総社ジャーナル@note

「総社ジャーナル」は近畿大学総合社会学部の新聞制作実習生が手がけてオープンキャンパスで配布した情報紙です。学生が何に関心を持ち、どんな思いで過ごしているのかを多くの人に伝えようとweb版を創刊しました。元新聞記者の教員(二木一夫)が担当する現代新聞論ゼミに所属する学生が書きます。

総社ジャーナル@note

「総社ジャーナル」は近畿大学総合社会学部の新聞制作実習生が手がけてオープンキャンパスで配布した情報紙です。学生が何に関心を持ち、どんな思いで過ごしているのかを多くの人に伝えようとweb版を創刊しました。元新聞記者の教員(二木一夫)が担当する現代新聞論ゼミに所属する学生が書きます。

マガジン

  • シリーズ「二十歳の頃」2024

    現代新聞論ゼミ(近畿大学総合社会学部)の2年生が、年上の知り合いに二十歳の頃はどういう生活をしていたのかを尋ねたインタビュー集の第2弾です。今回は、2024年度のゼミ2年生の作品です。立花隆さんの東京大学ゼミ生が手がけた『二十歳のころ』には及びませんが、相手の話に学生が耳を傾けて聞き書きしました。

  • 私の推し2023-2024

    23年度後期の基礎講読(ゼミのようなもの)の受講生がそれぞれ気になる人に話を聞きました。

  • 創刊号

    • 3本

    web版「総社ジャーナル」がコロナ禍の中、この春スタートします。創刊号は、新聞制作実習の授業を受けている近畿大学総合社会学部社会・マスメディア系専攻2年生が取材した記事を掲載します。

  • 根ほり葉ほり

    関心を持った出来事を学生たちが細かくしつこく徹底的に調べます。「根掘り葉掘り聞く」は英語でいうと、<ask somebody about every detail of something>。ディテールを大事に、何もかも聞き出すという意味です。実はこの「根ほり葉ほり」という言葉、、二木が駆け出し記者時代の地域面にあったルポルタージュ記事のタイトルでした。暴力団抗争時の組長インタビューや風営法改正時の風俗店潜入取材など、体を張ったこともしましたが、<detail>の大切さを知りました。学生がどこまで食い込めるか、を見て下さい。

  • 私の現場

    ゼミ生たちが大切にしたい「現場」を歩きながら、考えたこと、思ったことをつづります。

最近の記事

二十歳の頃2024(15)恩師にきく

インタビューしたのは、自営業で英語教室をされている、S.A先生。私は小学1年から高校3年まで12年間お世話になった。先生が20歳の頃は1991年から1992年にかけての日本ではバブルが崩壊した時期。先生はその頃、アメリカ留学中だった。留学生活の話を中心に聞いた。(聞き手・山森みず季=2年) ――20歳の頃、何をしていましたか ちょうど大学を転校するタイミングやった。初めの2年間は、2000人ぐらいの規模の私立大学に通っていて、4万人規模の州立大学に編入することが決まったの

    • 二十歳の頃2024(14)父にきく

      インタビューしたのは私の父、59歳。中古車業を営んでいます。父は少し常識外れのところはありますが、人とのつながりを大切にしていて、相手を思う面倒見の良さがあります。年齢を問わず、父のまわりには人が集まります。(聞き手・楠本実玖=2年) ――二十歳の時、どこで何をしていましたか 高校を卒業してから、地元の建材の卸屋さんに就職して、1年ほど働いていた。父の建材会社を継ごうと思って、そこで修業する感じで。その時に父の会社が倒産したから、好きな仕事をしようと思って、そこをやめたん

      • 二十歳の頃2024(13)祖母にきく

        私が話を聞いたのは、今年80歳になる祖母。ガーデニングを楽しみ、80歳とは思えないほどアクティブだ。兵庫県小野市で生まれ育ち、私が小学生になるまで喫茶店を経営していた。孫にとって、小さい頃から甘やかしてくれる優しい祖母だ。インタビューには祖父も同席した。(聞き手・井上未来=2年) ――20歳の頃、何をしていましたか 何しとったか覚えてへん。仕事ばっかりしてたんちゃうかな。まだ結婚してなかったはず。働いてばっかりやった。イオンみたいなところでレジをしていた。今のような自動レ

