「言葉」そのものの力について考えることがある。言葉は見えないから、だからこそこわい。自分の発した言葉が、相手を傷つけてないかとか、今日のあの自分の発言は相手にとって失礼ではなかったかとか、考える。日々それを扱う際は気をつけなければと思っている。 でもたまに、言葉に力があるのではなくて、言葉は言葉であって、それをくれる人の人柄や人と成りが、その言葉に意味付けをさせてるのかなと思ったりもする。 「大丈夫?」の一言が、相手に心配や労いと受け取ってもらえるか、そうでないかは相手と
昔から輪に溶け込むのが苦手だった。 話に入ることも、話題を提供することも、広げることなんて論外。 知識不足で人と感覚がズレている。共感力も低ければ、傾聴力もない。感受性に乏しい。 今までよく人間を続けてこれたなあと、自分で感心するほどだ。それ故、無意識にいろんな人に迷惑もかけてきたことだろう。申し訳ない。 大人になった今も私のそうした資質は何も変わってないはずなのに、ときたま不思議なことに「あれ私、今、会話ができてる気がするぞ」と思えることがある。それはきっとすべて、相
ふと、自分の30歳の誕生日の日を思い出した。 「その運命の日」が近づくにつれて 、私が30という節目を迎えることに、自分より周りの方が表向きだけど気にかけてくれて、何かと話題に出してくれた。 「もう少しだね」「いよいよ30か」 当の私はというと、 年齢をひとつ重ねる毎年のイベントが、今年もまたやってくる、くらいの感覚だった。友達もいない、きっと変わりばえのない一日になるだろうと。 しかし当日は、ある人のおかげで、予想に反してそれはとても幸せな、記憶に残るような特別な一
私は自分の何もかもが嫌いだった。 しかし最近、自分の中にたったひとつだけ「好き」な部分を見つけることができた。それは、 人の心の綺麗さに素直に感動できるところ。 そう思えたのは、ある人との出会いがきっかけだ。 その人が発する温かい言葉、それに伴う誠実な行動一つひとつに触れる度に「素敵」「優しい」「美しい」「綺麗だ」といった感情が私の中で芽生えた。自分に備わっていたその感性に、好感が持てた。 美しいものを心から美しいと感動できる自分は、なんだか「生きてる」と、実感が持てた
幼い頃、私は日常の至る所に「遊び」を生み出すことが得意だった。 暇ができようものなら近くにあるもので工夫をして何かしらの「遊び」を見出した。 例えば、均等に窪みのある平たいクッションをたこ焼き器に見立てて、夢中で焼く真似をしては時間を過ごした。 絵を描くことができる曇りガラスを見つける度に、胸が踊った。 カメラやパソコンなどの電化製品に憧れて、紙で模倣品を作ってはひとり、楽しんでいた。 動物は苦手だったものの犬の散歩に憧れて、紙で作った犬に紐を付けては、部屋中それを
先日、大切な人と少し遠出をした。 それまで不安定な天気の日が続いていたが、その日だけは唯一の猛暑日で、久しぶりに青い空を見た。 小学校へ上がるのと同時に、私は今の土地へ引っ越してきた。 引っ越す前、私にはある目標があった。 それは当時住んでいた自宅近くにあった神社の橋を、一人で渡ること。 その橋は湾曲が激しく、6歳の私にはハードルが高くて、結局恐怖に負けて渡れずじまいだった。 24年越し、30歳になった私は、大切な人と一緒に、再びその神社を訪れた。 改めて見ても、それは激
誰かから「嫌なこと」をされた時、こちらはその相手に対して 「なんでこの人は、こんな嫌な振る舞いをわざわざしてくるのだろう」と思う。 でもその私が感じた「嫌な振る舞い」は、果たして相手にとっても「嫌なこと」なのだろうか? その人にとっては「嫌なこと」じゃないから、悪気なくしてくるのではないだろうか? そもそも悪気があると判断してるのは、こちらの問題なのかもしれない。それについて考えて、嫌な思いをしている私のこの時間は、一方通行な、無駄な時間なのかもしれない。 そう考え
私たちがよく耳にする「共感」という言葉。 自分のことを共感してもらえると安心するし、大切な人のことなら、なおのこと共感したいと思う。 私は、共感に必要なのは「言葉」だと思っていた。 だから、大切な人が悩んでいたら「そこから抜け出せる提案(言葉掛け)をしなければ」と思っていたし、実際にそうしようと努めていた。大切な人が自分を責めていたら「そんなに自分を責めないでほしい」と声を掛けたこともあったけど、そう言葉掛けをする度、自分に対して「その人は、それができないから悩んでるん
