二十歳の頃2024(1)恩師にきく
インタビューしたのは、小学6年生の担任だった吉村修一さん、39歳。優しく時に厳しく指導する人気者の先生。休み時間にはよく遊んでくれた。同僚の先生からも頼りにされていた。話を聞いている時、二人の子どもを楽しそうに自慢する姿が印象的だった。(聞き手・清水美奈=2年)
――二十歳の頃の夢は何でしたか
ないない(笑)。教育学部を選んだけど、教師は夢ではなかったなあ。
――なぜ教育学部に進んだのですか
目標を持って取り組むタイプではなかってん。でも勉強はそこそこできた。理系の方が点数よかったから、とりあえず志望を工学部にして、担任と「(進路)どうするー」ってなったときに「別に工学部行きたくないねんけど」って。学力のある程度高いところに行ったら、その先の選択肢で何とかなるかなと思っていて。高校の友達に勉強を教えていると「数学の先生より、お前に教わった方が分かりやすいわ」と言われていたから、担任が「お前、教えるのうまいねんからそういうとこいったら」って。機械と触れるより人と触れる方がおもろいと思った。大阪教育大学が(学力的に) いいぐらいで、大阪は都会でいいやん。それで受けてみて合格したから教育学部に。
教育学部は単位がとりやすくて、勉強しやんくてもいけたから、ゆるゆるの大学時代を過ごした。3回生の教育実習が迫るまで、教員になるという意識がなかったかも。
――熱意を持って先生になったと思っていました
目の前にいる子どもに、授業おもんないみたいな顔されるの嫌やし。子どもが大事という気持ちは半分あるけど、ほかの半分は与えられた環境の中できちんとできていたい。リスペクトされたい気持ちがあるから。だから、きっちり、やるべきことをやる。一職業として、プロフェッショナルの仕事をしたいというほうかな。
――二十歳の頃、一番楽しかったことは何ですか
勉強以外! ダンスサークルに入っていたから、毎日ダンスしていた。サークルが100人いたから、毎日、誰かが家にいた。
――悩みは何でしたか
ひたすら楽しかったもんなぁ、大学は(笑)。強いて言うなら、(人数が)多かったんよ、サークルが。だから派閥みたいなのができて、そういう中でもめたりしていた。自分はある程度みんなにいい顔していたけど。ネコかぶっているというか。楽しくしながら、しんどそうな子に声かけるとか、なじめん子がいたら「大丈夫?」と話しかけたりしていた。
今、職員室にはいろんな人がおるねんやんか。人見知りの人もおるし、明るい人もおるし。大学の100人規模のところで、人に合わせた対応や声かけを覚えたことで、学級の中でそれぞれに合わせた声かけや配慮ができる。言い方にしても、高圧的ではなくて、人に合わせることを大学で覚えたから、職員室ではケアする側にいる。それは、大学の時に悩んだというか、考えて身についた処世術みたいなところかな。
――大学でおもしろかった授業はありましたか
一つしか覚えてないねんけど、「部落問題概論」という授業があった。人権に関することやるねんけど、その頃、全く無知やってんけど、そこで在日をカミングアウトした子がおって、その時の空気感だけは覚えている。後々知識が身について、カミングアウトの意味が分かって、なるほどなかなかの授業やってんなって。そのときは「すごい空気やー、寝よ」という感じやってんけど。俺が教師として1校目に行ったところは、在日がマイノリティで、そのときに与えられたポストもその在日に関係することで、自分の担当している子について知ろうとするやん。知ろうとした結果、俺は差別的な人間やってんなってことに気づいた。愛媛に住んでいて、メディアの影響とサッカーをやっていたこともあって、韓国が大嫌いやった。なんでかっていうと、すっごい挑発的やし。でも「おれってメディアに影響されてそんな感じやってんな」と気づいた。歴史を知ったらなるほどなって。差別は無知で起こるんやな。その時、大学の授業を思い出した。