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小説の執筆をライブで観る

 今回は、以前に投稿した記事を加筆および再編集してお届けしております。長い記事なので、下の目次をご覧になり、興味のあるところからお読みください。盛りだくさんな内容になっています。


*小説の執筆をライブで観る


 小説はどのようにして書かれるのでしょう? ただし、書店や図書館に置かれている小説に話を限定します。

 作家さんが原稿用紙に向って、またはパソコンの画面に向って手と指を動かして書いているに決まっています。今のところはそのようです。これから先はわかりませんが。

 作家さんによる執筆のライブ・パフォーマンス――。

 私はこの目で見たことはないのですけど、聞いたことがあるし、何かで読んだこともあります。

 高いお金を払って、作家の真横に一席設けてもらって、ネチーっとか、ジトーっと見つめるのではありません。

 いくらお金のためとはいえ、執筆に集中している作家さんが、そんなことを許すとは考えにくいです。

 作家さんたちにとって、執筆は真剣勝負です。うんうんうなったり、あまりにも苦しいので発作的に叫んだり号泣する方もいると漏れ聞いています。こっそりと逃げたり、行方をくらます方もいるそうです。

     *

 アレです。

 おわかりになりましたでしょうか? 

 じらすのはやめて言います。

 いわゆる「カンヅメ・缶詰」(一説に「館詰」)です。小説の執筆を職業にしている作家さんの執筆をライブで観ることができるのです。

 ただし、観ることのできる人は限られているようです。たとえば、担当の編集者さんが考えられます。あるいは、作家さんの家族とか……。

     *

 作家の執筆は、「始まりと途中と終わりがあるもの」という記事で述べたように、小説という作品の制作と鑑賞においては、「始まりと途中と終わりがあって、たちまち消えるもの」と位置づけることができます。

 行為であり動きだからです。執筆とは行為でありパフォーマンスなのです。動きなしに作品は生まれません。でも、この動きは忘れられがちです。

 忘れられがちなのは、執筆がつぎつぎと消えていくものとして起こる出来事だから当然だと言えます。しかも、普通は隠されています。見えないところで行われているのです。

 その代り残るものがあります。それが完成した作品なのですが、下書きとか自筆原稿とかメモとかゲラが残っている場合もあるそうです。個人的には後者に興味があります。

*始まりと途中と終わりがあって、たちまち消える
・楽曲の演奏、媒体から再生された楽曲(音声)
・お芝居の上演、媒体から再生されたお芝居(映像)
・映画の制作、映画の上映(銀幕上の影)
・小説の執筆(創作の現場での作業というか、いわばパフォーマンス)、小説の読書(黙読・おそらく頭の中で起こっていること)や音読(読み聞かせも含む)、つまり広義の鑑賞

*始まりと途中と終わりがあって、残っている
・楽曲の譜面(もしあればの話)、楽曲の演奏が録音された媒体(レコードやCDなど広義のディスク、録音テープ)
・お芝居の台本(もしあればの話)、お芝居の上演が録画と録音された媒体(広義のディスク、録画テープ)
・映画の台本や制作の記録や資料(もしあればの話)、フィルムとサウンドトラック
・執筆された小説の下書き・メモ・自筆原稿・ゲラ(もし残っていればの話)、完成した小説(書物、雑誌の掲載)

*証拠の動画


 北方謙三氏が缶詰にされている証拠の動画をご覧ください。

 次は、冲方丁氏のカンヅメ動画です。


     *

 すごいです。かっこいい。

 根がミーハーな私なんか、「私も缶詰にされてみたいわん」と思わず口にしそうになります。

 Yes, I can. Yes, you can.

 なぜか、can には「缶」と「缶詰にする」という意味があります。

 ちなみに、新語・流行語大賞の現在の正式名称は、「ユーキャン新語・流行語大賞」だそうです。イエス、ユー・キャン。

 さきほど言いました「アレなんです」と話がつながりました。去年の話ですけど。

 今年の大賞がもうすぐ発表されるそうです。

*You can can with this can what you can can.