説明できないことがあってもいい普段過ごしていると 「なんとなく〜」とか「説明できないけど〜」のような、言葉ではなんとも表現しづらい感覚を持つことがある。 作品に触れて生まれるその感覚 人と関わって生まれるその感覚 機嫌だってそのひとつだ。 何かあったわけではないのに涙が出てくる しきりに心がザワつく、謎の空虚感 その感覚(感情)一つひとつに、わざわざ理由をつけなくてもいいのかなと、最近ふと思った。 その感覚に対する捉え方を変えてみる突然嵐が来てしばらくすると去っていくよ
「文章」<「会話」 「文章」より「会話」で受け取った言葉の方が、グッと心に刺さりやすいし、意気込まなくともスッと心に入ってきてくれたりする。文章になっているものを自分で読むよりも、相手の声に言葉を乗せて、直接に受け取った方が、より「それ」を五感で感じられるし心が満たされる。 「人」=「言葉」また、同じ言葉を受け取った時に「誰に」その言葉をもらったかで、受け取った相手の感じ方は変わったりする。「言葉」と「人」は本来、切り離して考えなければいけないが、意外とそれは難しい。 例
私は「ありがとう」が口癖だ。 口癖だけど、相手に対して、心から感謝の気持ちを持ってその言葉を発している。 しかし、人によっては自分がした当たり前のことへ感謝されることに、違和感を覚えてしまう人もいる。 相手を不快にさせてしまうこの癖を、私はずっと、直さなきゃなあと思っていた。 そんな時「あなたは何にでもありがとうと言うことができて素晴らしいね」と言ってくれた人がいた。 私はその人に特段相談したわけではなかった。でもその人はそれをそっと拾い上げて、受け入れてくれた。伝え
先日ある映画を見た時、ふと「あのシーンは何を伝えたかったんだろう」と疑問に思う場面があった。 そんなときある方からいただいた言葉 「すべてに意味を持たせなくてもいいんじゃないかな?」 この言葉が、私にはけっこう刺さった。 ただただ「たしかにそうだよね」って思った。 というのも私は、結構前から「作品」に触れることが億劫になっていた。映画にしても、ドラマにしても、小説にしても… せっかくオススメしてもらっても、すぐには手が出せなかった。 あんなにテレビを見るのが好きだった
心の強さを人は何で測ってるんだろう ある人は自分ではない誰かに 「あの人はメンタル強そう」と言った。 それはおそらくその人自身と相手を比較して言っていた言葉だ。 ある人は(他人は関係なく) 「自分が強くあろう(あらねば)」と言った。 その人は矢印の先が相手ではなく「己」だったと思う。 人は自分と誰かを比較して「自分はあの人と比べてなんてダメなやつなんだ」と自分を卑下することもあれば、一方で「自分はあの人より大丈夫(マシだ)」と納得させようとしたりする。 「あの人は心
この世界はたくさんのことばで溢れている。 自分が発することば 誰かから受け取ることば 本、ネット、テレビ、音楽… たくさんの言葉が日々私のまわりを飛び交っている ことばがあるから私たちは 自分の思いを相手に伝えられ、 相手の気持ちを知ることができる 大切な人が悩んでいる時にはそっと寄り添えるし お互いの気持ちを確かめ合える 私たちにとってことばの存在が 当たり前なこの世界で 私は普段、ひとつひとつの言葉と 丁寧に向き合ってきただろうか 私たちが発する言葉の中で 実際に外
日々の生活において、普通なら見過ごすような小さな出来事でも、ひとつひとつ丁寧に拾っては、考え、思いやれる人がいる。 「あなたは、何でみんなにそんなに優しくできるんですか?」 と聞くと、 「年齢を重ねて経験を積んできたからだよ」 と返事をくれた。 しかし、同じ年齢を重ねていても、その人のように思いやれる人、そうでない人、気づける人、気がつけない人といる。その違いは、どこで生まれてしまうんだろう。 その人は「年齢」と答えてくれたけど、むしろ、人というのは、経験を積めば積む
私は学生の頃から 出来が悪い子でした。 兄が優秀だったこともあって (でもそれは兄が毎日 寝る間も惜しんで努力してた結果) それと比較して私は 劣等感の塊でした。 でも 兄のことは昔から大好きですし 今も変わらず尊敬してます。 多忙な親の代わりに よく面倒を見てくれたし、 兄は兄として、 いやそれ以上の役目を 果たしてくれてました。 なんていうか たぶんすごく責任感が強い人 なんだと思います。 まあ、そんな兄という お手本がいてくれたから ブレブレで外部の影響を受