病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈23〉
あるときタルーは、彼らが共に逗留しているホテルで、一人佇むランベールの姿を見かけた。そのときの相手は、タルーが思わずぎょっとしてしまうほど目に見えて憔悴した様子を露わにしていた。
タルーが声をかけるとランベールは、リウーと二人で自分の宿泊している部屋を訪ねてくるよう頼んでくるのだった。以前からリウーが脱出計画の進捗状況について、自分にもぜひ教えてくれるよう言っていたこともあり、彼と話がしたいのだ、と。
その夜、リウーとタルーは連れ立って、ランベールの部屋を訪ねた。ランベールは、つい先程タルーが見かけたときと変わらず、やはりすっかり落ち込んだ様子で力なくベッドに寝転がり、そしてまるでヤケになったかのように酒を呷っているのだった。
リウーが「脱出の首尾はどうか」と聞いたが、ランベールは「どうせまたすっぽかされる」と悲観的な言葉を返すばかり。さらには、いささか八つ当たり気味に己れの胸の内から湧き上がる憤懣を、リウーたち二人にぶつけてくる。
ランベールは、「あなたたちはペストというものが全くわかってない。こいつの正体はしょっちゅう繰り返すということです」とリウーたちのことを詰った。そして、彼がただ一枚きり持っていて、何度もそればかり聴き返しているというレコードに絡めて、重ねてこのように言う。
「だから言っているんです、こいつの正体は繰り返すことだと」
たしかに病禍も戦争も、人々がその存在を忘れた頃に不意にやってきて、人々が過去にそれを乗り越えてきた歴史さえまるで何もなかったかのように、幾度も幾度も繰り返す。しかし、そのように「忘れた頃に繰り返す」とはいっても、むしろそれらは繰り返されることによって、それまで誰もがそのことを忘れていたのだということを、人々に思い出させることになるのだ。そこで人々は、結局のところ自分たちは過去から何一つ学んではおらず、また何一つ乗り越えてなどいなかったことを、重ねて思い知らされることになるわけである。
たとえ一枚のレコードを何度繰り返し聴き続けても、そこからは一つの旋律しか聞き取ることができないように、繰り返される歴史からも、やはり一つの旋律しか聞き取ることはできないだろう。幾度も繰り返す災厄や戦乱からは、人間はただ一つの観念しか読み取れない。それは何かと言うに、まさに「死」という観念である。それはまた、観念のために死ぬ人間は、死を観念として受け止めているのだ、という意味合いも含まれる。
ところで、現実として「死」というものは、一人の人間においてはけっして「繰り返す」ことがありえない。しかし観念の中でならそれは、何度でも繰り返しうるのだ。まさしくこれは不条理なことなのだと言うべきだろう。
ちなみに、このときランベールが繰り返し聞いていたレコードというのは、『セント・ジェームズ・インファーマリイ(聖ジェームズ病院)』という歌であり、「亡くなった子供に会いに、聖ジェームズ病院に行く」といった内容の古いブルースであった。
〈つづく〉