脱学校的人間(新編集版)〈58〉
実際問題として、職業の選択が社会的な自己実現の要諦であるとするならば、内田樹が言うところの「少数の人がやっている、青い鳥を追いかけるようなロマンティックでクリエイティヴな仕事」と、一方の「多くの人たちがやっている、雪かきのような日常的で目立たないけれど誰かがやらなければならない仕事」(※1)の、そのどちらかに決めろと社会から現に求められているのは、たしかにその社会の中で現に生きている者であるならば、もはや誰もが身に沁みて重々わかっていることでもあろう。その人自身が日常から現にしていること=仕事=職業を、その人自身の人格に還元し、その人自身の社会的な有用性を決定づけること。この社会的な視点からの要請は、その社会の中で現に生きている「社会的な人間」である限りにおいて、誰であろうともけっして拒否することなどできない、その人自身の社会的存立条件となっているはずなのだから。
またその人自身としても、そういった社会的な存立条件の観念に従って、「自分自身が日常から現にしていること=仕事=職業が、すなわち自分自身そのものであるということなのだ」というように、何ら疑うこともなく考えられているものであるならば、そのように自分自身が日常から「するべきこと」とは一体どちらなのか、いずれは避けがたく決断しなければならないときがやってくるだろう。自分自身を「固定」しなければ、フワフワと宙に浮いたままの自分自身など、一体何者であるか自分自身にもわからなくなってしまうものなのだろうし、どちらでもない自分自身、つまり何者でもない自分自身のままでは、「自分自身そのもの」がなくなってしまうとさえ思えてしまうものなのだろうから。
たとえどこぞの誰かの按配で、青い鳥を追いかけるか雪かきをするか、そのどちらかの仕事に振り分けられて、その人自身の立場がそのどちらかに「固定されて」しまうのであっても、またそれが「他人に決定された人格を、自分自身に還元する」ようなものなのであっても、「それをしている限りで、自分自身というものがあるのだ」というように確信を抱くことができるというならば、人は実際にそのこと=仕事を、自分自身として可能な限りの長きにわたって、ひたすらやり続けることになるのだろう。逆にもし、自分自身としてそのこと=仕事をしなくなるということがあれば、それはすなわち自分自身であることをやめるのと同じことになるのだと、少なくとも社会的にはそのように、それを自分自身の存立条件として要求されているわけなのだから。そしてそのことを自分自身としても受け入れて、その社会の中で現に何とか生きていられているのだから。
ともかく人は、自分自身が「そのこと=仕事をしている人である間」について、自分が自分自身であるためにも、常にそしていつまでも、その仕事をやり続けていなければならないのだ。「冬は雪かきをし、やがて春になったら青い鳥を探しに出かけていく」などということは、「それをする人、すなわち職業人」という立場に身を置くのである限りはけっして許されることではない。たとえ「それが人にとって自然なことなのだ」と弁明しようとも、それはけっして「社会的には通用しない」ことなのである。「ある時には自分自身であるのに、別の時には自分自身ではない」などということは、この社会においてはけっしてありえないことなのだ。
だからもし「雪かき仕事」に就いている人ならば、しんしんと雪の降り積もる真冬の間のみならず、ジリジリ太陽の照りつける真夏になろうとも、汗をダラダラ垂れ流し、スコップで地面をガリガリと削りながら、それでもなおただひたすらに、ずっと雪かきをしていなければならないのである。なぜ?決まっている、「それが仕事だから」だ。そして、「それが自分自身だから」なのである。
またもしその人が、いったん青い鳥を探しに出かけていったのならば、彼はいつまでもずっと青い鳥を探し続けていなければならない。冬になって木枯らしや吹雪に吹きさらされようとも、一度青い鳥を探し始めたのならば、その人はずっと探し続けていなければならない。たとえいつの日か、その探し続けていた青い鳥を、ついに見つけ出すことができたとしても、それで「もはや自分の仕事は終わったのだ」として、彼が元の場所に戻ってくることは許されない。「元の場所」において彼が彼自身であることなど、もはやけっしてできないのである。そこには「彼が彼自身であることができるような、彼自身にできること」など、もはや何一つとして残されてはいない。一度始めたのであるならば、とにかく青い鳥をただひたすら探し続けること、それが「彼の仕事」であり、その仕事がすなわち「彼自身」なのである。
ところで、「雪かき仕事」と「青い鳥仕事」をそれぞれ具体的に誰が担うことになるかを按配する仕事とは、一体「誰」が実際に担うことになるのだろう?実際にその仕事を担う者は、「どちらも社会にとっては必要なもので、その両方のタイプがないと社会は立ちいかなくなる」などと言いながら、しかし一体自分自身では、そのどちらのタイプの仕事をしているつもりでいるのだろうか?
そもそもがもし、「後の始末は誰がするのか?」などと心配するようなことが何かあるのであれば、「その後始末を自分自身でやればいいだけ」なのではないか。また、「一方のタイプばかりに関わる人の数が増えてしまって、それが一定数を超えてしまうと、本人のみならず社会にも大きな弊害が出てくるおそれがある」というのなら、「まずは自分自身がそうしないようにして、その数を少しでも減らすことができるよう、自分自身から貢献していけばいいだけ」の話ではないだろうか。
しかし、たいがいそのようなことを言うようなタイプの人は、自分自身のことはひとまず棚上げにして考えるものなのだろう。つまりそういった人たちは、「自分自身がどうするのか?」よりも「他の人がどうしているのか?」がどうにも気になってしまって、それを心配するあまりに「他の人たちに対して、大真面目にご注意申し上げる」ようなことになるわけである。
ところでそのような人は一体、どこに自分自身を棚上げしているつもりだというのか?
それはおそらく、「社会そのものに」ということであろう。
自分自身と社会そのものを一体化させることによって、彼らはそこに自分自身を棚上げにしておき、限定的で「私的」な自己自身の視点と立場を一時的に抹消する。そして、一方では「少数の人が担っている個性的な仕事の社会的稀少性」を、また一方では「大多数の人が従事する分相応な仕事の社会的有用性」を、そのどちらの価値をも我が意のままにコントロールできているかのような立場に身を置き、「自分は全てを見通しているのだ」とでもいうように振る舞っている。あたかも自分自身は「社会の代表」であるかのような、「超越的で客観的な視点および立場」に立って、ある時には「青い鳥を探してフラフラと旅立つ人」をそのまま社会から排除・放逐したり、またある時には「誰にも知られず、誰からも感謝されない、雪かきのように地味な仕事をしている人たち」を、そのまま誰からも見えないようにして、人知れず社会の奥底深く隠し込んでしまっている。
そのようなことをしているとき、つまり「そのような仕事」をしているとき、彼自身は一体「何者」なのだろうか、「何者のつもり」でいるのだろうか。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 内田樹「下流志向」
◎『note創作大賞2022』に参加しています。
応募対象記事 「〈イントロダクション〉」 への応援、よろしくお願いします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?