというくだりは有名ですが、そもそも天照大神を困らせた須佐之男の感情表現も、その様子が目に見えるように描かれています。
須佐之男は伊邪那岐が黄泉の国から帰還した折、禊によって天照大神らとともに生まれた神です。父、伊邪那岐の言により海原を統治するはずが、父に追放を言い渡されます。その理由は母の伊耶那美を慕って泣いてばかりだからです。『日本書紀』で「常に哭泣(な)くを以ちて行(わざ)と為す」と記された箇所は『古事記』で「哭(な)きいさちる」という動詞で表されています。「哭泣」も「哭きいさちる」も激しい泣き方という点において同意義でしょう。しかし「いさちる」には直感的に私たちの肌を引き裂くような語感があります。
さて、閉じられた岩戸を開けるのに功を奏したのが天宇受賣命(アメノウズメノミコト)の官能的な踊りです。この場面、『日本書紀』では「巧みに俳優(わざおき)を作(な)す」とあるのみですが、一方の『古事記』では天宇受賣命が天香久山の小竹葉を持って「踏みとどろこし」、高天原が「動(とよ)」み、「八百萬の神共にわらひき」とあります。大地の振動までが聞こえてきそうな、実に心を揺さぶられる楽しい光景です。
ことばの躍動感と力
ここにわずかながら紹介した「こをろこをろ(こほろこほろ)」も「いさちる」「とよむ」も現代語では見られません。しかし、その語感は不思議と私たちの五感を揺るがします。このことこそが我が国の言語文化、つまり言語が文化を継承してきた証ではないでしょうか。
もちろん比較参照した『日本書紀』には独自の価値があります。また、ここで取り上げた『古事記』には、大和朝廷による地方の統治において悲劇もあったことでしょう。ただ、そのような政治的背景については、学習指導要領によれば、小学校高学年の社会科で学ぶことになります。国語科では『小学校学習指導要領解説編 国語科』で
第1学年及び第2学年では,まず,読み聞かせを聞くことで,伝統的な言語文化に触れることの楽しさを実感できるようにすることが大切である。話の面白さに加え,独特の語り口調や言い回しなどにも気付き,親しみを感じていくことを重視する。
と述べられるように、まずはその言葉そのもの豊かさやイメージの喚起力を味わうことができたら良いのではないでしょうか。そして、可能なかぎり『古事記』は原典に近いかたちで、声に出してというのが現在の私の思いです。
教室、学校、そして街は、今、ことばの躍動感にあふれた空間であってほしいと願います。
※『古事記』の引用は岩波書店、日本古典文学大系に、また、『日本書紀』の引用は小学館、新編日本古典文学全集によった。表記については読みやすさを考慮し、常用漢字、ひらがなにあらためたところがある。
【参考文献】
梅原猛ほか(2017)『古事記 日本の原風景を求めて』新潮社
エッセイは金曜日に発信します。
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