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オリエント美術の世界 〜西南アジア〜

古代エジプトの墳墓からは、ラピスラズリ製の副葬品が出土する。だが、エジプトでラピスラズリは産出しない。このラピスラズリは一体どこから来たものなのだろうか?それはアフガニスタンのバダフシャン地方から産出したものだった。このことは成分分析からも明らかになっている。

ラピスラズリの原石

研磨したラピスラズリ

つまり、少なくとも前3000年紀にはすでにエジプトとアフガニスタンをつなぐ交易ルートが確立されていたことになる。これを機に私は西南アジアの古代文明にも興味を持つようになった。彼らがエジプトの発展に寄与し、文化的に少なからず影響を与えていたのは明らかである。

実はエジプトのファイアンスというのは、ラピスラズリの再現だった。高価なラピスラズリを安価な石英の練り物で代用を試みたのが、ファイアンス発展のきっかけである。

ファイアンス製ウジャトの護符(末期王朝時代 第26王朝

ファイアンス製首飾り(末期王朝時代 第26王朝)

西南アジアの文化を知ることは、エジプト文明を完全に理解するための鍵になる。そう直感した。ゆえに興味の幅をエジプトからイラン、アフガニスタン、パキスタンにまで広げた。これらの地から出土する品々は実に興味深く、エジプト文明に引けを取らない魅力を内包している。


《イラン・アムラシュ遺跡》アムラシュはカスピ海沿岸に位置するイランのギーラーン州に位置する遺跡。学術的な考古学調査が行われる以前から盗掘の被害に遭い、その様相は判然としない。しかし、高度な金属加工技術を有する人々が存在していたことは出土品から判断できる。特にアムラシュ青銅器といわれる青銅製品が有名である。

青銅製紋章指輪

年代は前1000年頃。男性用の指輪で、台座の部分には太陽の光線のような紋章が現されている。この紋章の意味するところは判然としないが、持ち主の家門、身分、または宗教的シンボルと考えられる。死者に捧げた副葬品と推測されるが、指輪を印章として利用した文化が古代にはある。


《イラン・ルリスタン遺跡》

イランの高原地帯ルリスタン地方。山岳の傾斜に形成された集合墳墓から美麗な形状の副葬品が出土する。調査隊による発掘以前に激しい盗掘に遭ったこと、また文字資料が乏しいことから、彼らの歴史は判然としない。ルリスタン青銅器が有名で、奇怪な形状をした副葬品に西洋圏のコレクターたちが注目し話題になった。これを嗅ぎつけた研究者らが、イランの骨董業者から仕入元を探るとルリスタンであることが判明した。

青銅製山羊形ピン

年代は前1000年頃。衣服を留めるために利用されたピン。古代イランで欠かせない存在だった山羊の形状をしている。また、形状から牡の山羊を表していることがわかる。山羊は豊穣の象徴でもあった。本作は実用品というよりは、死者の冥福を祈って捧げられた副葬品である可能性が高い。


《パキスタン・バローチスターン地方》

パキスタン南西部に広がる高原地帯。バローチ族が暮らしていることからバローチスターン(バローチ族の土地)と呼ばれる。インド・プレートがユーラシア・プレートと衝突する場所で、皺状の褶曲山脈地帯が形成されている。現在でもこの地帯は地震が多い。西はイラン、東はインドに挟まれており、西南アジアをつなぐ中継地として歴史上重要な役割を果たしてきた。

クッリ式土器
この様式の土器がクッリ遺跡で最初に発見されたことからその名がつけられた。年代は前2200~前2000年頃と推定される。デフォルメされた影絵のような動植物を器面に描くのが特徴である。また、コブウシなどの牧畜で利用した動物のテラコッタ製小像なども残されている。

クッリ式連続山羊文皿

イランなどでも見られる連続山羊文が施された土器。利用された痕跡が見られないことから、副葬品と考えられる。しかし、こうした遺物は墳墓だけでなく、住居跡からも出土している。いずれにせよ、完形のため生活に利用された食器ではなく、宗教的観点から制作された特別な土器だったと考えられる。

