精神疾患の世界で見つけたもの(後編)
※この記事は、
人生初 精神疾患との闘い(その1)、
人生初 精神疾患との闘い(その2)、
精神疾患の世界で見つけたもの(前編)の続きです。
途中の登場人物等は、こちらをご参照ください。
過酷な陸上自衛隊での生活を経て、次の舞台は航空自衛隊へ。直属上司Aさんの下で潰れてしまう自分へと繋がるお話です。
そして、適応障害を発症したからこそ見つけることができた、自分にとって大切なことをここに書きます。
上司Aさんの下で、潰れてしまった理由。
答えはシンプルで、あることが怖かったからです。
※Aさんが怖かったわけではありません。
”強さ”とは(続き)
コースアウト
入隊してからの3年間、陸上自衛隊高等工科学校での教育課程を終え、卒業後は航空自衛隊の航空学生課程へと進みました。
そのコースでは航空自衛隊のパイロットとなるべく、18歳から20歳までの約60名が同期として揃います。
全員のうち、自分を入れて陸海空自衛隊経験者は10名弱。
ほとんどが初入隊のメンバーです。
こちらの教育指導も僕の1年目同様、かなりキツかったです。
すでに1度経験しているのにもかかわらず。
多分初入隊の人にとってはもっとしんどかったと思います。
かなり強いストレス下で最初の1ヶ月は過ごすので、僕自身も自分のことで同じ失敗を繰り返してしまったり、僕の失敗で周りの同期を巻き込んでしまったこともあります。
また、自衛隊経験がある者として区隊をリードする立場であり、周りよりも善くできないといけないことにも非常にプレッシャーを感じて、押し潰されないように自分を保つことに必死でした。
リーダーは完璧でなくてはいけない。
戦闘機パイロットは強い者でなければならない。
自分への妥協を許さないのはもちろん、周りにもその妥協を許しませんでした。
ここでも完璧主義の悪いところが出ていました。
でも当時はそんな事に自分で気付くことができませんでした。
自分のものさしを基準にして、
「俺がこんだけやってるんだから、お前もこれだけできる。」
そうやって自分の中での”正義”を他人に押し付けては、また自分のものさしで他人を測ることを繰り返しました。
時には自分のプレッシャーから逃れるように、周りの同期に対して八つ当たりしてしまった日々もありました。
「陸自に行っとけば良かった〜。」
「陸自の後輩の方がもっと吸収早いぞ。」
「陸自戻りて〜。」
自分の未熟さに気付かず、自分にとって1番大切なはずの同期に対して失礼で嫌な文句を言ってしまったり、
時には何度も同じミスをする同期に対して、
「闘う気が無いなら、お前は要らない。」
と、周りで同期が見ている中、私的制裁を下してしまったりすることもありました。
自衛隊2年目の時、同期を晒し首のようにした教官に、「そのやり方は違う」と異議をぶつけた自分は、どこにもいませんでした。
その同期には謝ることができないまま、最終的に彼は航空学生を去りました。
同期を助けるはずの立場が、
自らの手で同期を苦しめたこと。
今も悔やむほど、酷いことをしてしまった日々がありました。
(そんな奴はパイロットになる資格はありません。)
そんな中、空自へ入隊して初めての夏、僕は腰に違和感を感じます。
すぐ治るだろうと思って変わらず訓練に参加していましたが、その痛みは日を追うごとにどんどん増していきました。
次第に走れなくなり、歩くのもしんどくなり、そして10月を迎えようとしていた頃、ついに起き上がる時に雷を受けたような激痛が全身を走りました。
腰のヘルニアでした。
この時点で、パイロットになるにはかなり厳しいと言われました。
1週間、病院で過ごしました。
絶望する中、たくさん同期がお見舞いに来てくれたのが嬉しかったのを覚えています。
退院後も1ヶ月間、基地内でリハビリをしますが回復せず、僕は実家で療養することになります。
約2ヶ月間、ほぼ毎日整骨院でリハビリを重ね、復帰前にはかなりの運動機能を回復することができました。
年が明け、療養が終わり基地へと戻りました。
当時のトレーナーからは、「ヘルニアを発症して最初の冬が1番厳しいから気を付けて」と言われ、不安を抱えながら帰隊しました。