        • 二十歳の頃2024(12)母にきく

          私の母にインタビューした。1972年生まれ、広島県呉市で育ち、短大を卒業したのち、自動車メーカーのマツダに就職した。現在は保育士として働いている。(聞き手・古角夏穂=2年) ――20歳の頃、何していましたか 短大の2年生。情報処理を学んでいて、今はITとかすごいでしょ、それのはしりだったの。データベースについて研究していて、研究室の先生はマツダにいた人。マツダ病院のカルテを電子化する情報システムに携わっていて、そこから引き抜かれた人。話を聞いていて、マツダに入りたいなと思

        マガジン

        • シリーズ「二十歳の頃」2024
          15本
        • 私の推し2023-2024
          8本
        • 創刊号
          3本
        • 根ほり葉ほり
          4本
        • 私の現場
          1本
        • 8B研究室から(仮)
          4本

        記事

          二十歳の頃2024(11)幼なじみのお母さんにきく

          インタビューをしたのは、私の幼なじみのお母さん。1973年生まれ、現在は小学校の先生として働き、3人の子どもがいる。大学時代、文学部の心理学科に所属していた。(聞き手・福永紗子=2年) ――二十歳の頃は何をされていましたか 1浪したから、二十歳を迎える年(1993年)に大学1回生になった。 ――当時、女性の4年制大学への進学率が低いのですが、進学に関してご両親から反対はありましたか 全然反対されなかった。母親も4年制の大学に通っていたから、反対はなかった。「やりたいよ

          二十歳の頃2024(11)幼なじみのお母さんにきく

          二十歳の頃2024(10)ラジオDJ・落合健太郎さんにきく

          今回取材させていただいたのは、ラジオDJとして活躍されている落合健太郎さん。大学受験の時に落合さんのラジオに支えられた経験があり、今回取材をお願いしました。落合さんは1974年生まれ。お父さんの仕事のため小学5年生から大学までアメリカで過ごし、帰国後は2000年からラジオDJとして活躍。現在、FM802の「ROCK KIDS802 OCHIKEN Goes ON!!」と「Chillin’ Sunday」の2つの番組を担当し、Apple Musicのラジオ番組「J-Pop No

          二十歳の頃2024(10)ラジオDJ・落合健太郎さんにきく

          二十歳の頃2024(9)楽器店経営者にきく

          インタビューをしたのは、楽器店を40年間経営する西川武司さん。1964年生まれ、出身は京都府。4歳の頃に滋賀県に移住した。大学中退後、レコード会社で1年間アルバイトをしていたが、1984年3月、滋賀県内で父親と「リッツ楽器」を開いた。その後、楽器店を経営しながら、県内の高校の軽音楽部をサポートしている。私も高校時代にお世話になり、オリジナル曲の作り方やバンド演奏に多くのアドバイスをいただいた。私にとって高校時代の恩師といえる人だ。(聞き手・林家朋哉=2年) ――二十歳の頃、

          二十歳の頃2024(9)楽器店経営者にきく

          二十歳の頃2024(8)恩師にきく

          私がインタビューしたのは、高校3年間、学年主任だった西村香織先生。大学受験の時期に日本史を教えてもらい、私の学習計画を立てていただき、個人的にもお世話になりました。冷静に物事を判断する先生で、プライベートの話をしたことがなく、私と同じ20歳の頃のお話を聞こうとインタビューの相手に選びました。(聞き手・樋口穂夏=2年)  ――20歳の頃、何をしていましたか 大学の史学科で、考古学を学んでいました。中3の修学旅行で九州の吉野ケ里遺跡(佐賀県)に行ったんですよ。発掘で、柱の穴し

          二十歳の頃2024(8)恩師にきく

          二十歳の頃2024(7)父にきく

          私の父はどんな人か、と聞かれると、いつも優しい人と答えます。私や母に甘く、買い物に連れ出して、数時間荷物を持たせても一つも文句を言いません。私が遅くなって歩いて帰ることになると、いつもは寝ている時間でも必ず車で迎えにきてくれます。私は、そんな父が大好きなのですが、思い返せば父の話を聞いたことがありません。今の仕事や若い頃のこともほとんど知りません。父は今年62歳。自分のことを聞かれるのは好きではないでしょうが、これを機会に話を聞きました。(聞き手・桑田留奈=2年) ――20

          二十歳の頃2024(7)父にきく

          二十歳の頃2024(6)祖父にきく

          話を聞いたのは母方の祖父。1943年生まれ。80歳を過ぎた。祖父の父の仕事の関係で幼少期は中国で育った。戦後は大阪で過ごし、京都の私立大学の法学部を卒業した。いつも穏やかで、わたしにとっては、やさしいじいじだ。(聞き手・杉本穂乃香=2年) ――二十歳の頃は何をしていましたか 大学2年生だったかな。当時は、高卒が多かった時代。でも、やりたいこともなかったので、高校を卒業して就職するより、とりあえず大学に進学して、そこからやりたいことを決めていこうと思って進みました。 ――