クッリ式動植物文様皿

菩提樹の葉と豹のようなネコ科の動物と魚が表されている。魚は乾燥地帯のバローチスターンでは水を想起させる豊穣の象徴だった。本作も磨耗がほとんどなく、利用された痕跡がない。ロクロによる回転力を利用して制作されている。

クッリ式山羊文碗

ロクロを用いてつくられている。本作は赤みを帯びた器面に黒い塗料で文様を描くクッリ式の典型作である。繁殖力の強い山羊は豊穣の象徴であり、その肉やミルクは当時の人々の生活に欠かせないものだった。

クッリ式豹文小皿

豹のようなネコ科の動物が描かれている。赤い生地に黒の絵具で彩色を施す影絵のような様式がクッリ式土器の特徴である。動物の胴体が通常より引き伸ばされた表現は、同地で発見される他の土器にも共通している。豹は当時のバローチスターンでは身近な動物だったのだろう。また、獲物を狩るその強さから信仰の対象となっていたのかもしれない。

クッリ式瘤牛像

西南アジア世界での生活に欠かせない瘤牛を表したテラコッタ製の小像。発達した背中の瘤を強調して表している。牛車と共に出土する場合もある。こうした小像が何のために制作されたのかはよくわかっていない。子ども玩具だったと主張する研究者もいるが、死後の世界を再現した副葬品の一種である可能性も高い。

クッリ式瘤牛像(ペア)

通常は単体で発見されるが、稀にペアの状態で表されたものも発見される。瘤牛像の出土数から察するに、瘤牛が当時の社会で重要な存在だったことがうかがえる。彩色がはっきり残る貴重な状態でもある。

ジョーブ式女性小像

バローチスターン地方のメヘルガル遺跡から出土した。テラコッタ製。ジョーブ川沿いに形成された文明だったことからジョーブ式とか名づけられた。メヘルガル 遺跡は、前2800~前2500年頃に栄えたインダス文明登場直前に繁栄した都市。同地で制作された女性像は大きな眼と鼻が特徴的で、幅広の首飾りは豊かさを象徴している。

幾何学文円筒壺

バローチスターン地方で出土した円筒壺。前3500〜前3000年頃の作と推定される。世界でも稀な円筒形壺で、この形状で年代と場所がすぐにわかるほどである。窓枠に格子を描いたような文様が連続して描かれている。当時の彩色がまだ残る良好な状態でもある。

鳥魚文碗

前3500〜前2000年頃のパキスタンでつくられた土器。鳥が魚をついばむ描写は、同時代・同地域の土器でも確認できる。だが、ここまで簡略化した描き方は珍しい。乾燥地帯のパキスタンでは、水を想起させる魚は豊穣の象徴だった。


《パキスタン・モヘンジョダロ遺跡》
前2600~前1800年頃に繁栄した巨大都市。ハラッパーと並びパキスタンに形成されたインダス文明期の最大都市でもある。未解読の文字を刻んだインダス式印章などが出土することで知られる。水洗式トイレなど、高度な文明を有していたことも確認されている。注目を浴びる以前のモヘンジョダロは、「死者の町」といわれ、地元民たちは近づこうとしなかった。仏教徒がストゥーパ(仏塔)を掘り起こしている際に、もっと古い年代の都市が埋もれていることを偶然発見した。それがインダス文明期の都市モヘンジョダロだった。

インダス式印章

一角獣をはじめとして、様々な動物の姿を刻んだ正方形の印章。滑石を素材とし、動物文様と共に謎の文字を刻んでいる。この文字は便宜上「インダス文字と呼ばれている。研究者によっては、これは言語を表記した文字ではなく、記号と考えている者もいる。しかし、文字配列を系統立てて整理すると、冠詞に相当するような働きを見せる文字があるなど、言語としての性格を見せてもいる。とはいえ、何の言語を表示しているのかはわかっていない。おそらく古代インド・ヨーロッパ語、あるいは現在この地に住むドラヴィダ人の先祖が利用していた古ドラヴィダ語を表示していると推測される。