しかしそれとは別に、新たな不安要素が生まれてしまいます。
基地に戻ってすぐ、予想していなかった次期編入(留年)が濃厚と通告されたのです。
年度末が近く、2ヶ月以上の学科の遅れを取り戻すスケジュールがどうしても組めなかったこと。
そして訓練に参加できていない分、進級に必要となる実技点がなかったのです。
※療養中は、問題なく進級できる予定と聞いていましたが、おそらくその時点で決まっていたのでしょう。教官なりの配慮だったのかもしれません。
正式決定ではなく、かつ非公開だったので、誰にも相談できず、1人でしばらくの間悩み続けました。
これまでの同期が先輩となり、
次の下級生が同期となる。
今まで積み重ねてきたものを、
もう一度積み直す。
またあのキツい思いをもう1年…。
今となっては、留年でも命拾いしただけ全然マシだと思えるのですが、当時の僕にとっては、下級生と一緒になっても続けられるのか、これまでの同期との距離感がどうなるのか、そして腰の痛みが不安で仕方ありませんでした。
不運は続き、その決定の後に腰の痛みがまたも再発してしまいます。
復帰して1ヶ月も経っていませんでした。
療養中は毎日治療とリハビリができていましたが、基地で毎日は通うことができなかったため、厳しいと言われていた最初の冬を乗り越えることができなかったのです。
再発時には激しい左下肢の痺れを伴い、痛みも療養前よりも酷い状態となりました。
自分で靴下を履くことも、靴紐をしばることもできず、本当に惨めでした。
ある日の午後、隊長室に呼ばれ、留年に関する色々な説明を受けていました。
最後に何かあるかと聞かれたので、自分が不安に思うことをポロポロとこぼしました。
その時、当時の隊長が喝を入れてくださったのを鮮明に覚えています。
そんな奴が飛んだらな、死ぬんだよ!!
そのチンケなプライドと、パイロットと、
どっちが大事なんだ!はっきりしろ!!
「パイロットです!!」涙ながら即答しました。
だったら治してから泣け!!
2月の中旬、ここで留年が正式に決定します。
僕がみんなの後輩になることが決まった頃、最初こそ生活に慣れなかった同期はすっかり生活に慣れ、もはや僕よりも器用にこなしていました。
僕に色々と嫌なことも言われた、そんな同期が、僕に靴下を履かせてくれたり、僕の分まで当番をこなしてくれたりと、たくさんの身の回りのことを助けてくれました。
そんな自分を助けてくれた当時の同期への感謝は、伝えても伝えても伝えきれません。
みんな、ただでさえ時間が無いのに、
嫌だっただろうに、助けてくれてありがとう。
周りの同期が進級を控える頃、次期編入を控えていた僕の腰は悪化の一方をたどっていました。
ある日再び隊長室へ呼び出され、医官立ち会いのもと、簡潔に告げられました。
「課程継続不可能と判断した。」
これ以上はその他の可能性も失ってしまうと。
事実上のクビ宣告でした。
本来ならもっと前に罷免(コースアウト)されているケースだったみたいですが、留年という選択肢を教官方が与えてくださっていました。
しかし、その期待にも応えることができませんでした。
そのまま、課程自己罷免(自らコースを辞めること)を希望する書類にサインをしました。
涙を流しながら、両親がくれた名前を、一画一画、丁寧に重ねました。
そこに書いた自分の名前は、震えていました。
2018年3月7日
遂にパイロットへの道は途絶えます。
航空学生課程では、コースアウトになったとしても自衛官としての職は失わず、航空自衛隊内で改めて部隊配置となります。
その手続きをスムーズに行えるのが、教官からの罷免決議ではなく、自らコースアウトする自己罷免なので、それらを配慮して自ら辞める形にして下さいました。
それでも書類にサインするときは、涙を堪えることができませんでした。
”自己罷免”という響きが、冷たく刺さって痛かったのです。
けど、サインをして全てが終わった時、体が軽くなった気がしたんです。
同期、教官、先輩、親からの、たくさんの期待や慰め。
パイロットに、みんなを引っ張るリーダーに、何にも負けない強い人間に、そうならなきゃいけないというプレッシャー。
怪我が悪化すればするほど、期待も慰めも全てがプレッシャーに変わっていき、鏡で自分を見ては毎日落ち込みました。