          二十歳の頃2024(6)祖父にきく

          二十歳の頃2024(5)オタクの人にきく

          インタビューしたのは、私と同じゲーム好きのネット仲間、百瀬次郎さん(仮名)。2023年4月、さいたまスーパーアリーナで開催された「アイドルマスターミリオンライブ!」のライブで出会い、仲良くなったオタクの人である。1991年6月生まれの33歳、群馬県で生まれ育ち、理学療法士をしている。ライブ会場で会うほか、X(旧Twitter)でやりとりすることが多い。もっとこの人のことを知りたいと思い、オンラインで話を聞いた。(聞き手・中西理雲=2年) ――二十歳の頃、何をしていましたか

          二十歳の頃2024(5)オタクの人にきく

          二十歳の頃2024(4)祖父にきく

          話を聞いたのは母方の祖父。1938年山口県生まれ。戦争中の幼少期は旧満州(中国東北部)で育った。一番長く勤めた会社は菓子メーカーの不二家だという。【聞き手・指宿奏良=2年】 ――二十歳の頃、何をしていたか教えてください 高校を卒業して、静岡の製缶会社で働いとったわ。日本で2番目ぐらいに大きい会社。作ったカンカンをギュッと加工して四角にして、それを海外に輸出していた。1年ぐらいでやめてもうたけどな。 ――退職して何をしていましたか 知り合いのところで曳屋(建造物を解体せ

          二十歳の頃2024(4)祖父にきく

          二十歳の頃2024(3)中華料理店長にきく

          インタビューしたのは、私のアルバイト先の大阪市天王寺区にある中華料理店「蘭亭」で店長を務める芝田英則さん。49歳。腕は一流と誰もが認める料理人は、腰が低くユーモラスで親しみやすい一面を持つ。いつも地元の人でにぎわう店内で鍋を振っている。(聞き手・宮下陽菜子=2年) ――料理人になったきっかけを教えてください 料理は好きやったわけではないんですよね。中学を卒業してすぐ働こうと決めていた。兄が和食の道に進んだので、違う道にしようと思って中華に。当時は手に職をつけるべきという風

          二十歳の頃2024(3)中華料理店長にきく

          二十歳の頃2024(2)高校の恩師にきく

          インタビューしたのは、兵庫県宝塚市にある私の母校、雲雀丘学園中学・高校で教頭を務める道北秀寿(みちきた・よしひさ)さん。数学教師。1976年生まれ、兵庫県豊岡市出身。大阪大学基礎工学部卒。2019年に文部科学省優秀教職員表彰。新しいものが好き。(聞き手・森田真央=2年) ――二十歳の時、どこで何をしていましたか 大阪で大学生をしていた。長野オリンピック(1998年2月)があって、見に行きたかったけど、試験期間だったから行けなかった。試験の勉強中にオリンピックを見ていたよ。

          二十歳の頃2024(2)高校の恩師にきく

          二十歳の頃2024(1)恩師にきく

          インタビューしたのは、小学6年生の担任だった吉村修一さん、39歳。優しく時に厳しく指導する人気者の先生。休み時間にはよく遊んでくれた。同僚の先生からも頼りにされていた。話を聞いている時、二人の子どもを楽しそうに自慢する姿が印象的だった。(聞き手・清水美奈=2年) ――二十歳の頃の夢は何でしたか  ないない(笑)。教育学部を選んだけど、教師は夢ではなかったなあ。  ――なぜ教育学部に進んだのですか 目標を持って取り組むタイプではなかってん。でも勉強はそこそこできた。理系

          二十歳の頃2024(1)恩師にきく

          「無駄な仕事はない」元CMプランナーの大学教授、最後の言葉

           広告最大手・電通のコピーライター、CMプランナーとして活躍した大学教員があす31日、定年退職する。近畿大学総合社会学部教授の山本良二さん。36年間携わった広告制作のやりがい、一転して若者を指導する立場になったおもしろさを聞いた。【2年・大和倖太郎/2024年3月30日記】 広告業界を志したきっかけ。「広告論」を受講したこと  大学3年生の時に受けた「広告論」という授業は、テレビ局に勤務していた方が広告やマーケティングを講義するというもの。その講師が「日本で唯一、世界一の

          「無駄な仕事はない」元CMプランナーの大学教授、最後の言葉