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二十歳の頃2024(9)楽器店経営者にきく

インタビューをしたのは、楽器店を40年間経営する西川武司さん。1964年生まれ、出身は京都府。4歳の頃に滋賀県に移住した。大学中退後、レコード会社で1年間アルバイトをしていたが、1984年3月、滋賀県内で父親と「リッツ楽器」を開いた。その後、楽器店を経営しながら、県内の高校の軽音楽部をサポートしている。私も高校時代にお世話になり、オリジナル曲の作り方やバンド演奏に多くのアドバイスをいただいた。私にとって高校時代の恩師といえる人だ。(聞き手・林家朋哉=2年)

――二十歳の頃、何をしていましたか

近畿大学の短期大学部を中退して、楽器屋を経営し始めたばかり。その頃、短期大学部は2部制で夜間に通っていたから、帰りは毎日終電ギリギリやった。だから1年の夏でやめちゃって、それからレコード屋さんで1年ちょっと働いていたんやけど、音楽教室をやっていた親父が急に「楽器屋やりたい」って言いよって。素人にできるわけがないと猛反対したけど、どうしてもやるっていうから、しゃあないなと思った。それがちょうど二十歳になったとき。俺が2月生まれで、3月から店を始めたから。

――うまく楽器屋をやっていけましたか

 毎日、けんか(笑)。親父はピアノをメインで売ったり、取り扱ったりする楽器屋をしたくて始めたものの、ギターとかライトミュージックといわれる分野の楽器も売っていた。俺はどちらかというと、そういう楽器の方が詳しいから。2年くらいするとライトミュージック系の楽器がメインになってきて。新品のピアノを売るのは厳しかったけど、ギターはなんか知らんけど、どんどん売れて、そっちの売り上げが主体になった。親父に社長の肩書は残っていたけど、切り盛りしていたのは俺だった。

――1人で切り盛り、20代前半ですごいですね

あの人(父親)は、自分が経営する音楽教室でピアノの先生やったからね。商売人ではなかった。俺は23歳で結婚して、嫁さんが手伝ってくれた。そこから経営が少し波に乗ってきて、1人、2人と従業員を増やした。

――モチベーションは何でしたか

楽器を売るというより、音楽を若い人たちに広めたかった。音楽を生活に取り入れてもらうことで幸せになりますよ、という理念は今も変わらない。だから、楽器の売り上げが伸びると、自分の思いが届いていると感じた。売り上げが一つのバロメーターみたいなもの。高校の軽音のサポートをするのは、その理念があるから。

――経営に成功した秘訣は何ですか

ちゃんとした優秀な経営者なら、もっと右肩上がりだったかもね。ただ、ピークから落ちた時に気づいたことがあった。上り調子の時は、なんでも自分がやらなければいけないと思っていた。オーナーという立場からのプレッシャーだったと思うんだけど、何もかも自分が責任をかぶらないといけないと思っていた。従業員が増えてきて、その人に任せることも大事とは思っていたけど、行動に移せなかった。ほっといたら失敗しそうやし、すぐ口出ししちゃう感じだった。でも、言われる側からしたら、信用してもらっていないと思うよね。俺、雇われたことないやん。最初から自分で作ってやってきたし。アメとムチの使い方が本当に下手だった。上向いているときは気づかないことが多いなって感じた。

――お父さんも大変だったでしょうね

バイショーって言葉知っている? ミュージシャンとしてだけでは生計は立てられんけど、キャバレーとか夜の飲み屋のお店にバンドが入って、演奏したり、お客さんが歌うためにバックバンドで演奏したり、今でいうカラオケみたいな。うちの親父もそれしていて、昼は音楽教室の先生をしていて、夕方になったら町に出かけて、夜のお店でバンド演奏して朝方に帰る生活の繰り返しやった。親父とよくケンカするっていうていたけど、親父を認めているところは、どれだけ熱が出ていようが、しんどかろうが、休まず仕事をしていたところやな。最近の子は、体調不良で休みますというけど、特にこの世界はそういうのに厳しいから。無理強いはできんけど(笑)。休むことは仕方ない。けどさ、休まなあかんくらい、しんどくなるまで体調管理を怠っていたことは責められるべき。お金の面でも信用という面でもすごい損害を被るよ。お客さんの信頼を失うことは商売人として一番アカンこと。

――プライベートな悩みはありましたか

今は大学を続けていたらよかったと思うけど、その頃は全く思わなかった。大学に行ってチャラチャラ遊んでいる人もいたけど、当時は高校を卒業したらそのまま働く人も少なくなかった。その人たちの方がしっかりしていた印象だった。でも今になったら、大学で自分のやりたいことにもっと没頭したかった。結婚するまでは、店の経営を右肩上がりにすることしか頭になかったから、遊んでもいなかった。お嫁さんになる人とデートに行くくらいやったなぁ。若いうちはいろいろ楽しんでおくべきよ。
交友関係も全部音楽関係の人ばかり。普段の付き合いは100%音楽関係。生活自身が楽器であり音楽やったんやろうね。当時は高校のバンドメンバーやバイト先のレコード会社のつながりばっかりやな。

――高校時代にバントを組んでいて、プロのミュージシャンを目指したいとは思わなかったのですか

どちらかというと、自分が表舞台に立つより、そういう人をつくりたいと考えていた。プロデュースとか。レコード会社で働いたり、テレビ局で何かをつくったりとかしたかったな。でも、20歳の時に親父が店をやるっていうから、やるしかないと思って。

――高校生をサポートするのはなぜですか

高校の軽音部で作曲をサポートするのは苦じゃなくて、むしろ昔やりたかったことを、若い人たちと一緒にできて楽しいんよね。仕事というより半分趣味。20歳の頃にやりたかったことが今できている。楽器屋は、裏方の仕事の中でもお客さんに対して最前線にいると思う。ライブのスタッフは接する人がプロなどに限られるやん。でも、楽器屋は、楽器の初心者とも関われる。俺はそこに魅力を感じた。新しい可能性のある人に接することができる。無限の可能性があるミュージシャンのお手伝いができる。そう思ったときに裏方に徹しようと思った。それが二十歳すぎかな。そこに気づくまではしんどかったな。

――もうすぐ二十歳になる人にアドバイスをください

失敗を恐れないこと。人の道から外れることは絶対ダメやな。「至誠」という言葉があるんやけど、それを意識して守り抜いてほしい。俺だって今でも失敗するし、いろいろな人に迷惑をかけてしまうけど、二十歳の時の気持ちに立ち返って、まだまだここからスタートしないとなって思う。でも身体がそれに追いつかなくて(笑)。今やからできること、やりたいこと、大人になってこれしといたらよかったなって思うことを少しでもやっておくことやな。

【インタビューを終えて】
高校時代から音楽の話しかしなかったので、ここまで長い時間をかけて、西川さんにいろいろと話を聞くのは不思議な感覚で緊張した。インタビューの途中、西川さんの声色や表情から感情の起伏というか、思いのこもっている部分がはっきりと伝わってきたのが興味深かった。その人ならではの話し方をつかんで話を聞くと、より内容が入ってきやすく面白い。周りをよく観察することの面白さに気づけた。恩師のエピソードを聞いて、思い立ったらやってみようという行動力と、一つ一つの決断にポリシーを持つことの重要性を感じた。私も音楽を親しむ一人の人間として、西川さんの理念を受け継ぎ、それを貫きたい。(林家)