最初は区隊を引っ張る立場だったのが、冬にはただのお荷物に。
そんな自分を、何度も何度も恨みました。
”もうあんな思いをしなくて良いんだ”
何かから解放された気分でした。
それと同時に、僕が例の嫌味のような文句をこぼした時、同期に言われた一言が記憶の中で蘇りました。
お前の同期は陸自にいるかもしれないけどさ、
俺の同期はここにしかいないんだよ。
俺の同期に向かってそんなこと言うな。
心が軽くなった感覚の傍ら、何か失ってはいけない大切なものを失くした感覚がありました。
これだけは大切にしようと心に決めていたはずの何か。
その言葉を言われたのがいつだったか、あまり覚えていません。
でも、なぜか自分の中ですごく引っかかりました。
コースアウト後は、基地の一般隊員が生活する隊舎へ移動しました。
しかし、来る日も来る日もあの言葉が忘れられず、今まで周りにいた一人ひとりの同期と、自分について思い出しては、たくさん考えました。
自衛隊初期の闘志、自分にも同期にも妥協を許さない棘があったこと。
歩けなくなって、助けてもらった時に、人への感謝を思い出したこと。
みんなそれぞれ何かを抱えながら、その人なりに頑張っているということ。
どんな人にだって必ず良い面があること。
自分が全部正しいわけではないということ。
そして何より頭にこびり付いて離れなかったのが、
自分が”正義”だと思うことを人に押し付け、相手の気持ちも考えず他人を傷つけた事に対する罪悪感でした。
結局、皆に謝るタイミングも逃したまま、僕は別の基地へと移動する日を迎えてしまいました。
新しい部隊でもたくさんの出会いがあり、たくさんの人に助けられ、自分はどんどん変わっていきました。
自分の中で、新しく頑張ってみたいと思えることも生まれました。
そこからの話は、また別に書きたいと思います。
新しい部隊で丸1年を過ごし、僕は自衛官を退職します。
退職してからも、その同期の言葉と罪悪感は、ずっと頭から離れませんでした。
「しんどい」が言えなかった本当の理由
あの時、1人の同期が言ってくれたあの一言と人生の挫折で、僕の考え方や人への接し方は、結果として良い方向へ大きく変わっていきました。
しかし、
僕はあの言葉を思い出した時から、
人に嫌われるのが、ものすごく怖くなりました。
僕が今の職場で1番恐れていたものは、まさにこれでした。
客観的に考えてみれば、上司のAさんから嫌われたって、十分仕打ちにあってきたんだから別にいいでしょってなるんです。
でもいざとなった時に、どうにか円満に解決できる方法はないかと探してしまう。
Aさんに真っ向から立ち向かえない。
弱くなったなぁ。
そうだなあ。いや、そうじゃない。
今までは、自分は間違ったことをしていないのだからと、誰にでも真っ向から向かって、堂々とできていた。小学生の時も、陸自の時も、航空学生の時も。
今だって別に間違ったことをしてるわけじゃない。
でも挫折をきっかけに、
色んな人の気持ちが汲み取れるようになって、
色んな視点から物事を捉えられるようになって、
もしかしたら自分の考えにも
非があるのかも知れない。
そういう風に考えることも
できるようになりました。
だからこそ、今の職場でどれだけ理不尽なことでキレられても、怒りをコントロールして、笑顔でやり過ごせていた。
周りの同僚にまで、働きにくい思いをさせずに済んだ。
確かにそれは良かった点です。
あそこで我慢できた自分。
それこそが自分の強さじゃないのか。
そうだなあ。いや、そうじゃない。
どうしても何かが引っかかってしまう。
何度考えても答えが出ない。
ずーっと、心に引っかかっていたこと。
あの時自分が我慢できていたことが、自分の強さじゃないと思う理由。
Aさんからの色々なことを受ける毎日、声を荒げたくなった日も、もちろんありました。
でも、他人から嫌われることが、巻き込むことが、雰囲気が悪くなるのが怖くて。
いつも自分を抑えてきました本当の理由が、自分の中にあったことに、僕はようやく気付くことができました。
今まで我慢できていたのは、
強さなんかじゃない。
他人にした事に対する罪悪感が
頭の中を離れなくて苦しくて、
