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“傷だらけ”の愛読書【自己紹介note】
はじめに
幸運な人間ではあるが、29歳にしてはわりと傷だらけな方だと思う。まず3歳で保育園中退してるし、小1か小2で少しだけ不登校だったし、小5で人生最大の不眠症になった(後の18年は一体……)。
今が越え時だな、と静かにひとりで自分を鼓舞しなければならない。そんな時はこれまで何度もあったのに、どうしてこうも楽しく生きてこれたのか。
本を読んできたからである。完全に思考停止して読めない時期もあったけれど(後述)、私は生まれてから今までずっと本と友達だ。
まるちゃん、人は必要な時に、必要な人としか出逢わないようになってるんだよ。まるちゃんから離れていく人が居ても、それは今のまるちゃんには必要の無かった人だから、自分を責める必要なんてないんだよ。 pic.twitter.com/qsQ0DKE9Np
— 優しいたまちゃん (@Hiro_uraaka8) April 22, 2024
本もそうだ。いつもの本屋でぼんやり歩いていたら、急にこちらに微笑みかけてくる表紙がある。引っ越したばかりのまちの小さな本コーナーで見つけた、気になってしょうがない1冊がある。
必要な時に必要な本に出会うーー本が人生の転機そのものになることもあれば、人生の転機を本が支えてくれることだってある。少なくとも私の人生はそうやってつくられてきた。
このnoteではそんな大事な本たちを、ほぼ時系列で紹介していく。その前に、中学生〜現在に至る経歴を書いておこうと思う(“エレファントカシマシ/俺たちの明日 ”の2番風に)。以降の文章を読んでくださる方々にとっては、私の生い立ちがざっくりとわかっている方が幾分読みやすいだろう。
経歴紹介
スナ めり子/私だけの昨日
中学生:部活に恵まれたけど教室ではひっそり本を開き
高校生:結構楽しい中でも違和感劣等感から離れられなくて
大学生:やっと「似た者同士の私たちだね」って肩を並べて
社会人:一気に落とされていったなぁ♪(酷い職場とアイドル沼に)
転職後:一念発起して引っ越したまちを好きになり
現在は:ドルヲタ卒業からの恋愛からの婚約破棄も悪くないって
あぁ 気づいたなぁ
結論。小学生より後の18年も、6割くらいは傷だらけだった。
これくらいの苦労は苦労のうちに入らないのかもしれない。貧困とか複雑な家庭環境とか、世の中もっと大変な人はいる。それに比べたら私は孤独だが、ひとりではない。家族や貴重な友人など、いつだって誰かがいるから。
他の人に比べて、ひとつひとつの出来事に衝撃を受けやすいのが私なんだろう。そんな感傷的な人間が、どんな本で形作られたのか。順番に振り返っていく。
銀河鉄道の夜
車窓からの幻想的な景色に惑わされないようにと、賢治の思いがキリリと立ち上ってくる。“ほんとうのさいわい”は、大人になれば薄々気づいて見て見ぬ振りをしてしまいがちだけれど、子どもは違う。ゼロか100か。全く興味を示さないか、賢治が問いかけるままに全てを受け止めるか。まだ幼くて正直すぎた私は後者。心に隠しもった鋭さを、自分にも他者にも容赦なくぶつけてしまった。
「ほんとうにみんなの幸いのためならば僕のからだなんか、百ぺん灼いてもかまわない。」
自己犠牲がある上で成り立つ皆の幸せ、というものに感受性がビンビンだった。「これから私、頑張らないといけないんだ」と素直に受け止めてしまい、今に至る。世界全体が幸福でなければ、個人の幸福などあり得ないとまで言い切った、賢治の思想は私の職業選択(福祉職)の背景にもなっていると思う。
大人になった今、“からだを百ぺん灼く“とはどういうことなのか、もつれた糸を少しずつ解きほぐすようにわかりつつある。灼いているのは私だけではない。福祉や対人支援の仕事をしている人だけでもない。
皆それぞれ心身のどこかを焦がし、だんだんと自分を犠牲にしながら、それと引き換えに自分が欲しいものを手に入れている。けしてそんな風に見えない誰かだってそうだ。
自分だけではない“みんな”に目を向けることこそが、賢治が人生をかけて伝えたかったことだと思う。
「おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなきゃあいけない。」
賢治が逝去し永遠の未完である『銀河鉄道の夜』は、出版社によって編集が異なっている。この言葉は、大人になってから知った。子どものうちに読んでおきたかったのだけれど。