 気になったので 助動詞ではなく動詞の can を辞書で調べてみました。語源もおもしろかったのですが、次の例文に興味を惹かれました。

 We eat all we can but what we can't we can.
 食べられるだけ食べますが、食べられないものは缶詰にします。
(「ジーニアス英和大辞典」(大修館書店)より) 

 このように見慣れた can が見慣れていない使い方をされているのを目の当たりにして起きる目まい感は、ルイス・キャロルの作品を英語で読んだときの目まい感に似ています。

 くっきり見えていながら見えない、つまり、ちゃんと読めるのに意味不明で不可解なのです。

 はっきりと文字と文字列が見えていながら、けない、ほどけない。もつれている、ねじれている、からみあっている、もじれている、こじれている、ねじれている、ねている。

 言葉遣いが平明であっても難解(解き難い)ということがあります。ルイス・キャロルの文章は、まさにそれです。

     *

 上の例文を真似て、英借文をしてみました。

 What you can can
 you can can
 with this can.

 缶詰にできそうなものは、この缶を使って缶詰にすればいい。

 リズムを優先するために倒置しすぎたかもしれません。

*ホテルで


 で、ふと思いついて、次の日本語の文をグーグルの翻訳機能を使って、英語に訳させてみました。

 その作家は三日間ホテルで缶詰にされた。
 The writer was confined in a hotel for three days.

 ちゃんと、「缶詰にする」という日本語のやや特殊な意味を機械(システム)に学習させてあるのですね。

 confined ではなく canned にするのではないかと想像していた私が浅はかでした。

     *

 ホテルで缶詰――。

  もしconfined ではなくて canned だったら……。

 村上龍の短編集『トパーズ』に出てきそうな幻覚の光景というか。

 女性によるあの独白体、私は好きです。とくに『卵』と『紋白蝶』と『鼻の曲がった女』の描写と語りが忘れられません。

 念のために、グーグル翻訳で試してみました。

 その桃はホテルで缶詰にされた。
 The peaches were canned at the hotel.

 素晴らしい出来の翻訳ですね。しかも、桃がちゃんと複数形になっています。

 ホテルで桃の缶詰を製造するなんて、いささかシュールな絵ですが、語法上の問題はなさそうです。

*監視、軟禁、監禁


 人の缶詰に話をもどしますけど、いまでも、あるんですね。

 私が聞いた話だと、かつて売れっ子の作家さんたちが、高級ホテルや高級旅館に閉じ込められて、担当の編集者さんの監視のもとで、原稿を書いていたらしいのです。

 あと、作家さんの自宅に担当者さんが上がり込んで、書斎近くで見守るというか見張っているケースも聞いたことがあります。

 つまり、小説執筆のパフォーマンスをライブで見ることができるのです。

 締め切りが迫ってくると、作家さんが発作的に大声をあげたり、泣いたり、編集者さんに怒鳴り散らしたり、あるいは助けてくれとすがったり、はたまた逃げようとたくらんだり……という殺気立った雰囲気の修羅場のような光景だったらしいのです。

 そして、ついに原稿が産声をあげる。おぎゃー。

 すると、隣室で、または作家さんの後ろで控えている編集者さんが、駆けつけて、第一番目の読者になる。

 その場でオーケーとなり、編集者さんが印刷工場へと車を走らせる。その車のなかで校正がおこなわれる。

 あるいは、作家さんをまじえてのすったもんだになった挙げ句に、晴れて原稿の完成となる。

     *

 以上が、私が何かで読んだり聞いたことのある缶詰のイメージです。

 ようするに、作家さんが出版社や編集者さんたちの監視下に置かれるわけで、一種の軟禁であり監禁とも言えそうな気がします。

     *

 「複製でしかない小説(複製について・03)」でも紹介した、以下のドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の自筆原稿ですが、私は最近よくこの写真を眺めます。

 私が若いころに数年かけて日本語で読んだあの小説が――新潮文庫でした――、こんなふうに書かれていたのです。

 ドストエフスキーは、どれほどの時間、年月をかけて、どんなふうに書いていたのでしょう。直しはどれくらいしたのでしょう。

 そもそも各部分、つまり細部を書いているさなかのドストエフスキーは、完成された作品全体を見通していたのでしょうか? 作品は外に外としてあったのだろうと想像します。その外にある物(異物と言ってもいいでしょう)を眺めながら書いたし描いたのだろうと想像します。

 上の自筆原稿が印刷所にまわされて、活字が組まれたのでしょうか? 最初にこの原稿を目にした人は誰だったのでしょう?