申し訳ないと思えば思うほど
無意識に自分のことが許せなくなって
表面では他人から嫌われるのが怖くなって、
だからもう2度と傷つけないように
自分が我慢して傷つくことで、
まるでそれが罪滅ぼしかのように、
自分勝手に合理化していたんです。
しんどくなったのは、仕事・環境・職場の誰かのせいもあったかもしれません。
でも、本当に向き合わなきゃいけない原因は、自分の中にありました。
航空学生時代にも、自分の悪かった点はもちろん、良かった点だってたくさんあります。
悪い点があるからといって、良い点が無くなるわけじゃない。
今ここで自分の過ちを反省したからといって、過去の悪い点が帳消しになるわけでもない。
これからちゃんと良い点を積み重ねるために、良い点も、悪い点も、全部含めて過去に向き合わないといけないのに、ずっとそれを僕はしてきませんでした。
1番やってはいけないこと。
それが自分を潰してしまうこと。
頭ではわかっていたけれど、少し手を打つのが遅かった。
自分が壊れるまでの砂時計をただ見つめる毎日を過ごしているとわかっていても、その時の僕はストップをかけられなかった。
人に嫌われるのが怖かった。
それは罪悪感が頭から離れなかったから。
頭から離れなかったのは、
無意識の中で過去の自分が許せなかったから。
そんな自分に気付いていなかったから。
これが、声をあげることができなかった、本当の理由です。
精神疾患の世界で見つけたもの
理不尽に対する怒り。
周りを巻き込まないための我慢。
自分の首を絞めた完璧主義。
Aさんの良い面も見れるところ。
もしかしたら自分が間違っているかもしれないという視点。
人を傷つけるくらいなら、自分だけが傷ついた方がマシ。
人から嫌われることへの恐怖。
これら全てが重なって、結果的に僕は八方美人な自分を創り上げ、1人では抱えきれなくなって、絡まって、沈んでしまいました。
精神疾患との闘い(その2)の記事で書いた、休職してから1番辛かった夜。
泣きじゃくって泣きじゃくって、翌日は丸1日ほとんど眠っていました。
目が覚めてからはずーっと、自分の価値について考えながら数日間を過ごしました。
ある眠れない日に夜の公園を散歩していた時、ふとビートルズの『Let It Be』がイヤホンから流れてきました。
”Let it be.”「そのままの自分でいいんだよ」
そう聞こえた時、すごく心が軽くなったのを鮮明に覚えています。
何度も繰り返される”Let it be.”
その度に、
「ありのままでいいよ。しんどく感じて大丈夫。そのままでいいよ。」
優しく語りかけるように、素敵な言葉をくれました。
今まで、「弱さ=情けない」と思い込んで生きてきた日々。
そんな僕に対して、しんどいと思っている自分も肯定してくれているような安心感を与えてくれました。
今思えば、『”自分”を許すことができない自分』
そんな自分がいることに、ずっと気付いていませんでした。
精神疾患を患って休養するまで、見つけることができませんでした。
自分が”自分の正義”を貫けば、また独りよがりに暴走して、かつて同期を傷つけたように、また誰かを傷つけてしまうんじゃないか。
嫌われるのが怖いと思う自分の影には、そんな気持ちが隠れていました、
18歳の頃、自分がプレッシャーに耐え切れず、同期に”自分の正義”を振りかざしたこと。
それが原因で同期を傷付けたこと。
そして何よりも、そんな情けない”自分”がどうしても許せなかったこと。
僕がコースアウトになって、同期から言われたあの一言で、1年間のたくさんのことを思い出しました。
コースアウト直後は、罷免の辛さだけでなく、同期を傷付けた後悔にひどく落ち込みました。
新しい基地に行っても、たくさん考えました。
自分が本当に情けなくて、色んなことで忘れようとしました。
みんなと笑い合ったことも、同期にしてしまったことも、腰の怪我も、自分勝手に思い出に蓋をして…。
航空学生時代の1年間から5年弱。
その期間ずっと、人に嫌われることを怖がってばかりで、自分に対してちゃんと向き合えていませんでした。
「しんどい」と言えなかった理由でもあり
「しんどい」と言わなかった理由かもしれません。
”Let it be.”