私は「おまえの切符」を、都合良く解釈している。この世に生まれた誰もが自分にしかない使命を持っていて、それを果たすべく学び続けることが生きること。文脈的にはそう読めるけれど、もうひとつ付け足したいのが“幸せの切符”だ。
使命を持っているとはいえ、それは自分自身の幸せの範囲を越えない大きさで果たされるものだと思う。何事もほどほどに。やるべきことをやりすぎないでいるのが、自分を幸せにするコツだよなぁと思う。
自分が何をすれば他者が幸せになるだろう?この答えを追求すること、そしてそれ以上に(割合で言うと4:6)自分を大切にすること。“やるべきことの切符”と“幸せの切符”この2つを持ってひたむきに進め!そうすればみんなの「ほんとうのさいわい」に近づくから!賢治はこう言いたかったんじゃないか。
『銀河鉄道の夜』だけではなく、私は賢治の色々な作品に影響を受けている。信仰心みたいなものを意識するようになったのも彼の影響があると思う。
そして、「コンビを推しがち」というオタクとしての姿勢(?)も。ついつい、胸熱コンビをジョバンニとカムパネルラに当てはめがちなのだ(意外にも私のオタクの原点は賢治だったりして)。
きみの友だち
中学時代の女の子ってどうしてあんなに刺々しているのだろう。もれなく私もそのひとりだったわけだけど、刺々しくなる方向性の違いで脱退&ソロ活動という2年半だったわけでした(アイドルかアーティストか、くらいの違いがあったかもしれない)。
私の孤独の原点は、あの閉鎖的な田舎まちの小さな学校の、埃臭い教室にある。あの時代があったから人の痛みがわかる人間になれた、と大人になった今では思えるけれど、当時は「人生詰んだ……」くらい思っていた。
でも主人公恵美ちゃんは教えてくれた。
「わたしは、一緒にいなくても寂しくない相手のこと、友だちって思うけど」
“みんな”って何なの?私は“みんな”を信じない。いなくなっても忘れない友だちがひとり、いればいいんだよ。
恵美ちゃんの中学生とは思えない信念が、私を意志の強い人間にした。
ひとりでいることは悪いことじゃないんだ。みんなの前ではひとりだったとしても、信頼のおける友人がひとりいればいい。たとえいつも会えなかったとしても。
仲の良い友人こそ、いつもいつも連絡を取り合わなくていいなと思う(久々LINEしたら、例えば子供が1人増えてるとかあるかもしれない)。連絡しなくたって寂しくなくて、近くにいなくてもお互い毎日楽しく過ごしてる。その分、会った時のお土産話に花が咲く。
もしも今、教室で孤独なあなたがいるとしたら、どうかそのままでいてほしい。周りに合わせるのも楽しめるなら良いけれど、息苦しくて無理!ならそのままのあなたを大事にしてほしい。
きっと大丈夫。孤独の大切さがわかる日がきっと来るから。そんなあなたと気の合う人は、世界のどこかに必ずいて、出会えるようにできているから。
すべて真夜中の恋人たち
どれだけ言葉を尽くしても、私たちは完全に分かりあうことができない。
わたしたちはお互いにお互いを構成するものをすこしずつ交換しながら、わたしは三束さんの記憶につまさきをそっと入れていく思いだった。
相手のことをもっと知りたいけど、知るのが怖い。知ってしまったら、相手が過去に経験してきた悲しみや孤独、誰にも言えなかった辛さを疑似体験することになる。「そんな寂しい思いをしたんだね」「泣かないで強く生きてきたんだね」胸の真ん中がきゅーっと搾り取られるみたいになる。
今よりも若い時代の相手が自分の知らない世界を生きてきて、自分とは違う生い立ちがあることを知るのが怖い。だって聞いたら苦しくなるから。ーーそんな想いを抱くのなら、まだ愛ではなくて恋なのだ。
この本は“恋の極論”だな、と感じる。
大学時代によく、目的もなくぶらぶらしていたジュンク堂。ある日突然、深い藍色の表紙が発光していた。こっちこっち!おいで!と聞こえた気がして、当たり前のように引き寄せられた。「すべて 真夜中の 恋人たち」どう解釈したら良いのか不思議なそのタイトルは、手にはもちろん吸い付かなかったけれど心の琴線にすぐに住み着いてしまった。
初めて文学を美しいと感じた。川上未映子氏の作品には「読む」というより「感じる」文章が並ぶ。ストーリーを追いはするけれど、自分のすぐ隣に小説の世界が立ち上ってくる感じ。目には見えなくてもすぐそこにある、不完全で脆く切ない世界の気配を、肌で感じるような小説だ。
言葉にならない言葉を風景として、または音として表現するとはどういうことか。それを知りたければ“すべまよ”を読んでほしい。主人公の冬子は間違いなく光の中にいたし、ショパン「子守歌」を聴きながら夢の中にいた。人生の一瞬ではあるけれど、彼女は光と夢の中で幸福だった。