 ロシア語の文字(キリル文字)の組版はどんなものだったのでしょう? やはり、一文字一文字を職人さんが拾って組んだのでしょうか? 最初に活字で印刷された『カラマーゾフの兄弟』の出だしはどんな字面をしていたのでしょう?  

 空想と想像と妄想は尽きません。私にとっては幸せなひとときです。

     *

 話を缶詰と軟禁・監禁に戻します。

*犯罪


「一種の」軟禁であり監視どころか、「ほんまもんの」軟禁というか監禁もあります。犯罪なのです。

 それもファンである一読者が作家を拘束して監禁するのです。

 こうなると立派な犯罪です。

 ぴんときた方もいらっしゃるにちがいありません。あれです。

 そうです、小説ですね。あの小説……。映画にもなりました。

     *

 アレなんです。

 なんて気を持たせるのはやめて、さっそく、スピード感をもって、真摯に丁寧に言いますが、スティーヴン・キング作の『ミザリー』です。

 私は小説のストーリーを要約するのが苦手なので、ウィキペディアさんに丸投げします。

 映画も――私は映画が苦手でまともに見られないのです――、ついでに丸投げいたします。

 映画の予告編も、どうぞ。


 怖いですね。

 私はスティーヴン・キングの大ファンで、まだ読んでいない本が書棚にも、書棚の横の段ボール箱にもいっぱいあります。大ファンなら、早く読めよ、ですよね。

 積ん読については、以下の記事を、どうぞ。恥をさらしていますので。

*ホラー


 ホラ、キングの小説では、やたら大雨や大雪が出てくるじゃないですか。それものっけから。

 たとえば、そうです。あれ(it)です。

 以下は、大作『IT』の映画バージョンの出だしです。

 作品でやたら大雨や大雪が出てくるのは、キングの大ファンを自称なさっている宮部みゆきさんの小説でも、そうです。

 書く時の作家の癖について書いた記事「書くべきものを書いてしまう人たち」がありますので、よろしければお読みください。スティーヴン・キング、宮部みゆき、角田光代、吉田修一、古井由吉、レイモンド・カーヴァーに触れています。

 なお、上の記事に出てくる作家たちの諸作品については、「「客」小説」という切り口で、お話しし直す予定です。

 この「「客」小説」という妙なネーミングについて興味のある方は、以下の「「似ている」を求めて(「客」小説を求めて・01)」をご覧願います。

     *

 で、スティーヴン・キングに話をもどしますが、大雪と山奥と大きな館のホテルの出てくる『シャイニング』では、一種の監禁状態に置かれた作家志望の男性が自分を追いこむさまが、キング独特のサスペンスフルでねちっこい筆致で描かれています。

 これも広義の缶詰ではないでしょうか。というか、これこそまさに館詰


 大雪、山奥、大きな館のホテル――。

 山奥ではなく、大雪の降るなかでの、東京のど真ん中にある大きな館のホテルといえば……、そうですね、宮部みゆきさんの『蒲生邸事件』を思いださずにいられません。

 どこかで、宮部さんが、この作品は『シャイニング』へのオマージュだと語っていらした記憶があります。私の大好きな作品です。宮部さんの本もたくさん持っています。

*死体


 ところで、キングの作品では、作家や作家志望者がよく出てきますが、これもまた作家キングの癖と言えます。

 上で触れた『ミザリー』も『シャイニング』もそうですが、キングの作品でもっとも有名な『スタンド・バイ・ミー』でも、ある作家がある事件をきっかけにして少年時代を回想するという形になっていますね。