そのままの自分を、認めてあげる言葉。
自分はずっとこれを
誰かから言って欲しかったんだろうな。
そのままでいいんだ。
自分に絡まっていた色々な重い物が、ゆっくりと解けて離れていく。
暗い海の奥底から、少しずつ明るい水面へと浮き始めました。
これがきっかけとなり、僕がここまで書いてきた自分の振り返りをすることになりました。
今まで自分が頑張ってきたこと、夢中になってきたこと、誰かに優しくできたこと、誰かを傷つけてしまったこと、そしてまた別の誰かに優しくできたこと。
今までの自分を振り返っていく中で、今自分が向き合っているものが少しずつ見えてきました。
”強さ”ってなんだろう。
僕はずっと、無意識に強くならないといけないと思って生きていました。
それが親の教えのせいなのか、自分が居た環境のせいなのかはわかりません。
でも、今までの自分を振り返って、どの場面でも懸命に頑張っている自分をゆっくり見つめていると、いつも自分の周りには、頑張れる力や理由をくれる大切な誰かや、何かがありました。
そしてある事に気付きました。
人間はみんな、元々強いわけじゃない。
時々、何かから力をもらって強くなれるだけ。
そして大切なのは、強いとか弱いとかじゃない。
ありのままの自分を、認めてあげるということ。
それは自分を許すということ。
勢いがある時は、その時の自分を。
弱っているときは、弱っている自分を。
弱い自分を認めてあげることも、
1つの”強さ”かも知れない。
自分に絡まったたくさんの物が解けた時、今までに出会った、たくさんの人たちの顔が見えてきました。
信頼できる地元の親友
辞めた後も頻繁に会ったり、電話したり、何気ない馬鹿な話で笑える自衛隊の同期
悩んだ時にいつでも話を聞いてくれる自衛隊の先輩や教官
どんな時でも、「お前は最高だ」と言ってくれる海外出身の友人
休んでいても、「焦らなくていい、ゆっくり休んで」と言ってくれる課長や職場の他部署の方々
「俺ら兄弟だな」って言ってくれる職場の先輩
冗談でタメ口使っても許してくれて、仕事でも助け合える同じ課のE先輩
ここには書ききれないほど、自分の周りにいてくれる、たくさんの人。
自分の価値って、これじゃないかな。
誰かがそばにいてくれること。
それはきっと、自分の今までの積み重ねの証拠。
今まで自分が積み重ねてきたことが、そうやって自分に返ってきている。
僕にとって、1番自然に体に入ってきた、自分で認めてあげることができる、自分自身の価値。
誰に文句を言われようが、これが僕の財産だと、胸を張って言えるもの。
適応障害だけじゃなく、これまでの人生で落ち込んだ時には、自分にはもう何も残ってないって感じる時もありました。
でも心のどこかでは、そんなことないって思う部分もありました。
そんな否定を証明する、今まではなかなか言葉では言い表せなかった自分の価値を、自分で見つけてあげられた瞬間でした。
必要・必然・ベスト
心が軽くなってからの、ある日のこと。
これもまた偶然で、なぜか陸自時代の学校長の訓話を思い出したんです。
今こうやって、自分の限界を越えて故障してしまったことも、必要・必然・ベストなんだって思うと、これもきっと乗り越えられるって、勇気づけられました。
負けてたまるか。
体力錬成が何時間続こうとも、
意地でも食らいついてやる。
何回でもやってやる。絶対に負けない。
憤りにも近い闘志を燃やしていた15歳の頃にあった、”立ちはだかる壁に向き合う力”を、この3つの単語が少し思い出させてくれました。
色んな思い出に思いを馳せながら、また新しい自分になっていくのを感じながら、今は 「また頑張れそう」と思えるようになりました。
今までは深い奥底で周りが真っ暗だったのに、気付いた時には水面から顔を出していて、そこには今まで通りの明るい世界がありました。
きっとこの先も、何度も。
この3ヶ月間、たくさん悩んで、過去を悔やんで、また自分を責めてを繰り返しながら、「そのままでいい」という言葉に救われて、少し立ち直ることができました。
そして本当の原因だった、過去の自分と、向き合うことができました。
今まで蓋をして、まるで何も無かったかのように、向き合ってこなかった航空学生時代の日々。
5年弱の間逃げてきた、自分の辛い過去にもしっかりと向き合って、そこで自分がしてしまった事、同期から学んだ事を、こうやって文字に起こして、今、ちゃんと認めてあげることができました。
