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孤独感について

思えば、ずっとそうだ。

”周囲とはノリが違う” 昔から、そう感じていた。

幼稚園に通っていたときから、自分は周囲に馴染めない孤独な存在なのだと感じ続けている。

小学校、中学校、高校、大学、そして大人になった今も、組織のなかで「一体感」というものの質感を感じたことがない。

運動会や部活、サークル活動、寮生活など、組織の中で役割を持ち活動した経験は多くある。しかし、私はいつも熱量に欠けるようで「仲間で協力し合って目的を果たすぞー!うおおー!」的なノリにならない(なれない?)。

「一体感的なもの」を感じ取ることはできるが、それは常に第三者的であり、自分も一部であるという実感がない。そもそも「一体感」というものが本当に存在するのかすら疑いたい。

こんな調子なので、私はいつも周囲のみんなをうらやましいと思っていた。アニメで見るような『大切な仲間たち』と、そこで繰り広げられる『いろんなドラマ』が渦巻いていたから。少なくとも学生時代ぐらいは、自分もメンバーの一員としてその感動と共感を享受したかった。

過日の甲子園も、画面越しだったがすさまじい熱量を感じた。しかし、おかしいな。昔、自分の代の野球部も甲子園に出場し、私も応援として遥々現場に行ったことがあるが、自分の中にあれほどの熱量は生まれなかった。全国大会出場が凄いことは承知の上で、どうして名前も知らない同級生の試合を見ないといけないのかと思っていた。しかも炎天下で長時間も。

ちなみに隣のクラスメイトは全力で応援していた。「なぜ、そんなに必死に応援できるのか」と聞くような野暮な真似はしなかったが。

球場に立つ球児が親しい友人ならば応援する気持ちも分かる。どれほどの練習を重ねそこに立っているのか、試合当日までをどんな気持ちで過ごし、勝利にどれほどの意気込みがあるのかを把握していたなら、全く違った景色に見えたことだろう。

しかし、実際はただの同級生であり、電光掲示板で初めて名前を知る人だ。遠くて顔も分からない。いったい何を動機に、自分の貴重な時間と体力を消費してまで応援しろというのか? 大人たちはそういう「動機」を私ら生徒に与えなかった。主体的な行動には、ごまかしでもいいから何かしらの動機が必要ではないのか。日本の同調圧力ここに有り。

残念ながら当時の私は(今も?)、そうした暗黙の了解を理解できないばかりか、自ら動機を生み出す術も持ち合わせておらず、青春が詰まっているはずの甲子園参戦を、ただただ疲労感を得る経験として処理した。

少し話を戻すが、先ほどの「なぜ、そんなに必死に応援できるのか」という質問に対する答えは「一体感」ではないだろうか。要は、仲間だから応援するということ。「同じ学校の同級生が頑張っているのだから、自分たちにも応援する責務がある」と。

イマイチ理解しかねる。

同じ学校に通っていることがそんなに重要だろうか。
同い年であることがそんなに重要だろうか。
たとえ重要だとしたら相手チームは同じ国で生きる人だが、それは応援する理由にならないのか。
どこか遠い土地で頑張っている人たちは、同じ人類だが日頃から思いを馳せて応援しているのか。
ナントカ戦争を仕掛けた悪人と呼ばれるような人も同じ地球で生きているが、応援しているのか。

これらへの答えがYESでないなら、敵と味方の区切り方が短絡的かつ曖昧なので、賛同できない。

きっと雰囲気が大事なのだろう。精神的つながり(絆や信頼関係)があるのかどうかより、そうしたほうが何となく気持ちが盛り上がるとか、楽しさを感じるとか、そういう感覚。そのほうが色々考えなくて楽だし、生きていく上では大抵その態度で事足りるから。

長らく「自分もその輪に入りたい」と感じる日々を過ごしてきた。どんなときも孤独感に悩み、苦しんできた。

しかし振り返れば、"自分らしい生き方"をするために必要な犠牲だったのだと思う。表面的な一体感に迎合したくないという信念と、強烈な孤独に悩み苦しむ感情が、自己矛盾を引き起こしていた。

個人的に尊敬している人の一人に、養老孟司がいる。あるとき彼はこんなことを語っていた。※私の記憶力は頼りないので多少違うだろうが、ニュアンスで捉えてほしい

「東大で教授をしているとき、自分の半分は壁の内側に属していて、もう半分は壁の外にいた。常に外壁の上を歩いているような感覚」

私もこれに近い感覚なのではないかと思う。どこか組織や周囲に染まりきれない。もし自分が色染めされる前の布切れだったら、きれいに色が乗らず不良品扱いされているだろう。

同じく尊敬する人物、岡本太郎はこう言った。

 人間は、孤独になればなるほど人間全体の運命を考えるし、人間の運命を考えた途端に孤独になる。だから人間一人ひとりが孤独でなければいけない。それが人間の矛盾律だ。
 ひとはみな、この社会、集団のなかに生まれ、社会的存在として生きている。だが同時に徹底的に孤独な存在だ。ひとはだれもが”みんな”であると同時に孤独なんだ。 みんな孤独を誤解している。孤独とは、しょんぼりしたり、がっかりしたり、自分の身を引くことじゃない。”ぜんぶ”の上に覆いかぶさり、みんなの運命、全人類の運命を背負い込む。それがほんとうの孤独だ。
 世界即己。そう考えて、人間全体の運命を背負い込もうと決意する。それが十余年のパリ生活の終わりにぼくが達した結論だ。

先の甲子園の例のように、どこまでの範囲に一体感を得るかという問題だ。中途半端では、それは真の一体感ではない。本当に一体になろうと思うなら、宇宙すべてを覆い尽くすほどの度量をもたなければならない。

程度の違いはあれ、きっと誰もが心のなかに孤独を抱えているのだろう。

思いつきで書き始めた文章だが、「孤独は善とも悪とも言えないので、自分なりに孤独とともに生きる道を探り続けるべき」という提言が着地点となろうか。

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