 以下の動画の1:03を見ると、そこがよく分かります。

 このように、小説家や小説家志望者が主要な登場人物(あるいは視点的人物や語り手)として出てくるために、キングの小説には「小説の小説」、つまり「メタ小説」の要素がある、なんていう文芸批評もかつて読んだ覚えがあります。

 ところで、この作品の原題は The Body つまり「死体」ですが、まさに少年たちによる「死体さがし」の物語です。私にとって思い出に残っている作品です。

*自主的な軟禁や拘禁


 さきほど、「広義の缶詰」と言いましたが、「缶詰・カンヅメ」を広く取ると、それに当てはまりそうな作品がいくつかあるのに気づきます。

 作品を完成させるという目的のために、作家を監視したり監禁する。これが、いわゆる「缶詰」です。

 作品を完成させるという目的のために、作家自身が自分を小説の執筆から逃げられない状態にする。これもまた、広義の缶詰の一形態であると考えられます。

    *

 たとえば、アレです。

 持病の喘息の発作が起こらないように、発作のために例の長い長い作品の執筆が滞らないようにするために、部屋の壁をコルク張りにしたという、例のマルセル・プルーストの逸話が、自主的な軟禁ではないでしょうか。

 以下の動画は、マルセル・プルーストの家政婦から見たプルーストの晩年を描いたショートフィルムで「再現」された「コルク張りの部屋」をつくる様子をおさめたもののようです。

 セットとはいえ、リアルな映像で、夢に出てきそうな気がしてなりません。喘息持ちの私としては、夜中の発作だけは勘弁願いたいです。

     *

 この La part céleste という短編映画についての英文の資料では、Marcel Proust is confined by illness to his room. という文が見えます。

 ここでの be confined は「病床に伏す」の意味ですが、confine は「監禁する」という意味でも用いられる動詞です。さきほど、グーグルの翻訳機能を試したら、「缶詰にする」の特殊な意味を学習済みだったという、あの話です。

 つまり、プルーストも広義の缶詰状態にあったと言えるでしょう。

     *

 以下は、「始まりと途中と終わりがあるもの」でも紹介した、マルセル・プルーストの命日である11月18日ころに、私のXのタイムラインに流れてきた、プルーストの自筆原稿の写真です。

 プルーストは、自己監禁というか自己軟禁というか自家製缶詰めというか、とにかく自ら自分を部屋に閉じこめて、以下のような原稿を書いてたのでしょう。

 瞑目、合掌。

 想像すると感慨無量になります。私は涙もろいのです。

 なお、以下は『失われた時を求めて』の冒頭のセンテンスらしいです。写真の出所が不明なのですけど、ご参考までに。

 いずれにせよ、例の「Longtemps, je me suis couché de bonne heure.」が見て取れます。

*桃缶


 缶詰にされた、あるいはされているのは、小説家だけではないでしょう。ハードなスケジュールを課され、締め切りに追われる漫画家さんや、エッセイストを含む広義の作家さんたちも、缶詰の対象になると考えられます。

 缶詰、漫画、エッセイといえば、あれです。あのお方を差し置くわけにはまいりません。

 じつは、さくらももこさんのことを書きたくて、この記事を書きはじめたのです。缶詰という言葉で、まっさきに連想したのが、『もものかんづめ』でした。大好きなエッセイ集です。

 残念ながら、さくらももこさんがカンヅメを体験なさったかは、調べても分かりませんでした。不明なままの謎があってこそ、人生は楽しいと私は考えています。

*まとめ


 小説執筆のパフォーマンスをライブで見る――。これはあります。いわゆる「缶詰」です。

 限られた人だけが――たとえば担当の編集者が――、原稿や作品ができあがる過程をつぶさに見ることができます。

 そして、第一番目の読者になれるのです。

 出来たてのほやほや、湯気の立つような原稿や作品を鑑賞する。初めての読者。そんな贅沢きわまる小説の鑑賞がありうるのです。

     *

 他人によって監禁される、あるいは自分で自分を監禁する場合があるほど、作家にとって執筆は苦しく困難な作業なようです。

 それが職業ですから、逃げられないのです。

 私のような軟弱な人間には無理。

 どう考えても、No, I can't.

 話は、そんなところに落ち着くようです。

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