人生は末広がりが一番しあわせ
10代のときに日記を書き始めて10年以上経つ。
何か特別なことがない限り毎日欠かさず書き続けている。
自分でもよく飽きずに続けられていると思う。
飽きっぽい点が短所だと自覚しているので余計にそう思う。
しかし10年以上も続けているともはや日常の一部と化していて時間があればノートを開きペンを持つ。
朝起きて布団をめくるのと同じように。
食事の後に食器を片付けるのと同じように。
これまであらゆることに興味を持ち手を付けてきた。
しかし自分で始めようと思ってやり始めたことでこれほどの習慣はほかにはない。
継続していることは他にあってもまだ10年も経っていない。
なぜ続けられているのかはよくわからない。
よくわからないまま何となく続けている。
続けることにストレスがないので自ずと続く。
むしろ書くことでストレスが軽減されている。
それだけでなく続けることで得られるメリットがある。
そのメリットというのは「反省の機会を取得できる」ことだ。
繰り返し日々の出来事や感情、思考を書き続けていると必ず突き当たる壁がある。
他人に対する怒りや自分が置かれている環境への不満だ。
どうにかして自らを正当化しようとする気持ちと出会う。
しかし実際にやってみれば分かるのだが毎日不平不満を書き続けるというのもなかなかに難しいものである。
次第に気持ちは落ち着いてきて冷静になる。
トラブルが起きていたはずの生活も時間の経過とともに平穏になっていく。
というよりならざるを得ない。人間万事塞翁が馬。
振り続ける雨はないし雲一つない晴天も永遠には続かない。
それに気づいたときノートに書かれる言葉が変化する。
周囲への文句ではなく関心は己の心の有り様にシフトする。
身の回りで起きている出来事や他社へのネガティブな感情は自分が生み出しているという感覚が芽生える。
突飛で神聖な話をしているつもりはない。
その瞬間から反省が始まるのである。
「あのときああ言えばこんなことにはならなかったかもしれない」
「もともと自ら望んで飛び込んだ環境だったのに逃げ出してしまった」
後悔と反省は違う。
後悔は次につながらない。反省は次につなげることができる。
より豊かな人生を歩みたいと願うならば失敗の改善は不可欠だ。
正しい改善を行っていくには正しい反省をしなければならない。
そして正しい反省をするには物事を正しく捉える必要がある。
そのためには時間と冷静さが大事である。
日記という習慣は手を動かす必要があるので単に頭の中で一日を振り返るよりも時間がかかる。
そして文字を書くということはどれだけ感情が高ぶっていても一定の冷静さがなければ成しえない。
つまり日記を書いている時点で最低限の時間的余裕があり一定の冷静さをもっているということになる。
そういう状況下では「正しい物事の捉え方」をしやすく「正しい反省」をしやすく「正しい改善」につなげやすい。
この循環を自分で生み出せるようになれば人生は自ずと豊かになる。
徐々に良くなる末広がりの人生である。
とはいいつつ10年以上続けていてもまだまだ幼稚で未熟な自分である。
生きることは面白い。
生命としての終焉は必ず迎えるが内面的な成長には終わりが見えないからである。
日記を書き続ければ立派な人間になれるかと問われればそういうわけでもないし日記を書いていなくても大人物はいる。
東京に高尾山という山がある。決して高くない。
高くない山だが山頂までのルートは何通りもある。
私は人生という山を日記ルートで歩んでいる。
野球選手は野球ルート。お笑い芸人は芸人ルート。
日記ルートなかなか良いですよ。