自分のしたことが許されないことに変わりはありません。
でも、「航空学生でした」という言葉を、少しだけ、胸を張って言えるようになった気がします。
今回は結果的に適応障害というものを発症して、人生において落ち込む時期となってしまいました。
しかし、僕の人生において、これが最後の谷だとは思っていません。
むしろ、何事もなくずっと幸せに生きていけるなんて、まず無いと思っています。
今回ぶち当たった壁だって、今までの成功や失敗がなければ、当たることもなかった壁だったのでしょう。
でも、それで良いんだと思います。
それは自分が前に進んでいる証拠だから。
この先も、何度も何度も何度も何度も、壁にぶち当たってはしんどくなってしまうことがあると思います。
その時に、「必要・必然・ベスト」で乗り越えられたらよし。
それでもダメなら、その時はちゃんと自分のSOSに耳を傾ける。
これからはその練習。
他人にも、自分にも、優しくなれるようになる練習。
しんどくなってしまったら、「そのままでいいんだよ」って、自分の気持ちに寄り添ってあげる。
今の自分を乗り越えてまた新しい壁にぶつかるのだから、その時にはまた新しい何かを学ぶことができると思います。
最後に
ここまでとても長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださった方々、本当にありがとうございます。
拙い文章力で、少しわかりにくかった部分もあったかもしれませんが、少しでも何かが伝わっていれば嬉しいです。
まとめとして、この note を書いた2つの理由について。
1つは、自分がしんどくなってしまったことを、ただの辛い記憶にするのではなく、ちゃんと向き合って、未来の自分が、また自分を見失った時に、ちゃんと帰ってこれる経由地にしようと思ったこと。
結果として、このnoteを書いている途中に、もっと大事なことに気が付くことが出来ました。
もう1つは、少しでも精神疾患と向き合う人への理解が広がってほしいと思ったこと。
ここで言いたいのは、”誰かしんどそうな人を助けてあげて”ということではなく、もし身近にそういう人が居たら、
”その人のペースに合わせてあげてほしい”
ということです。
僕が発症した適応障害や、誰もが聞いたことがある「うつ病」では、発症している本人が気付いていない、もしくは認めないことがあります。
もちろん、同じ病名でも一人ひとり症状が異なり、その人にしかわからない辛さがあります。
また、抑うつ状態の時には、当事者本人でさえも自分に起こっていることをなかなか理解できなかったり、言葉にして説明することができない場合があります。
あるお医者さんの話では、「急性期の記憶を覚えていない」こともよくあるということでした。
自分でもわかっていないのに、それを他人に伝える、あるいは理解してもらうということはもっと難しい事です。
サボっているとか、楽しようとしているのではなく、その人にとってのストレスの上限を超えてしまっている状態です。
そして相手に伝えようにも伝えられない、とにかく伝わらないんです。
僕が感じるに、抑うつ状態を極端に例えると、別人格に乗っ取られているような状態でした。
叱咤激励は無論のこと、慰める意味で言った言葉でさえも全く違う意味で捉えてしまうこともあります。
病気によって何枚にも重ねられた強いフィルターが、その人に音を届けない、または全く違う様に響かせてしまうのです。
場合によっては、強い衝動に駆られて自らその選択をしてしまうケースも少なくありません。
この症状との向き合い始めは、その人にしかわからない、たった1人で臨む孤独で、残酷な闘いです。
どうか、その人のペースに合わせてあげてください。
誰かに助けてほしいのに、理解の無い言葉で傷つけられる人が、1人でも少なくなって欲しいと願いを込めて書きました。
また少し優しさを覚えれたかなって、自分を認めてあげられています。
本当に長くなりましたが、4部にわたるnoteは今回が最後です。
ここまでお読みいただき、本当に有難うございました。
これからもあたたかく見守っていただければ嬉しいです。
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