三翼鏃

馬上から放つ小弓の射撃に適した騎馬戦用の武器。遊牧騎馬民族キンメリア人やスキタイ人が好んで用いた。主な利用法は敵の馬を狙い、驚せることが目的だった。驚いた馬から落馬し、体勢を崩した敵騎手を刀剣等で攻撃した。

地母神小像(バロックレディ)

パキスタン出土。前3世紀のマウリヤ朝の作である。過度に装飾した頭部が特徴的であることからバロックレディの愛称でも呼ばれる。前3000年紀のインダス文明で頭部を大げさに装飾した地母神小像がつくられはじめた。その後も地母神は民間信仰として継承され、こうした小像が後1世紀頃まで制作された。

ローマングラス

パキスタン出土。これらは香油瓶の破片と考えられる。当初ガラスは高級品だったが、吹きガラス製法が普及してからは安価で大量生産が可能になった。そのため、ガラスは庶民の日用品として行き渡った。銀化と呼ばれるこの輝きは、経年劣化の一種で乾燥地帯の地中に500年以上埋まっていると起こる。それゆえ、ここまで鮮やかな銀化は人工ではつくり出せない。イスラエルやレバノン、アフガニスタン、イランで美しく銀化したローマグラスが発見されるのは空気が乾燥しているからである。そのため、多湿の日本ではこのような綺麗な銀化は起こらない。銀化は地中の石灰岩に含まれる炭酸カルシウム等の結晶がガラスの表面に付着した状態であり、風化現象のひとつといえる。

パンチングコイン

パキスタンで出土した銀貨。前4世紀にマガダ国のマウリア朝により発行された。インドでは前5世紀に貨幣が登場した。マウリア朝が本貨を発行する以前から、この形状の銀貨は各都市国家の有力商人らによりつくられていた。インドを統一したマウリア朝は、この系統の銀貨を継承し発行を続けた。


《パキスタン・ガンダーラ地方》
パキスタン北西部に位置する地方。初めて仏教彫刻がつくられた重要な地として知られる。インド本土から距離があるため戒律が緩く、またアレクサンドロス大王の東方遠征を機に定住したギリシア人の影響で早くから仏像彫刻が発達するに至った。

ウニット銅貨

クシャーナ朝が80〜100年頃に発行した銅貨。第2代国王ヴィマ・タクトの治世に製造された。ディアデマをつけ王笏を握るヴィマ・タクトとクシャーナのタムガ(紋章)、騎馬姿の王を刻む。ΒΑΣΙΛΕΥ ΒΑΣΙΛΕΥΩΝ ΣΩΤΗΡ ΜΕΓΑΣ(諸王の王 偉大なる救世主)という銘が記されている。

ウニット銅貨

クシャーナ朝が90〜144年頃に発行したウニット銅貨。第3代国王ヴィマ・カドフィセスの治世に製造された。表に左手に三叉の矛を持って右手を拝火壇にかざす国王の立像、裏に三叉の矛を持つ風神ウェーショーとコブ牛ヴリシャバが描かれている。

ウニット銅貨

1世紀中頃に北西インドを支配して成立したイラン系民族のクシャーナ朝の下で発行された。本貨は127〜150年頃に製造された。仏教を保護したカニシュカ1世の治世中である。表には左手に槍、右手に犠牲の儀具を持つ王の姿。裏には風神ウァドーが表されている。

ウニット銅貨

クシャーナ朝が2世紀後半に発行したウニット銅貨。フヴィシカ王の治世に製造された。表にフヴィシカ王の座像、裏に火の神アスショーを刻す。銘文は表にϷΑΟΝΑΝΟϷΑΟ ΟΟΗϷΚΙ ΚΟϷΑΝΟ(諸王の王、クシャーナのフヴィシカ)、裏にAΘþO(アスショー)と記されている。
Ϸ(ショー)は、バクトリア語の表記に用いられたギリシア文字。P(ロー/ピー)に似ているが異なる。クシャーナ朝はギリシアのドラクマ幣制を採用し、貨幣の銘文もギリシア文字を利用した。遠いインドの地までギリシアの影響が及んでいたことには驚かされる。