ちなみに私は冬子に似ているらしい。読了した3人中2人に言われたからきっとそうなんだと思う。
不器用で夢見がち……まずはそんな自分を肯定すること。そしてもしもこの先、厚い雲の切れ間にそっと浮かび上がる、閑静な巡り逢いがあるとしても……記憶の片隅にそっとつま先を入れるように恋して愛していけば、たぶん怖いことはない。
野心のすすめ
この本に出会ったのは『すべて真夜中の恋人たち』からだいぶ時が経ってしまった、25、6歳の頃だ。
『すべまよ』からの空白期間はというと、2つの意味でしっかり思考停止していた。ひとつは、“教育といじめの絶妙な境目を狙ったパワハラ”のターゲットとして。もうひとつは“アイドルの輝きに人生の価値を見出しすぎた”ヲタクとして。この時期はほとんど本を読んでいない(スマホが親友だったので)。
『野心のすすめ』に魅了された時期は、ちょうど転職したての頃。現役ヲタクだったものの絶妙なパワハラからは解放されていた。
自分の力で人生を変えられたタイミングでこの本に出会えたのは、幸運だったと思う。「どんな大人になりたいか。どんな女性になりたいか」転職して満足するのではなく、もっと先のことを考えるにはこの本がなくてはならなかった。
でも、私は思います。「若いうちの惨めな思いは、買ってでも味わいなさい」と。
林真理子は現在進行形で苦労してる(どんな報道をされたとしても、何が真実だったとしても、私はこの方の書いたものと思想が好きなままだ)。もちろん若い頃も壮絶な苦労をした。でも諦めなかった。ボロアパートで食パンかじりながら、「女のフルコース」(仕事・結婚・子育て)を絶対に諦めなかったのだ。
若い頃の苦労は買ってでもすること、は本当だ。実際私自身も、最初の職場での経験があったから今の職場で「あれに比べたら天国!」と何度思えたことだろう。閉鎖的で活気のない地元での惨めさと引き換えに、利便性のある住みやすい土地での、愛しい生活を手に入れたのだ。そう考えたら、今もあの職場に閉じ込められている女たちに感謝までしたくなる(いやしないけどさ!)。
忘れてはなりません。空の上から自分を見ている強運の神様の存在を。強運の合格点を貰うには、ここぞというときに、ちゃんと努力を重ねていなければならないことを。
やればやるだけ景気も雰囲気も良くなった昭和世代(あくまで想像だが)に比べ、平成世代は努力の仕方がわからないだろう。やっても報われないことも多々あるから、という理由ももちろんある。でもそもそも私たちは努力よりも「思いやり」を教えられた。“他の誰よりも頑張ってできるようになった”よりも、“楽しんでやってたらいつのまにかできていた”に憧れを抱きがちな世代でもある。
そんなゆるりゆったりゆとり世代にとって、『野心のすすめ』は少し胡散臭いかもしれない。
それでもどうか、野心の匂いをよく嗅いでみてほしい。スパイスの効きすぎたカレーは毒でも、辛みの種類ひとつひとつに罪はなく、上手く利用すれば旨味の本質になる。その利用方法、つまり具体的な努力の方法は、はあちゅう『半径5メートルの野望』が教えてくれるから大丈夫(ちなみに文庫本の帯は林真理子が書いている)。
一般的に、野心という言葉にはあまり良いイメージがない。実際林真理子だって、野心を抱いたがゆえにここ数年は日大理事長として苦労してるじゃないか。だからやっぱり野心は良くないーーそう考える人もいるだろう。
でも、だからこそ面白いのではないか。野心を持つことを読者に勧めておきながら、人生の後半でも己の野心に四苦八苦する彼女。もしかして神様が仕組んだネタじゃない?って疑うほど面白い。彼女の家系は長生きみたいなので、90歳くらいで「理事長やって後悔はないわ〜」と話すところを見てみたいなと思う。
そんな私も己を恥じず、“分不相応な美しさ”を明日に進むための灯火として生きていけたら。
エッセンシャル思考
「自己啓発本はこれだけを読んでください」この一言に尽きる。
人生を凝縮するということは、結果に対する行動の比率を減らすということだ。そのためには、いくつもの無意味な行動をやめて、重要な行動ひとつに置き換えればいい。
『エッセンシャル思考』が伝えたいことは上記の通り。最も大事な結果(人生の目的)を選び取り、なるべく少ない行動で目的を果たす。「今やっていることは、目的達成に必要か?本当に自分のためになるのか?」と俯瞰して、行動を修正する。
やるべきことが多すぎてそんなの無理、という人も一度素直に、この本を開いてみてほしい。
