病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈32〉
リウーのパヌルー神父に対する物言いや態度には、常にどこかトゲがあるような印象を受ける。ちょっと過剰と思えるほど「反抗的」で、さらにはまた、まるで相手を鼻で笑うような、どこか上から目線の軽蔑を含むところさえあるような気がする。平静なら「万事に対して冷静で、誰に対しても公正な」リウーらしからぬ、どうにも感情的な一面を露わにすることが実に多いのだ。
たしかに、大革命以来のフランスでは宗教的権威に対する反発が、一つの国民的感情ともなっていたような側面はあったのだろう。そしてまたパヌルーによる最初の説教が、キリスト教特有の「権威」に多少なりとも寄りかかり過ぎていた印象は、やはり否めないところだとは言える。
とはいえ、パヌルーが保健隊への参加を希望していると知ったときに、リウーは「彼があの説教よりは少しはマシな人間だとわかってうれしいね」とまで言い捨てる始末なのである。一体、相手に対して何の恨みがあるのかとさえ思えてくる。
パヌルー神父による説教を受けての、最初の込み入った対話の中で、タルーから「あなたは神を信じているか」と訊ねられたリウーは、次のように答えている。
「…信じていません。しかし、それは一体どういうことか。私は暗夜のなかにいる。そうしてそのなかでなんとかしてはっきり見きわめようと努めているのです。もうとっくの昔に、私はそんなことを別に変ったことだとは思わなくなっていたのですがね。…」(※1)
このように語るリウーの無神論には、どこかしら不健康な雰囲気も漂うようである。彼の言う「神なき暗夜を歩む」というのは、要するにニヒリズムでしかないのではないか。そんな穿った見方さえできそうな気がする。
リウーには何かしらキリスト教に対して、そしてなかんずくその権威性に対して、ある種のコンプレックスのようなものがあるようにも思える。それは、幼少期からの貧困と、それに付随して生活上被った種々の苦労、さらには医師になってからさまざまな患者の臨終に立ち会ってきた日々の中で、結局のところ現世においても来世においても、神への信仰が人の不幸を救うことがなかったという、その実感に基づくものだったのかもしれない。
そのように考えてみるとどうやら、もはや積極的な不信感にさえなっている、リウーのキリスト教という宗教への感情が、時折いささか度を越すほどのパヌルー神父に対する敵愾心にも結びついているようである。
リウーの無神論、それはもちろんカミュ自身の無神論と考えて差し支えないだろう。とすればリウーの言動に窺えるトゲは、カミュ自身の心の棘でもあるのだ。
しかし、彼あるいは彼らの考える世界は、あくまでも「神なき」世界なのであって、けっして「神から解き放たれた」世界なのではないと言えよう。そして無神論というのは、実はたいがいそういうものなのだ。
そのような無神論というものは、いわば「神と戦う」無神論なのであり、あるいは「神を亡きものにしようとする」無神論ということなのである。しかし、現にいないものを「亡きもの」にすることなど、けっしてできはしない。ゆえにその世界には、実のところ神は「常に現にそこにいる」ということになり、かつそのような神を、彼ら無神論者たちは常に現にそこで意識していることになるのだ。
そういった「常に現にそこにあるもの」を、あたかもないかのごとくに振る舞う、そこから目を反らし、それを己れの視界から隠す。そんな「半分だけ隠された」ような世界というものは、常に歪んで見えるものであろう。それが「健康である」とはとても言えまい。
無いものを有ると言い張るのは、たしかに虚偽なのであろう。一方で、或るものを無いとするのは、「無いものとして有る」ということを認めた上でなければ、それもやはり虚偽となるはずなのだ。「無い」ということは、「無いものとして有る」ということであり、それは「欠如」としてあらわれる病なのである。ゆえに、あえて言えば無神論とは一つの病なのであり、キルケゴールが言う意味合いにおいて捉えるとしても、まさにそれは「死に至る病」なのである。
世界とは何か、人間とは何か、生命とは何か。
それらを宗教は綜合的に、一方で哲学は分析的に捉えようとするだろう。つまり、神とは綜合的な認識である、と哲学ならば「分析的」に捉えようとすることになるだろう。
ところが、それを単に否定するとすれば、否定したきりでそのまま思考停止となり、そこからそれ以上何をも捉えることなど、けっしてできまい。むしろ今その目に入っているものすら、まるきり見えなくなってしまうことだろう。もし、上記のような無神論にとどまるとするならば、人はまさにそういった、盲目状態にある死病人であるということになるのだ。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