ウニット銅貨

2世紀後半、クシャン朝の国王フヴィシカの治世に発行されたウニット銅貨。表にディアデマを戴き、頭部から円光を放つフヴィシカ。王は白象に跨り、左手に象を操る棒アンクス、右手にヘラクレスを象徴する棍棒を握る。裏には三叉の槍を持つ破壊神シヴァとクシャン朝の紋章を刻む。

ウニット銅貨

2世紀中頃、クシャーナ朝の国王カニシュカ1世の治世に発行された青銅。左手に槍を持ち、右手を拝火壇にかざすカニシュカ。長袖のカフタンとズボン、ローマ風の丈の短い外套パルダメントゥムを召す。両肩の炎は『大唐西域記』の記述にある龍討伐者としての神性を表す。裏には太陽神ミトラスを刻んでいる。

ウニット銅貨

227〜247年頃、クシャーナ朝のカニシュカ2世の治世に発行された。表にカニシュカ2世、裏にクシャーナの豊穣神アルドクショーを刻んでいる。アルドクショーは豊穣の角コルヌコピアを抱えている。彼女はギリシアのテュケ、ローマのフォルトゥーナ、インドのハーリティーと同一視された。

ウニット銅貨

パキスタンのガンダーラ地方で出土した銅貨だが、状態が悪い。年代は2世紀のクシャーナ朝のもので間違いないが、摩耗により図像の断定が難しい。とはいえ、おそらく表が王で、裏が神の意匠だろう。太陽神ミトラスや火神アトショーあたりが描かれていると考えられられる。


《アフガニスタン・バクトリア遺跡》
アフガニスタン北部にかつて存在した古都。非常に質の高い石製製品や青銅器が出土する。ヘレニズム期に入るとマケドニア系ギリシア人の支配下に入る。

青銅製化粧瓶

前2000年頃の作と推定される。この中に顔料が保存され、細いピンを用いて取り出した。器面には捻り紋様のような装飾が施されている。口縁は埃や塵の混入を防ぐため、すぼまった形にされている。4000年前の人々もメイクには気を遣っていた。現在も変わらずメイクは人々にとって大切なものである。当時の青銅は高級品ゆえ、持ち主は裕福な者だったのだろう。バクトリアについては不明点が多いが、イラン系民族によって築かれたことは判明している。

青銅製車輪型印章

前2000年頃のバクトリアではこうした車輪状の印章が出土し、そのヴァリエーションは無数に存在する。デザインの差別化によって何らかの意味を持たせていたのだろうが、その規則性はまったくわかっていない。とはいえ、インクでなく、粘土に押し付けて使用する仕組みの印章だった。

青銅製動物文首飾り

アフガニスタンのバクトリア遺跡出土。前300〜前100年頃の作と推定される。孔雀と馬、空想動物のグリフィンが表されている。いずれもオリエント世界では重要な動物だった。上部に開いた2つの孔に紐を通していたのだろう。装身具は魔除けや権力誇示のため、男女共に身につけた大切なものだった。

緑釉土製ランプ

イスラーム のランプ。12世紀頃の作。手の平サイズの小さなランプで、持ち運びに適している。こうしたランプは住宅の跡地だけでなく、墳墓からも出土することから宗教的な意味合いも内包していた。燃料はオリーブや椰子、胡麻の油を利用していた。電気がまだない当時、ランプは夜中に行動するための必需品だった。

以上、35点の考古遺物共に西南アジアの世界について駆け足で紹介した。西南アジアは東西世界をつなぐ十字路として太古より重要な役割を果たしてきた。
この地の謎に迫ることは、人間の謎を解き明かすことに他ならない。この記事を読んだあなたは、今日から史学探偵の仲間入り。謎解きには資格も地位もいらない。ただ知りたい。それだけでいい。知りたくて仕方がない。それが一番大切で必要なものである。
古代文明ほど面白いものはそう多くない。だが、世の中ではどこか堅苦しさや難解なイメージを抱かれて敬遠されつつある。そうした障壁を取り払い、敷居を下げて一人でも多くの人々にこの面白さを伝えるのが私の夢である。

Shelk 詩瑠久

*掲載画像は筆者私物を撮影。

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