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この本の良いところは、まず何といっても目次が簡潔で見やすいところ。開いた瞬間、各章のテーマがパンッと視界に飛び込んできて、直感的に「今あなたに足りないのはこれだよね?」と語りかけてくる。
集中は向こうからやってくるものではない。だから、集中できる状況に自ら飛び込んでいくことが必要なのだ。
エッセンシャル思考の人は、睡眠を武器だと考え、自分の力を引き出すために活用している。
ただの自己啓発本として情報を入れるのではなく、むしろエッセイを読む時の心弾むような感覚で読めるのは、著者のワードセンスが光るから(翻訳も良いのだろうね……また面白そうな本を訳してるからついついリンクを貼ってしまう)。「集中に飛び込む」「睡眠を活用する」思いも寄らない言葉の組み合わせは、もはや文学だなと思う。
この情報と雑音とストレスと虚栄に満ちた世の中にあって、エッセンシャル思考を生きることは、静かな革命である。
「こうすれば成功する」とか「お金持ちはみんなやってる」みたいな小手先のテクニックを身につけるよりも、まずは寝てください。非力な私たちが起こせる、数少ない革命のひとつは、布団に入って夜の静寂に浸ること。しっかり休んだ自分を誇りにしようじゃないか。
加えて著者は「1万時間の法則」を否定している。とにかく量をこなすことが努力ではない。正しく休んで、一番大事なことに的を絞ることこそが、変化の激しい時代を生き抜くための努力なのだ。そう言われると、嬉しくなった。私は以前から、1万時間やれば誰でも成功するなんてあるか〜?と疑問に思っていた。努力“量”はなんだかノルマみたいで嫌。“質”を磨く方が楽しいじゃんって。
くどいけどもう一度言います。本当に自己啓発したいなら、この本だけで十分です。
悲しみの力
この本に出会わなかったら、私は今頃一体どうやって生きてたんだろう。
悲しみの正体は、過去にも今にも未来にもある。先祖から受け継ぐ悲しみも、今の自分が心惹かれる芸術や人物の中にも、「(理想とはかけ離れた世界に住んでいるけれども)こうなりたい」という価値観の中にも。
喪失感の霧の中で、自分の過去ーそして未来ーについての新しい物語が見えてきた。
この長〜い長いnoteを先日書き終えて思うのは「この著者の自分語りがすっと胸に沁みていくのはどうしてだろう」ということ。自分語りをする発信者は嫌われる、と思い込んでいる私。noteはエッセイよりも「知恵の共有の場」っぽいなぁと感じている。私の自分語りなんて需要ないよなと。
ただ、今この文章を書いていて気づいた。「エピソードを惜しみなくさらけ出す」のと「自慢を徹底的になくして、弱さや失敗などなど格好悪いところを書きまくる」のが良いのかもと。少なくともスーザン・ケインの文章はそうだった。母の性格や夫のケンさんのことを惜しみなく書いているし、初対面の人に囲まれているのに「ティッシュ何十箱分の大泣き」をした場面も、母に対してやってしまった大きな過ちも、容赦なくさらけ出している。
私も「婚約破棄⭐︎総決算」みたいな記事書こうかしら(笑)。いいかも。と、こんな風におどけて言えるようになったのも本書『悲しみの力』のおかげです。ありがとうスーザンさん。
おわりに
書きたいもの、書かなきゃいけないことがある。辛酸を飲み込んで消化するまでにどれほど時間がかかったとしても、いつか必ず「絶対に書かねば」と思うようになる。大人になってパソコンを持ち、noteを始め、小説を書き、またnoteに戻った今。子ども時代よりも圧倒的に書くスピードが上がり、書いたものが積み重なっている。
でも、子どもの頃に向き合った、今はもうどこかに行ってしまったノートは私の原点。まだ研磨される前の(今だってけして輝いているとは言えないけれど)鉱石。それはアンネへの“どうにもならない歯痒さ”なのだった。
アンネ・フランク
彼女のたった15年の人生を何度読み返したことだろう。私は彼女を通して初めて「母と娘」の難しさに触れたし、友だちの初恋を応援する気持ちと、人種差別を知った。
生き残っていてほしかったけれど、彼女が残した日記がなければ、私は書くことの喜びを知らないまま大人になっていた。
やるせなさや怒りを感じても良い。それでも、自分の力ではどうにも変えられない世界があるのだと受け止めて、前を向く。
大人にとって一番大切かもしれない力を教えてくれたのは、アンネなのである。
そして、「なんとしても書かねばならない世界がある」この絶えることのない情熱を教えてくれたのも他ならない、彼女なのだ。